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失格聖女編

08あの、それコンプライアンス違反では?

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 急に目の前がぐにゃりと歪んだかと思うと、いつも漂う花の香りがふと消えていることに気が付いた。


「っ……ぁ?」


 ここは、どこだ?
 くらりとする視界の中、自分がいる場所を確認すれば、そこは訓練場に続く廊下だった。
 見慣れた道だ。
 毎日の様に通った道。
 最近は?
 いつだったか。

 そうだ、ユナの護衛と指導に選ばれてからだ。
 誰に選ばれたのだっただろうか。今までどんな小さな事でも忘れたことが無かったのに、ここ数ヶ月はどうも記憶が曖昧で、細やかな事を思い出せなくなっていた。
 ユナに指名された? そうだっただろうか。
 記憶の中を彷徨うも、どうにもその辺りの記憶がおぼつかない。
 霧が覆い隠す様に、すっきりと思い出すことができない。
 私は、いったい……?いまだにふわふわする頭を片手で覆うと、「大丈夫ですか? ハウ隊長」と声が掛かった。
 
 重い頭を持ち上げると、心配そうに私を覗き込む騎士団の部下のジョネルがいた。年若いが優秀な彼は私がスカウトしたのでよく覚えている。
 しかし、様子が、違うな……?


「すまな……ジョネル……きみ、そんなに筋肉質な男だったか?」
「え? ああ! 実は今、トキ様のもとで働かせていただいているんです!」
「それはどういう、君は僕の隊の隊員だろう、どうして」

トキ、誰だろうか。聞き覚えがない。
 それに自分の隊員を手放すなんて許可した覚えも全くなかった。


「? ああ、何故ここに居るのかと言うことですか?ハウ隊長達が、聖女ユナ様をお守りするのに大勢は不要と仰ったので、私たちが職を失う所だったのをトキ様に拾って頂いたのです!」

 弾けるような笑顔でとんでも無いことを言うジョネルに思わず絶句した。
 開いた口が塞がらない。
 なんと言っていいのか咄嗟に言葉が出てこなくて、口が白々と魚のようにただ開いては塞がった。苦労して築いた精鋭のチーム、武力の才能はあまり無かったが、魔法の才能はある年若い騎士達。自分が育ててきて、これからさらに向上していく予定だった。

 それが、何故?

「一体いつ私が隊を離れると……」

「あ、すみません! もう行かなくては!」

 ジョネルが何かを見つけたのか、遠くに向かって手を振るのを呆然と見る。

 手を振りながら走りゆく背中を見ていれば、ジョネルが私の手元を指差す。

「それ、ぜひ他の隊長達とも食べてみて下さい! 一つしかなくてすみませんが……私が発案した自信作なんです!」

 いつのまにか手の中にあった、食べかけの棒状のクッキー。
 どうやら私は一口齧ったらしい。
 
「……発案」

 見れば見るほど、美味しそうなそれは、濃厚なチーズの香りと、赤い実がチラリと見えている。
 これはトマトか?
 カラカラに乾いたトマトが細長い棒の中に練り込まれている様だった。
 携帯食、だろうか。
 だろうな。指で表面をなぞればポロリとほんの少し表面が砕けはするが、それでも固いまま形を保っている。
 ただ、騎士の持ち歩く携帯食といえばマズイと評判で、誰もが食べたくないと口に出すような、そう言った類のものだった。

 これはどう違うのだろうか。

 恐る恐る、ほんの少し齧ってみる。
 あれ?
 美味い。
 この濃厚なチーズの香り、そして塩の効いた干したトマトの意外な甘み。
 菓子、と言うよりもちゃんとメインの料理の様な味わいがする。

 これを発案。
 これを発案だと?

 確かに彼は有能だが、こういった才能があったのだろうか。

「開発の才があったとは、知らなかったな」

 彼の生き生きとした表情を思い出す。
 そういえば、街中は今までに無かった様な料理が次々に販売されていた。
 少々ユナの好きな物とは違った様だが、ユナも喜んでいた。もしかして、それを促しているのは、「トキ様」という人物なのか?
 一体どんな———




「ハウ様」




 ———鈴の鳴る様な声がする。
 振り向くと、そこにはユナが立っていた。


「どうしたんです? こんなとこでぼぉっとして」
「あ……ああ、すまない。私の隊の者と話していたん——」
「隊?」

 私の話に被せる様に、やや強い口調がかぶさってくる。冷ややかなものが、含まれる声にびくりと肩が鳴った。
 そうだ、ユナは、ウレックス殿とダトー殿は隊の者がクビになっていた事は伝わっているんだろうか……?私はそんな事を言った覚えはないが、彼は受け入れている様だった。それにどちらかと言うと、今の方が気に入っている様な態度だった。

 私が言いあぐねていると、ユナが「ハウ様」と甘えた声をあげる。私はどうしてだか、この声を聞いてしまうと逆らえない様な、そんな気分になってしまう。
 ゆっくりとユナが私の側に近寄り、寄りかかる様に私の胸にしなだりかかった。
「……! ユナ! お戯れはっ」
「あれ?……変なの。魅了が効き目が薄い……?」
「え?すみません、よく聞こえ無かったのですが」
「……ううん! なんでもないの。ハウ様、私の目を見て?」
「は、はい」

 何故だか胸が騒ぐ。この目を見てはいけないような、そんな気がしてならない。
 それなのに、この甘い声には逆らえない。
 変な気分になってくる。
 彼女の声だけが、耳に鮮明に入ってきて、蛇のように頭を這い回っていく。

 まん丸とした大きな目の中に浮かぶ、瞳の中には星空が広がっている。美しいく、目が眩むほどの眩さ。ああ、なんだか、ずっと見ていたくなるような優しい光。










 ———あれ?


 何故、私はこんな場所でユナと見つめ合って……?ハッとしてユナを見ると、存外近い距離に慌てふためく。彼女の肩を掴んで顔を覗き込むなど、変態の所業!肩に置いていた片方の手をサッと手を顔の隣に構えて、無抵抗のポーズを取れば、ユナに「そんなのいいのに~」とくすくすと笑われてしまった。
 あっという間に顔に熱が集まり、羞恥で口から火が出そうだ。興奮して口から火を出す蜥蜴の魔物の気持ちがほんの少しわかった。

「え……っと、なんだったかな」
 

「ああ、なんか隊がどうとかって言ってたよ。でもね、ハウ様。私にはハウ様とウレックス様とダトー様っていう強くてかっこいい騎士がいればそれだけで十分よ!それ以上なんか要らないわ」


 そうだ、そうだな。
 彼女を守るのに大勢の男は不要だ。彼女の近くに多くの男が寄るのは許しがたい。
 何より邪魔になる。
 本当は自分の手だけで守りたいが、ユナの望みであるから、少しだけ我慢だ。彼女は健気にこの国のために頑張っている。
 彼女を守らなくては。

「ああ……! 任せてください」
「ハウ様、大好き! ありがとう!」

 胸に飛び込むように控えめに抱きついてきたユナは、私の手を引いて「みんな待ってるよ」と言う。引きずられるように手を引かれると、何かがポロりと床を転がった。

 視界の端で粉々に散った『何か』

 まぁ、いい。
 ユナも気にしていないから、おそらくなんでもない。気のせいだろう。

 早く、と急かすユナの温かな笑みが私の心に染み渡っていくようだった。
 胸になんとも言えない幸福感が広がっていく。

 今はこの幸福を大事にしたい。



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