深淵のバラッド —あやかし捜査官 朝美楪の怪異事件ファイル—

藤香いつき

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File.04 雪女伝説

夜が攫う

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 洞窟の外は、静謐せいひつだった。
 荒れていた風は嘘のように穏やかで、雪もすっかり止んでいる。
 
 空は澄み渡り、りんと張りつめた夜のとばりから、星々がこぼれ落ちるようにまたたく。
 辺りでは白く凍りついた木々が静かに立ち尽くしている。枝先までも氷にうっすらと包まれ、そこに星の光が淡く反射してきらめいていた。
 
 世界を、ひとときの夢に変えてしまったかのよう。
 たったそれだけで、心が奪われる気がした。
 繊細で壊れやすく、それでいて圧倒的な美しさをたたえていた。

 状況が状況でなければ、いつまでもとらわれていたいような——
 しかし。

《朝美さん、こっちはこっちで解決したから、車のとこまで戻っておいで》

 洞窟を出て、即座に連絡が入った。菫連木すみれぎ室長の声が、にこやかな調子で通話口から漏れてくる。だが、声色とは裏腹に圧がすさまじい。問答無用、というやつだ。
 通話を終えた私に、話を聞いていた雪女が問いかけた。

亡骸なきがらを運べば、わらわは見逃してもらえる……と?」

 その声音には、警戒と一抹の希望が混じる。
 私は首肯した。

「そのようです。ご遺体を、元の場所まで運ぶのを手伝ってもらえたら……」

 風がひと吹き、頬をでていく。
 途端に私は、何かがおかしいと気づいた。
 ……高い。
 周囲を見渡すと、遠くに見える山々が、自分たちのいる場所よりもずっと下にある。
 空の上に立っているような錯覚。
 
「ここは、どこ……?」

 唖然あぜんと口にした私に、與が飄々とした声で答えた。

「ゲレンデのはるか上~」
「えぇっ?」

 信じられなくて聞き返すと、與は悪びれもせずに肩をすくめる。

「知らなかったのかよ……お前、ここまでどうやって来たわけ?」
「私は、指の糸を頼りに赤い深淵しんえんを通って……」
「はあっ?」
 
 答えた瞬間、與の眉間が盛大に引き絞られた。

「お前、なに危険なことしてんだよ。死ぬ気か」

 與の叱責に、私は胸中で椿へと小さくツッコミを入れた。(そんなに危ないことをさせたんですか)
 振り返ってみれば、確かに無謀だったかもしれない。
 でも。
 與を見上げ、想いにき動かされるまま、言葉を返していた。

「あのときは……與くんに会うためなら、なんでもしたと思います」

 控えめながら、しっかりと、確かに伝える。
 與は一瞬だけ押し黙り、そして——

「……あぁそう」

 ぽつりと、ため息をつくように応えた。
 拍子抜けした私は唇を水平に結び、微妙な顔を作って沈黙を返す。
 もっと怒られるか、馬鹿にされるか、あるいは何かちょっと感動的な言葉でも貰えるかも、なんて期待した私に手を振って別れを告げたい。
 あぁそう、で終わってしまうのか。命を懸けたというのに。
 
 不満をこっそり詰めて小さく睨んでいると、與が私に視線を落とした。ちらりと、申し訳程度に。
 
「……つまり? 夢の中のあれ全部、俺の願望じゃなくて——」
 
 言いかけた言葉は、ふわりと吹き抜けた風によって、夜闇に溶ける。
 そのまま與は星空を見上げた。
 
「え……っと?」
 
 與は、星がえがく運命を探すみたいに目を遠くやってから、言葉の先を待つ私を見下ろすことなく、雪女に向き直った。

「下まで運べるか?」

 唐突に。今までの空気を捨て去って声を掛けた。
 えぇぇぇぇ、と。真横で私はささやかな衝撃を受け、平らだった唇を山なりにいからせてみたが、まったくもって與の目に入っていない。
 私を蚊帳かやの外にした與の瞳を受け、雪女は恐るおそる答える。

「皆までは……わらわの力、及ばん。二人ずつなら……あるいは」

 與はすぐに返す。

「俺らはいいわ。遺体だけ運んどけ」

 その一言に、私は驚いて尋ねた。

「え? 私たちはどうやって下山するんです?」

 與の横目が流れてくる。見下ろすその顔に、にやりと凶悪な微笑が浮かんだ。
 なにか——身に覚えのあるいやな予感に、背筋がぞくり。

 與は雪女に近づき、私には聞こえない声で何かを告げる。雪女は身を縮めながらも、こくこくと激しくうなずいた。

 戻ってきた與が、私の前で立ち止まる。
 私は首をかしげたまま。

「あの、私たちはどうやって……?」
「人攫いごっこで」
「へ?」

 與の長い腕が私の脇に滑り込む。反射も抗議も、すべての反応が追いつく前に、世界がぐらりと傾き、
 
「えっ……わわっ?」
 
 まばたきの隙間に、私は浮かび上がっていた。
 ぽすん、と粗雑に背負われた感覚。ばさりと髪が逆巻き、目線が高くなる。
 
「対象確保~っ」

 與の弾けるような笑い声が、雪山に果てしなくこだました。
 
 視界の端で、雪女がふうっと息を吹いた。
 銀色の吐息が與の足許あしもとを流れ、形を成していく。
 ……透明なスキー板。そうとしか思えない、完璧なそれだった。
 一瞬で、私はすべてを悟った。

「ひっ……」

 喉奥で悲鳴が引きる。ポニーテールが風にあおられて浮き上がる、直前。

「バランス悪ぃわ。やっぱこっち」

 腰に回された手がするりと動き、私の身体をすくい取った。
 落ちる、と思った刹那、與の両腕が迷いなく私を抱きとめる。
 冷たい風のなか、與の首筋に触れた耳が、じんわりと温もりを感じる。
 ハッとする。これは、まさか。

(お姫さま抱っこ……!?)

 間近で私をのぞく金と黒の眼が、細く笑った。

「じっとしてろよ。暴れると、ほんとに攫っちまうぞ?」

 恥ずかしさに顔がける間もない。
 與は私の返事を待たず、一気に滑り出した。

「ひゃっ——!」

 吹きつける風。
 雪の斜面を裂く体が、息をする暇なく加速する。
 一瞬の光景が、あっというまに遠ざかる。目の端をかすめる木々の影が、鋭く、速い。あと少しでぶつかりそうな距離を次々に通過していく。

 冷気が顔を打ち、私のポニーテールは跳ねるように宙を踊った。
 頬が、手が、耳が、感覚を失いそうなほど冷たい。
 それでも、與の腕は微動だにせず、包み込むように私を支えている。

(怖い、けど……)

 ちら、と與の顔を見る。
 口許に浮かぶ笑みは、悪戯いたずらっ子のように愉しげで——幼い面影を彷彿ほうふつとさせた。

 心の底で、何かが緩むのを感じる。
 恐怖と安堵あんどと、ほんの少しの高鳴りが、舞う粉雪に混じって胸を満たしていく。
 
 滑り降りる音が、夜のしじまを振り払って突き抜けた。
 風を超えるスピードのなか、與の唇が動いたが、声は私の耳に届くことなく彼方へと流れる。私に聞き返す余裕はなかった。ただ、薄く笑った気がしたから、きっと怖がる私を馬鹿にしたのだ。
 
——ほんとに、攫っちまうか。
 
 夜の雪原を、ただ一直線に。
 ふたりきりの流星みたいに駆け抜けていた。
 
 
 
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