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【4】遠くから見た夫の笑顔
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あと三軒ほど行きたいところがあったけれど、インクを買ったら今日は帰ろう。
インクを売っている店を通りすがりの親切そうな人に尋ねると丁寧に道を教えてくれる。
その店は街の端のほうにあり、最近できた新しい店だという。
「ごめんください。インクを買いにきました。少し店内を見せてください」
「どうぞ」
あまり広くない店内に、インクの小瓶が並んでいる。
黒だけでも少しずつ違う色のインクがずらりとあった。
私が探しているのは青いインクだ。青のインクが並んでいる棚を丁寧に探していく。
少し暗めの青で、僅かに緑を混ぜたような、そんな青。
あれでもないこれでもないと気をつけながら手に取って見るが、なかなかこれという色に行き当たらない。
「お探しの青はこういう感じでしょうか」
壁の前にカリンの入った袋を置いたアーサーから、小瓶を一つ手渡される。
それを光に透かして見ると、まさに私が探していた青色だ。
「この色……。私が探していた青色はこういう色です……」
探していた青色のインクを何故かアーサーが見つけてくれた。人気の色なのかしら。
「気に入った色を見つけられてよかったです。奥方様はそのインクで何を書かれるのですか?」
「……日記を書くのに使うつもりです。領地で、邸内で、見たものや感じたことをその日のうちにきちんと書き留めていこうと思って」
「なるほど、日記ですか」
希望の青色のインクと同じ物を三つ、店主に包んでもらう。
インクは作るときの匙加減で、同じ釜で作られたもの以外はまったく同じ色にはならないと聞いたことがあった。
それで同じロット番号のインクを三つ。
店主にお金を払い、店を出た。
「これで買い物は終わりです」
「今のインク店では、新しい領主だと挨拶をなさらなかったのは何か理由があるのですか?」
アーサーが不思議そうに尋ねてくる。
「……このインクは、私の個人的な買い物なので」
その時、向かいにあった帽子屋の店の中で、車椅子を押すクライブ様がいるのが見えた。
車椅子には女性が乗っていて、クライブ様はその女性にピンク色のつばの広いエレガントな帽子をかぶせている。
クライブ様は笑っていた。
あの女性がブリジット様なのだろう。
金色のまっすぐな長い髪にピンク色のワンピースを着ている。
ピンク色といっても明るすぎない落ち着いたピンク色で、とても上品に見えた。
自分が着ている洗いざらしのシャツに硬い素材の茶色のストンとした長いスカートが急にみすぼらしく思えてしまった。
自分のことをみっともないと思う気持ちは、比べる対象を見てしまうことによって生まれるのだと、こんな場面で今更のように気づく。
私はクライブ様の笑顔を見たのは初めてだった。
笑うと少し幼く見えるなんて知らなかった。
胸に何かが閊えているように、息苦しさを感じて胸を押さえる。
クライブ様に見つかってしまう前に、早くここを離れたほうがいい……。
不意にアーサーに肩を軽く叩かれて我に返った。
「不躾に触れてしまい申し訳ありません。そろそろ帰りましょうか」
「……はい。荷物もありますし、帰りましょう」
乗合い馬車の停車場まで行き、そこでアーサーと二人で会話もなく馬車を待つ。
私の後ろに居たアーサーにも帽子店にいたクライブ様が見えたと思うが、何も言ってこない。
どういう判断で黙っているのか、そのことを考えるとどんどん気持ちが沈んでいく。
笑い合っていたあの美しい二人が、どう見ても領主夫妻だった。
ならば私は何なのだろう。
街のいろいろな店で『領主の妻です』と挨拶をして回ったことが、恥ずかしさの塊となって私を圧し潰す。
やってきた乗合い馬車の中でも、何も会話は無かった。
次に街に来るときは一人で行くと押し切ろうと思った。
ここでの生活も日を重ね、孤独なのに誰かの目から逃れられない時間がずっと続くことに、だんだん疲れを感じ始めていた。
考えないようにしている『どうして自分ばかりがこんな目に遭わないとならないのか』ということを、うっかり頭の中で転がしているうちに馬車が屋敷に一番近い停車場に着いた。
馬車を降りてから屋敷まで少し歩く。
カリンの入った大袋をアーサーに抱えさせてしまって、申し訳なく思う。
でも、私が一緒に行くように言ったわけでもないのだからと、なんとか罪悪感を薄めようとした。
「この果実の袋はどこに置きますか?」
「そうね、こんなにあるから台所に置いたらピートの迷惑になるかもしれないわね。
二階の私の部屋の前に置いてください」
「かしこまりました」
アーサーはほとんど私しか使うことのない階段を上がり、私の部屋の前に袋を置いた。
「いろいろありがとう。これ、三人で召し上がって」
パン屋で買った、丸いパンの入った小さな袋を三つ手渡す。
「私個人のお金で買ったものでこの家のお金は使っていないから安心して。だからと言って賄賂になるとも思っていないので、よかったらどうぞ」
「……ありがとうございます、ピートとヘレナにも奥方様からと伝えて渡します」
アーサーが階段を降りて行く靴音が静かになってから、部屋に入る。
朝に汲み置いた水で手をすすぎ、買って来たパンを齧った。
まだ柔らかくて、小麦の香りがしてとてもおいしい。
本当は下の台所に行ってミルクかお茶をいれたいところだけど、それも煩わしかった。
自分の家であるはずなのに、お茶を一杯飲むのもままならない。
いっそのこと、ここに居る三人も別邸で過ごしてくれればいいのに。
用事があるときだけ私が呼べばくるというのであれば、気楽に過ごせるのにと思う。
買ってきたインクを机に飾るように並べて置いて、少しだけここが自分の居場所と思えた。
「綺麗な青……。夜明け直前の空のような」
窓から入る穏やかな光に透けて美しい青色のインク瓶を、いつまでも眺めていた。
インクを売っている店を通りすがりの親切そうな人に尋ねると丁寧に道を教えてくれる。
その店は街の端のほうにあり、最近できた新しい店だという。
「ごめんください。インクを買いにきました。少し店内を見せてください」
「どうぞ」
あまり広くない店内に、インクの小瓶が並んでいる。
黒だけでも少しずつ違う色のインクがずらりとあった。
私が探しているのは青いインクだ。青のインクが並んでいる棚を丁寧に探していく。
少し暗めの青で、僅かに緑を混ぜたような、そんな青。
あれでもないこれでもないと気をつけながら手に取って見るが、なかなかこれという色に行き当たらない。
「お探しの青はこういう感じでしょうか」
壁の前にカリンの入った袋を置いたアーサーから、小瓶を一つ手渡される。
それを光に透かして見ると、まさに私が探していた青色だ。
「この色……。私が探していた青色はこういう色です……」
探していた青色のインクを何故かアーサーが見つけてくれた。人気の色なのかしら。
「気に入った色を見つけられてよかったです。奥方様はそのインクで何を書かれるのですか?」
「……日記を書くのに使うつもりです。領地で、邸内で、見たものや感じたことをその日のうちにきちんと書き留めていこうと思って」
「なるほど、日記ですか」
希望の青色のインクと同じ物を三つ、店主に包んでもらう。
インクは作るときの匙加減で、同じ釜で作られたもの以外はまったく同じ色にはならないと聞いたことがあった。
それで同じロット番号のインクを三つ。
店主にお金を払い、店を出た。
「これで買い物は終わりです」
「今のインク店では、新しい領主だと挨拶をなさらなかったのは何か理由があるのですか?」
アーサーが不思議そうに尋ねてくる。
「……このインクは、私の個人的な買い物なので」
その時、向かいにあった帽子屋の店の中で、車椅子を押すクライブ様がいるのが見えた。
車椅子には女性が乗っていて、クライブ様はその女性にピンク色のつばの広いエレガントな帽子をかぶせている。
クライブ様は笑っていた。
あの女性がブリジット様なのだろう。
金色のまっすぐな長い髪にピンク色のワンピースを着ている。
ピンク色といっても明るすぎない落ち着いたピンク色で、とても上品に見えた。
自分が着ている洗いざらしのシャツに硬い素材の茶色のストンとした長いスカートが急にみすぼらしく思えてしまった。
自分のことをみっともないと思う気持ちは、比べる対象を見てしまうことによって生まれるのだと、こんな場面で今更のように気づく。
私はクライブ様の笑顔を見たのは初めてだった。
笑うと少し幼く見えるなんて知らなかった。
胸に何かが閊えているように、息苦しさを感じて胸を押さえる。
クライブ様に見つかってしまう前に、早くここを離れたほうがいい……。
不意にアーサーに肩を軽く叩かれて我に返った。
「不躾に触れてしまい申し訳ありません。そろそろ帰りましょうか」
「……はい。荷物もありますし、帰りましょう」
乗合い馬車の停車場まで行き、そこでアーサーと二人で会話もなく馬車を待つ。
私の後ろに居たアーサーにも帽子店にいたクライブ様が見えたと思うが、何も言ってこない。
どういう判断で黙っているのか、そのことを考えるとどんどん気持ちが沈んでいく。
笑い合っていたあの美しい二人が、どう見ても領主夫妻だった。
ならば私は何なのだろう。
街のいろいろな店で『領主の妻です』と挨拶をして回ったことが、恥ずかしさの塊となって私を圧し潰す。
やってきた乗合い馬車の中でも、何も会話は無かった。
次に街に来るときは一人で行くと押し切ろうと思った。
ここでの生活も日を重ね、孤独なのに誰かの目から逃れられない時間がずっと続くことに、だんだん疲れを感じ始めていた。
考えないようにしている『どうして自分ばかりがこんな目に遭わないとならないのか』ということを、うっかり頭の中で転がしているうちに馬車が屋敷に一番近い停車場に着いた。
馬車を降りてから屋敷まで少し歩く。
カリンの入った大袋をアーサーに抱えさせてしまって、申し訳なく思う。
でも、私が一緒に行くように言ったわけでもないのだからと、なんとか罪悪感を薄めようとした。
「この果実の袋はどこに置きますか?」
「そうね、こんなにあるから台所に置いたらピートの迷惑になるかもしれないわね。
二階の私の部屋の前に置いてください」
「かしこまりました」
アーサーはほとんど私しか使うことのない階段を上がり、私の部屋の前に袋を置いた。
「いろいろありがとう。これ、三人で召し上がって」
パン屋で買った、丸いパンの入った小さな袋を三つ手渡す。
「私個人のお金で買ったものでこの家のお金は使っていないから安心して。だからと言って賄賂になるとも思っていないので、よかったらどうぞ」
「……ありがとうございます、ピートとヘレナにも奥方様からと伝えて渡します」
アーサーが階段を降りて行く靴音が静かになってから、部屋に入る。
朝に汲み置いた水で手をすすぎ、買って来たパンを齧った。
まだ柔らかくて、小麦の香りがしてとてもおいしい。
本当は下の台所に行ってミルクかお茶をいれたいところだけど、それも煩わしかった。
自分の家であるはずなのに、お茶を一杯飲むのもままならない。
いっそのこと、ここに居る三人も別邸で過ごしてくれればいいのに。
用事があるときだけ私が呼べばくるというのであれば、気楽に過ごせるのにと思う。
買ってきたインクを机に飾るように並べて置いて、少しだけここが自分の居場所と思えた。
「綺麗な青……。夜明け直前の空のような」
窓から入る穏やかな光に透けて美しい青色のインク瓶を、いつまでも眺めていた。
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