深淵のバラッド —あやかし捜査官 朝美楪の怪異事件ファイル—

藤香いつき

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File.01 闇色の秘密

緋色の警告

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 與捜査官は、非常に気分を害されたようすで捜査室を出ていった。
 最後は怒りの笑みだった。
 
「お前だけは、今後なにがあっても助けねぇわ」
 
 警察官にあるまじき捨てゼリフまで吐いていった。
 私はキーボードを鳴らし始めたが、思い出し笑いのように唇から息をこぼしていた。天の邪鬼。似合う。ふふっ。
 勝手に笑みを鳴らす唇に、
 
(あれ? こんなふうに笑うのって久しぶりかも……?)
 
 り固まっていた精神が、少しほぐれるような感覚があった。誰かと気兼ねなく話す機会を、最近は得ていなかったのか……。
 思考の表層をかすめた疑問は、ふいに別の音によってき消された。
 
 ——クスっ、と。
 打ち込む文字の狭間で、呼気の音が聞こえたのだ。笑うような。
 私じゃない。
 
 びくりと振り返った。たった今まで、空気の揺らぎひとつ感じられなかった背後から、気配がした。
 デスクが並ぶスペースには誰もいない。その奥に鎮座する可動式の棚のかげから、クスクスと笑う声がする。
 
「だ、誰ですかっ?」
「おや、驚かせたかのぅ?」
 
 陰のなか、すらりと立ち上がる者があった。
 注意して見れば、壁に寄せられたソファがある。死角のような陰から現れたのは、黒髪の——。
 
「あっ」
 
 緋色ひいろの眼に、すぐさま思い出した。年寄りぶる不審な青年。私が拾った(くすねた)警察手帳の持ち主。
 気づいた私に、青年は薄く微笑んで首を傾ける。
 
「じつに短い逃亡劇じゃったのう」

 からかいの声が、うたうように響いた。なんの話か。戸惑う私を気にせず、彼はゆるりとした足取りでこちらまで歩いてくる。
 
「えっと……?」
「——あぁ、名乗っておらんかったか」
 
 青年のまとう、長いトレンチコートの裾が揺れる。
 
緋乃縁ひのふち 椿つばきじゃよ。お見知りおきを、お嬢さん」
 
 近づいた青年から、ふわりと花の香りがした。廊下で衝突したときにも感じたが、ほのかに甘い。
 ひのふち、つばき。警察手帳の中身を見ているので、字面もぼんやりと浮かぶ。赤色がイメージされる名前だったはず。
 私を細く見下ろす双眸そうぼうも、この世の者と思えない赤い虹彩こうさいをしている。
 
(まさか、この人も……?)
 
 鬼ですか? などと、不躾ぶしつけに尋ねるわけにもいかない。名乗り返す発想もなく、おののく気持ちで私は青年の端整な顔を見上げていた。
 青年は鷹揚おうようとし、やわらかく唇を開いた。
 
「先刻の無礼を詫びよう。うちのシロが、お嬢さんをおびやかしたようで……我が不行き届き、慚愧ざんきに耐えぬ。ゆるしておくれ」

 青年は手を胸に当てると、うやうやしく頭を下げた。礼儀正しい所作は、不審な第一印象と格差があった。
 赦す、とは。青年の謝罪が何を指しているのか、理解できずに私は狼狽うろたえたが……遅れて、脳裏で繋がるものがあった。
 
「しろ……もしかして、地下の白い狼のような……」

 バケモノのこと。
 言いかけて、言葉の先をつぐんだ。青年は何を思うでもなく、唇に微笑を乗せたまま応える。
 
「あのは未熟でのう……。時に自制がきかぬのじゃ。斯様かように危うい者を用いるのは、いかがなものかのぅ……?」

 小首をかしげる青年の顔は麗しく、整いすぎていて話の内容があまり頭に入ってこない。遅れおくれで言葉の意味を拾うが、私が反応する前に青年が口を開いている。私はうまく話せていない。
 
「——さて、お嬢さんや」

 つややかな声が、張り詰める。緊張というよりも、ぴんと張られた弦をつまびくような声音。
 目を合わせる瞳は、私をじっと捕らえて放さない。
 
「先人からの警告じゃ。我らの主君は、さかしき男じゃからのう、気をつけなされ」
 
 ——赤い。鮮血で染めたみたいな眼は、そこに得体の知れない魔が潜んでいるかのように、あやしく恐ろしく在る。
 コ……コ……と、時計の針が音を刻んだ。
 口腔こうくうに溜まる唾をみ、私は小さく口を開いた。
 
菫連木すみれぎさんのことを言ってるんですか……?」
「そうじゃよ。——ただし、お嬢さんが取り分けて用心すべきは別の者じゃ」
「……?」
 
 青年の微笑みが、わずかに変化した。
 
「怪異と呼ばれるモノが、人の想いを糧に力を得ると、聞いたじゃろう?」
「……はい」
「あれは、言葉が足りておらぬ」
「え……?」
 
 疑問に惑う私の顔を、青年はあわれみの微笑で見つめた。
 
「鬼は、人をろうてこそ、人外の力を得る。お嬢さんがほだされかけておる『鬼まじり』も——しかり」
 
 朗々とした声は、まるでおとぎ話を語るように響く。どこか幻めいたそれは、私の頭を玲瓏れいろうたる音色で揺らした。
 
「あの者は、数多あまたの人を喰らった化け物じゃよ」
 
 誰のことを話しているのか——問わずとも、私の脳裏には、はっきりとその正体が浮かんでいた。
 赤い闇を背に、凶悪な笑顔を浮かべた鬼の顔。とがる爪と、額から伸びる片割れのつの。容赦なく打ち下ろされた警棒が鳴らした、鼓膜にこびりつくような音。
 忘れては、いない。
 
「まさか……」
 
 引きる頬で、できそこないの笑顔を返した。そんなわけない。そんなひとじゃ——ない。
 冗談と受け流すには、口内が乾いていた。否定しようとした私の唇は震えただけで、何も音を成さない。
 なにより、否定できるほど、彼を知りもしない。
 
 青年の赤い眼は、不憫ふびんな者を見るように私を眺めていた。
 
虚言そらごとではない。あれは、鬼がまうだけのからの肉体じゃ。その証拠に、あの者は、身内をすべて喰い殺しておる」

 言葉を、失った。
 ひゅっと喉だけ鳴ったが、私の唇が言葉を紡ぐことはなかった。
 
 ——身内を、すべて、殺した。
 
 心の臓が冷える心地で、私は自分の身を抱くように片腕を回した。
 力が入る私の手に目を落として、青年は微笑みの唇を深める。
 
「ゆめゆめ忘れるなかれ——鬼の花嫁御はなよめごよ」
 
 窓から、赤いしている。
 禍々まがまがしくも美しい赤の眼は、陽をいとうように細く細く私を見つめていた。
 
 
 
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