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2-1.今そういう場合じゃないのに(斉藤陽人/キッチン見習い)

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 クリスマスディナーの前菜は〈帆立と甘海老のタルタル〉だ。刻んだエシャロットと搾りたてのオリーヴオイルとほんの少しのオレンジ果汁で和えたのを、サクサクのパイ生地と一緒にセルクル型に詰める。提供時に型を外し、チコリの葉にフレッシュチーズとキャビアを乗せたものを添え、華やかなフェンネルを飾ってピンクペッパーを散らす。
 その予定だったのに、僕はまたやらかした。セルクル型を外す、という工程を僕は完全に間違えていて、ゼリー型を外すのと同じ動作をしてしまった。つまり、型ごとひっくり返してお皿に乗せた。あれこの型って底がなくて側面だけだ、と思いながら、パイ生地を指で押さえて型を抜き取ると、タルタルの天辺にパイ生地が載っている感じになった。ナイフを入れづらいんじゃないかと一瞬思ったけれど、とりあえず十二皿同時の提供だったので僕は十二皿ぶんを同じ状態にした。
 あ、斉藤くんごめん、と、不意に広瀬さんの声がして、その声がこう続けた。「フレンチの経験ないって聞いてたのにちゃんと説明してなかったわ、俺」
「あー、セルクル裏返しちゃった?」
 微妙にからかうようなニュアンスで森川シェフが言ってきて、僕はまだ自分が何をやらかしたのかちゃんとは理解できないまま「すみません」と答えるしかなかった。するとシェフは子供にするみたいに僕と目の高さを合わせて、まあ大丈夫だよ、と言った。そして斜め後ろを振り返ると「ヒロ、リカバリ頼むわ」と言って、あいよ、と広瀬さんは答えた。
「うーん、これはどうするのが正解かな」
 軽く請け負ったはいいけどどう手をつけていいのか迷う様子で、広瀬さんは皿の上を観察し始めた。ホールの鏑木さんがカウンターでお皿を運ぼうと待っている。申し訳なさすぎて、僕は少し離れたところから馬鹿みたいに広瀬さんを見守るしかなかった。

 もともと今日は、出勤した時点で森川シェフに「斉藤くん今日ちょっと体調悪いんじゃない」と言われた。いえ、全然大丈夫です、と答えたにも関わらず、「今日は無理しないで、営業始まったら洗い場に集中して」と言われ、何でそんな体調悪そうに見えるんだろう、と自問した途端、北澤さんの姿が視界に入った。
 今そういう場合じゃない、今そういうシーンでもない、ていうか今それ無理です。
 慌てて目を逸らせようとしたけれど、間に合わなかった。北澤さんはちらっと視線を流して僕を見た。電気ケトルのスイッチが入った途端に全身の血が沸騰するみたいな感じがして、僕は緊急停止してしまった。つまりそのまま彼を凝視してしまった。その目元がほとんどそれと解らないくらいの目配せを、その口元がほとんどそれと解らないくらいの笑みを、一瞬だけ浮かべる。昨夜のことはちゃんと覚えてるよ、という合図のように。
 僕は何とか、おはようございます、と声に出した。気を抜くと、僕も覚えてます、と口にしてしまいそうだった。
 いやだから、今そういう場合じゃない。慌てて思考を打ち切って現実に戻ると、森川シェフがぴたりと手を止めていた。広瀬さんまで手を止めていた。今そういう場合じゃないのに、二人とも完全にフリーズして、ぽかんと僕の顔を見ていた。
「まあ、しょうがないよね」
 ややあって森川シェフが広瀬さんに言うと、広瀬さんは「うん、まあ、しょうがないよ」と答えた。
 フリーズ解除。
 そこから僕はテーブルにセットするカトラリーを数えたり食器類を並べたり、一応やってはいたけれど全然、集中できなかった。油断すると北澤さんの目とか唇とか指とかをいちいち思い出してしまう。昨夜その目がはっきり変わった瞬間のこととか。僕の口の中にはまだピスタチオの殻があって、構わずディープキスを仕掛けてきた北澤さんの舌が、やっぱり甘い、と思う間もなくその殻をさらりと回収して次の瞬間に唇は離れた。
 僕の方が先だった。間違いなく、引き返せない領域に踏み込んだのは。
 反射的に、僕は北澤さんの唇を追いかけた。そしてその僕の顔を見た瞬間、北澤さんの目が変わった。フェチとは思えないくらいぞんざいにその殻をさっさとカウンターの下のゴミ箱に放り捨て、振り向きざま下から掬い上げるように唇を合わせてきた。その感触はどこまでも優しく柔らかく、そして北澤さんの舌は、どうしようもないくらい甘くて、救いようがないくらいエロかった。
 自分の目が宙を泳いでるのに気づいてはっとして、数え終わったはずのデザートフォークを一から数え直そうとした時。
 客席から小さく鋭い、カシャ、というような音が聞こえた。思わずそっちを見ると北澤さんの足元でグラスが一脚、割れていた。
「北澤!」
 森川シェフの強めの声が、しゃがみ込もうとしていた北澤さんの動きを止めた。シェフは足早にキッチンから出て北澤さんの傍に行き、低い声で何か囁いたと思ったら、またすぐに戻って来て、斉藤くん、と僕を呼んだ。
「あいつ、手、怪我するわけにいかないから」
 そう言って、シェフは僕に片付けに行くよう頼んだ。
 一瞬、何かが気になったけれど、何が気になったのかはその瞬間には解らなかった。北澤さんの役に立てるのは普通に嬉しい、と思いながら掃除道具を持って客席に行き、僕はグラスの破片を片付けた。

 結局、広瀬さんは天辺のパイ生地を剥がして大胆にタルタルの上から斜めに突き刺し、「こういう盛り付け、森川はあんま、しないけど」と申し訳のように言いながら十二皿ぜんぶをその仕様にして、カウンターで待っていた鏑木さんに「1番から5番。お待たせして申し訳ない」とその皿たちを送り出した。
 空いた食器が下げられ始めると、僕は洗い場に張りついた。洗い場はホールからほとんど死角になるし、多少なりとも集中できる。
 体調悪いんじゃない、というシェフの言葉は質問ではなくて戦力外通告だったのだ、と気づいたのはその時だ。僕の頭の中は昨夜の記憶と、同じ空間にいるのに手を触れることも言葉を交わすこともできない北澤さん本人の気配とで一杯で、その時点でもうキッチンに立つ資格がない、ということだったのだ。
 でも、どうして。
 昨夜のことも僕の頭の中も、シェフや広瀬さんは知らないはずなのに。
 斜め下からのキスの最中、北澤さんの手のひらが僕の首の左うしろと右腰の辺りをぴったり包むように覆って、その手のひらが僕に、スツールを降りて、と伝えてきた。僕がそうすると北澤さんは少しのあいだ唇を離し、首のうしろの手を僕の頬にすべらせた。それからまたキス。右腰にあった手がするりと背中へ移動して、ベッドのある方へ少し引き寄せられた。無言のままの、それは完璧なエスコートだった。
 だけど。
 僕が誰にも話していないのだから、北澤さんが話したとしか考えられない。たぶんシェフに、もしかすると広瀬さんにも。
 昨夜のあの、二人の間に起こったことを。
 グラスを洗浄機にセットしながら、ショックと共に今まで経験したことのない感情が沸き上がってきて、怒りみたいだけれど怒りより数倍は強い、それと一緒にドーパミンかエンドルフィンか何か、変な脳内麻薬が出てきて僕を痺れさせた。
 しばらく目を閉じてその強烈な波に耐えながら、僕は認めた。確かに、この世界には僕と北澤さんしか存在していないわけではない。北澤さんは僕のためだけに存在しているわけではなくて、昨夜はたまたま二人で飲みに行った流れでああいう感じになったけれど、もしかしたら北澤さんには別に恋人がいるかもしれない。
 だから僕とのことをシェフに話したとしても、それは僕自身とは関係なくて、北澤さんと森川シェフの間のことなのだ。
 そこまで考えたところでまたさっきより強い波が来て、今度は脳の真ん中が焦げるような感じがした。
 物理的に熱くて、物理的に痛い。
「斉藤くん?」
 誰かにそう呼ばれても、返事すらできない。
 シンクの縁に手をついて自分の体重を支えながら、僕は何とか深呼吸をしようと喘いだ。
 ひんやりしたものが額に押し当てられ、駄目だ、ちょっと、というような短い声が後ろで何度か発せられ、誰かが僕の左腕を掴んでぐっと上に引っ張り上げた。
 次に気づいた時には僕は休憩室のソファに仰向けに寝ていて、胸の辺りまで毛布が掛けられていて、額の上には濡れたタオルが乗せられていて、隣のローテーブルにはメモが貼られていた。
〈斉藤くん ゆっくり休んでてください。店が終わったら北澤に送らせます。もし一人で帰れそうならそうしても構わないけど、その時は波多野さんに声だけかけてください。無理はしないで、お大事に〉
 森川シェフらしい、優しくて簡潔なメモ。
 だけど、北澤に送らせます、という一言を、僕は素直に読むことができなかった。
 シェフが、北澤さんに、送らせる。
 そのとき僕は悟った。さっきから僕を痺れさせたり焦がしたりしてきたあの感情は、明らかに、嫉妬だ。
 北澤さんがグラスを割った時、僕に向かって「あいつ、手、怪我するわけにいかないから」と言ったシェフの声音に、何だか保護者然とした響きを僕は聞いた。あの瞬間の違和感を敢えて追及しなかったのは、直感的に、触れたくない、知りたくない、と思ったからなのだ。
 自然と、長いため息が漏れた。
 このまま、僕はどこまで駄目になるんだろう。
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