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1.イヴ・イヴに、彼らの間に起こったこと(斉藤陽人/キッチン見習い)

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 昨夜、北澤さんに年齢を訊かれた。北澤さんというのは僕が最近働き始めたレストランのソムリエで、何だか非常に美しい人だ。もっと言えば、非常に美しく絶妙に芝居がかった仕草をする人だ。それでその北澤さんに訊かれて初めて気がついたのだけれど、僕は自分の年齢をちゃんと把握していなかった。少なくとも高校を卒業するまでは把握していた、というか、その頃までは歳を訊かれても「中一です」とか「高三です」とか答えれば良かったわけだから、もしかすると僕は自分の学年は解っていても、年齢そのものは小学生時代からずっと解っていなかったのかもしれない。
 二十歳になった、という年があったことはちゃんと覚えていて、それが控えめな何年か前、という実感はあるから、今の僕は二十三か二十四か、その辺なんだろう。二十歳になったというのは僕がまだ地元で働いていた頃、つまりお玉レードルでラードを抉ってほとんど具のないチャーハンを炒めていた頃のことで、ある年、僕はその中華料理屋の常連客に連れられて、近所の地味な神社へ初詣に行ったのだ。そこでたまたま高校時代の同級生に出くわし、「はると? 久しぶりじゃん、成人式出んの?」と訊かれたので、「いや、たぶん出ない」と答えながら、ああそうか、僕は今年二十歳なのか、と思ったのだった。
 その同級生は僕と僕の連れをちらっと見て、相変わらずなのな、と嫌な感じに笑った。
 ともあれ僕は北澤さんに、たぶん二十三か四かその辺です、と答えた。北澤さんは非常に美しく絶妙に芝居がかった呆れ顔をつくった。「その辺、って」
 けれど北澤さんはそれ以上の追求はしなかった。僕はと言えば、これ動画で保存できたらいいのにと思いながら、いつもの北澤さんの軽めの笑顔がぱっと呆れた笑い顔に変わってそこからまたじわじわ軽めの笑顔に戻っていくのを、ぼんやり見ていた。
 シャリオドールの、創作フレンチ、というカテゴリを、僕は特にお洒落だとか美味しそうだとかは思わなかった。何ならちょっと胡散臭いというか、そう言っておけば何を出しても文句は言われない感というか、本格フレンチまでは頑張れなくて残念に日和ったというか、最初は正直そういう印象を持っていた。でも、だからと言って採用が決まった時に嬉しくなかったわけではない。僕の職業遍歴はちょっと類を見ないくらい継ぎはぎだらけの駄目さで、「働けるならもうどこでもいいです」感を目一杯、醸し出していたから。
 前置きついでに紹介してみると以下のように、本当にもうシンプルに駄目な感じになる。
 地元の中華料理屋のバイトを辞めた理由は、その店では「油」と言えばラードしかなくて(卓上に一応ラー油があったけど瓶全体が油じみていてかつ埃じみていた。胡麻油のない中華料理屋なんて日本全国探しても中国全土探しても他には見つからないだろう)、賄い料理が全部「ラードで炒めた何か」で、心底ラードに嫌気が差したからだ。というのは建前で、当時付き合っていた常連客と別れたからだ(ガテン系で日に焼けた健康的な肌と陽性のオーラが気持ちいい人だったけど、食べ物の好みが壊滅的に合わなかった)。
 調理師学校はちゃんと卒業した。ただ、卒業間際になって初めて気づいたことがある。僕が田舎の中華料理屋でラードにまみれている間、料理人を目指していた同期のほとんどは、学校が紹介してくれる一流店で下働きの経験を積んでいたのだ。そしてかなりの確率で既に就職先を(その一流店か、或いはその店の伝手でそこそこいい店に)決めていた。
 オーケストラのオーディションを受ける予定なのにピアニカの練習をしていたことに気づいた人がいたら、僕はその人と完璧に意気投合できると思う。そんな奴いないよ、と言われるかもしれないけど、生憎、僕はそんな僕として今ここにいる。
 卒業後もその中華料理屋にしばらくいて、恋人と別れてからそこを辞め、次に見つけた就職先は介護施設の調理補助だった(正社員での採用だったので嬉しかった)。それが毎日毎日あまり不味そうなドロドロばかり作らされるので、一ヶ月が経った頃、上司に相談してみた。この予算ならもう少し良い素材を使えると思う、見た目も美味しそうに見えるよう工夫してみたい、と。上司は嫌な顔はしなかった。ただ「ハッ」と「ヘッ」の中間みたいな声で妙に気持ち良さそうに笑い、「自分の身内も見分けられないような年寄りに何食わせても一緒だろう」と言った。
繰り返すけれど、そう言ったのだ。
 それで辞めた。そこから地元を離れて、今度はこじんまりした家庭的なイタリアンの店で働いた。ここは結構まともな料理を出す店だったけれど、僕の仕事はウェイターだった。とりあえずホールの仕事を経験しておくのも悪くないと思ったものの、キッチンにいる六十二歳のオーナーシェフは引退の気配も見せず、僕が料理人志望だと知りながらすべての料理を黙々と一人で作り続けた。
 そのイタリアンの次は大手チェーンのうどん屋、大手チェーンの牛丼屋、そしてまたぞろラードまみれの中華料理屋(ここには胡麻油もあった)、真緑色のクリームソーダや焼きうどんを(消毒薬の匂いのするおしぼりと一緒に)出す喫茶店。そういう店にもちゃんと一定数の来客があって妙に感心したりもしたけれど、どこも長くは続かなかった。
 自分の手で「ちゃんとした料理」を作りたい、という気持ちが常にあったから。表向きはそういうことで本心だってそうには違いないけれど、僕がここまで仕事を転々とする羽目になった理由のひとつには、仕事とはまったく関係のない要因もあった。
 僕はそれは認める。

 それでようやく巡り合ったここ、創作フレンチの店「シャリオドール」で、僕は初めて本格的なプロの厨房に立つことになり、見習いとは言っても皿洗いばかりじゃなく簡単な調理にも関われることになった。しかもシェフである森川さんのつくる料理がすごかった。創作フレンチを脳内で茶化していたのが恥ずかしくなるくらい、ずっと本格的で創造的で、つまり最高だった。
 職場の雰囲気も仕事以外のところは緩めな感じで、個人的なことは大して訊かれないのも有難かった。彼女はいるのかとか休みの日に呼び出されるとか無理やり飲みに連れていかれるとか、そういうのが僕は本当に苦手なのだ。
 ここでなら当分やって行けるかもしれない、と、思っていたにも関わらず。
 それに雇われてからまだ二週間しか経っていないにも関わらず。
 昨夜、僕は僕以外の誰にも絶対にやらかせない、完全なる「やらかし」をした。
 北澤さんが僕の年齢を訊いたことはもう最初に言ったと思う。
 でもそれは、店の営業を終えてから北澤さんと飲みに行った後の話だ(苦手なのに飲みに付き合えと言ってくる人と、ちょっと気になってた人が飲みに誘ってくれるのとは、まったく別次元の出来事だ)。北澤さんは僕をちょっと雰囲気のあるワインバーに連れて行ってくれ、初心者向けの飲み比べをセッティングしてくれた。ワインの味の違いなんて自分に解るわけがないと思っていたのに、違うぶどう品種で造られた白ワインを試してみると、味も香りも全然違っていて、自分にそれが解ったことにすごく感動した。
 しばらくして、うち来る、と訊かれて、僕は頷いた。
 北澤さんの部屋はそんなに広いわけではないのに、バーカウンターがあってすごくお洒落な感じだった。北澤さんは小さなリキュールグラスにポートワインを注いでくれ、僕らはカウンターに並んで座り、ドライフルーツの入ったナッツをつまみながら、少しずつというのかいつの間にかというのか、雰囲気になっていた。
 僕にはそういう場合に踏むべきブレーキが備わっていない。二週間で職場の人とそうなるのはさすがにまずいんじゃないか、と思うだけの常識も備わっていない。
 俺ピスタチオの殻フェチなんだよね。舐めてみる?
 え、と思う暇もなく北澤さんはピスタチオの殻を軽く咥え、キスをしながら僕の口に、舌で優しく押し込んできた。ピスタチオの殻のほんのりした塩気と乾いた温かさとカリッとした軽さの後に、僕は北澤さんの柔らかな舌の甘さを一瞬、確かに感じた。
 それから僕は北澤さんの(絶妙に芝居がかった)誘惑に喜んで身を任せ、彼のベッドの上でたぶんセックスと呼んでいいはずのことをひと通りし終えて、たぶんお互いにすっかり満たされて、つまり北澤さんが僕に年齢を訊いたのは、その時のことだった。
 誘ったのは北澤さんだ、と言うことはできる。でも初日のシフトに入って挨拶をした瞬間、この人の感じ好きだな、と思ったのは僕のほうで、それから毎日、仕事している北澤さんを自分の手の許す限り見つめ続け(シャリオドールはフレンチには珍しくオープンキッチンなのでホールがほぼ見渡せる)、そのうち僕は北澤さんの佇まいが時々すごくエロい、ということに気がついてしまった。あ、こういう時、と思った瞬間に目が合いそうになって慌てて目を逸らしたりもした。
 北澤さんは昨夜、僕の年齢を訊いて、それから「その辺り、って」と呆れ笑いをしてから、「しかし二週間は最短記録だな」と呟くように言った。
 僕がこれまで仕事を転々としてきた、仕事とはまったく関係のない要因。
 それは僕の、この恋愛体質だ。
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