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第十章:信じられない、信じたくない
48:涙味のチラシ寿司
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瞳子さんがラフな私服に着替え終え、やがて日没が訪れても、次郎君と一郎さんが戻ってくる気配はない。
カバさんが見せてくれた夏の海。ジュゼットの悪夢。
一郎さんがカバさんの作り話だと笑ってくれることを期待していたけれど、二人は戻ってこない。長い話し合いになるのだろうと予想がついた。
その予想は、わたしに暗い気持ちを植え付ける。
一郎さんが望まなかった過去。
瞳子さんを失った世界。
信じられない。信じたくない。
瞳子さんがキッチンからソファへやってくる。
「今日の夕飯は、デパ地下の海鮮ちらし。講演終わりに一郎と立ち寄って買ってきたの」
ローテーブルの上に置いていた紙袋を、瞳子さんが引き寄せる。
「ここのお店の海鮮ちらしが絶品だから、あやめちゃんとジュゼットにも食べさせてあげたいって、二人で話していたのよ」
瞳子さんが紙袋から一番上にあった包みを取り出した。木箱に入った、見るからにお値段のしそうな一品。
「お吸い物だけつくったけれど、一郎と次郎君が戻ってこないわね。何をそんなに話し込んでいるのかしら」
「……どうしたんでしょうね」
曖昧に答えていると、瞳子さんがかけた毛布に、くるまるようにして寝入っていたジュゼットが起きた。目をこすりながら、ソファから上体を起こす。無防備な仕草が愛らしいけれど、彼女は瞳子さんを見つけると、はっと身動きを止めた。
きっと眠る前のことを思い出したのだ。
まずい! と思う前に、ジュゼットが悪夢を見た夜のように瞳子さんに縋り付く。
「トーコ! 良かった! ずっとここにいて!」
「どうしたの? ジュゼット。また怖い夢でも見た?」
瞳子さんは縋り付くジュゼット抱きしめて、優しい声で応じている。
「夢……」
駄目! まずい!
ジュゼットがカバさんとのやりとりを口にする前に、何とかしなければ!
「あ! あの、わたしお腹がすいてきました! これ、楽しみですね」
木箱に入った海鮮ちらしを持ち上げて、ジュゼットにも見せる。
「ジュゼットもお腹がすいたんじゃない? 今夜も美味しいもの食べられそうだよ」
「わたくしは……」
「怖い夢のことも、コレを食べたら吹き飛んじゃうよ!」
「そうよ。とっても綺麗なお寿司なのよ」
どうやら瞳子さんは、夢を怖がる彼女の気持ちを紛らわせようと、わたしが必死に振舞っている、と誤解してくれたようだ。
唐突なお寿司の話題にのっかってくれた。
「先に私達でいただいてしまいましょうか」
ジュゼットが泣き出すことを第一に阻止すべきと考えたのか、瞳子さんがソファから立ち上がる。
「お吸い物を用意するわね」
「ありがとうございます」
瞳子さんがキッチンに入ったのを見て、わたしはジュゼットに囁くような小声で伝える。
「カバさんが見せた海のこととか、ジュゼットの嫌な夢の話は、瞳子さんには内緒だよ」
「――はい」
ジュゼットなりに、伝えてはいけないことだとわかってくれたみたい。
わたしがホッと胸を撫でおろすと、瞳子さんがてきぱきとローテーブルに食事の用意をしてくれた。
「さ、いただきましょう。どうぞ、ジュゼット、あやめちゃん」
瞳子さんが、ジュゼットの前に置いた木箱の包みを丁寧に開封する。蓋を持ち上げると、色鮮やかな海鮮ちらしが姿を現した。
「とても綺麗ですわ!」「おいしそうです!」
「でしょ?」
瞳子さんは、まるで自分が褒められたように顔を綻ばせる。
きらきらとした見栄えの良いちらし寿司。宝石のようなイクラに、ふっくらとした蒸しエビ。王様のように居座るアワビ。数えきれないほど豊富な海鮮が一面を埋める。
錦糸卵と桜色のデンブが散らされて、箱の中は春のようだった。
一瞬すべての憂慮を忘れてしまう。
「あの、でも、本当に一郎さんと次郎君を待っていなくてもいいんですか?」
「そのうち、やってくるでしょ」
瞳子さんはお箸の使えないジュゼットにスプーンを手渡しながら、あっさりと笑う。
良いバランスでチラシ寿司をお箸にすくいあげて、ジュゼットに「はい、あーん」と勧めた。
「一口目は私が食べさせてあげる。こうして具とごはんを一緒に食べると美味しいわ」
ジュゼットが目の前に差し出されたものに、ぱくりと喰いつく。
チラシ寿司を口いっぱいに頬張った。もぐもぐと動くふくよかな頰が可愛い。
何も言わなくてもわかる。とても嬉しそうに青い目が輝く。瞳子さんが愛おしそうにほほ笑んだ。
「可愛い」
瞳子さんの気持ちがよくわかる。小さな子がご飯を食べていると、とても微笑ましい。
「ジュゼットが美味しそうにご飯を食べてくれると、とても嬉しくなるわ」
満足げに口を動かしていたジュゼットが、ふいに咀嚼を止めた。
「ジュゼット?」
不思議そうに声をかけた瞳子さんの前で、みるみる青い眼が潤んでいくのがわかる。それはすぐにあふれ出して、白い頬を伝った。
「どうしたの? ワサビでも入っていたのかしら」
慌てる瞳子さんに、頬張っていたものを飲み込みながら、ジュゼットが首を横に振った。
「美味しい……」
ジュゼットが俯いて唇を噛みしめている。まるで泣いちゃ駄目と自分に言い聞かせるように「美味しい」とだけ呟く。
「美味しい、です。……トーコ」
わたしの鼻がつんと痛む。考えない。信じないと思っていても、消せない予感。
じわりと視界が滲んだ。こらえきれずに、温かいものがあふれ出す。
駄目だ。泣いてはいけない。
いけない。わかっているのに、止められなかった。
ごまかすように、がばりとちらし寿司を頬張ってジュゼットに倣う。
「ほんと、おいしいです」
「あやめちゃんまで?」
「……おいしくて、涙がでちゃいます」
「ええ?」
戸惑う瞳子さんの前で、わたしとジュゼットは涙をこぼしながらチラシ寿司を貪る。
絶品のチラシ寿司には、余計な塩味がきいていた。
そして、わたし達がすっかり食べ終わっても、次郎君と一郎さんは戻ってこなかった。
カバさんが見せてくれた夏の海。ジュゼットの悪夢。
一郎さんがカバさんの作り話だと笑ってくれることを期待していたけれど、二人は戻ってこない。長い話し合いになるのだろうと予想がついた。
その予想は、わたしに暗い気持ちを植え付ける。
一郎さんが望まなかった過去。
瞳子さんを失った世界。
信じられない。信じたくない。
瞳子さんがキッチンからソファへやってくる。
「今日の夕飯は、デパ地下の海鮮ちらし。講演終わりに一郎と立ち寄って買ってきたの」
ローテーブルの上に置いていた紙袋を、瞳子さんが引き寄せる。
「ここのお店の海鮮ちらしが絶品だから、あやめちゃんとジュゼットにも食べさせてあげたいって、二人で話していたのよ」
瞳子さんが紙袋から一番上にあった包みを取り出した。木箱に入った、見るからにお値段のしそうな一品。
「お吸い物だけつくったけれど、一郎と次郎君が戻ってこないわね。何をそんなに話し込んでいるのかしら」
「……どうしたんでしょうね」
曖昧に答えていると、瞳子さんがかけた毛布に、くるまるようにして寝入っていたジュゼットが起きた。目をこすりながら、ソファから上体を起こす。無防備な仕草が愛らしいけれど、彼女は瞳子さんを見つけると、はっと身動きを止めた。
きっと眠る前のことを思い出したのだ。
まずい! と思う前に、ジュゼットが悪夢を見た夜のように瞳子さんに縋り付く。
「トーコ! 良かった! ずっとここにいて!」
「どうしたの? ジュゼット。また怖い夢でも見た?」
瞳子さんは縋り付くジュゼット抱きしめて、優しい声で応じている。
「夢……」
駄目! まずい!
ジュゼットがカバさんとのやりとりを口にする前に、何とかしなければ!
「あ! あの、わたしお腹がすいてきました! これ、楽しみですね」
木箱に入った海鮮ちらしを持ち上げて、ジュゼットにも見せる。
「ジュゼットもお腹がすいたんじゃない? 今夜も美味しいもの食べられそうだよ」
「わたくしは……」
「怖い夢のことも、コレを食べたら吹き飛んじゃうよ!」
「そうよ。とっても綺麗なお寿司なのよ」
どうやら瞳子さんは、夢を怖がる彼女の気持ちを紛らわせようと、わたしが必死に振舞っている、と誤解してくれたようだ。
唐突なお寿司の話題にのっかってくれた。
「先に私達でいただいてしまいましょうか」
ジュゼットが泣き出すことを第一に阻止すべきと考えたのか、瞳子さんがソファから立ち上がる。
「お吸い物を用意するわね」
「ありがとうございます」
瞳子さんがキッチンに入ったのを見て、わたしはジュゼットに囁くような小声で伝える。
「カバさんが見せた海のこととか、ジュゼットの嫌な夢の話は、瞳子さんには内緒だよ」
「――はい」
ジュゼットなりに、伝えてはいけないことだとわかってくれたみたい。
わたしがホッと胸を撫でおろすと、瞳子さんがてきぱきとローテーブルに食事の用意をしてくれた。
「さ、いただきましょう。どうぞ、ジュゼット、あやめちゃん」
瞳子さんが、ジュゼットの前に置いた木箱の包みを丁寧に開封する。蓋を持ち上げると、色鮮やかな海鮮ちらしが姿を現した。
「とても綺麗ですわ!」「おいしそうです!」
「でしょ?」
瞳子さんは、まるで自分が褒められたように顔を綻ばせる。
きらきらとした見栄えの良いちらし寿司。宝石のようなイクラに、ふっくらとした蒸しエビ。王様のように居座るアワビ。数えきれないほど豊富な海鮮が一面を埋める。
錦糸卵と桜色のデンブが散らされて、箱の中は春のようだった。
一瞬すべての憂慮を忘れてしまう。
「あの、でも、本当に一郎さんと次郎君を待っていなくてもいいんですか?」
「そのうち、やってくるでしょ」
瞳子さんはお箸の使えないジュゼットにスプーンを手渡しながら、あっさりと笑う。
良いバランスでチラシ寿司をお箸にすくいあげて、ジュゼットに「はい、あーん」と勧めた。
「一口目は私が食べさせてあげる。こうして具とごはんを一緒に食べると美味しいわ」
ジュゼットが目の前に差し出されたものに、ぱくりと喰いつく。
チラシ寿司を口いっぱいに頬張った。もぐもぐと動くふくよかな頰が可愛い。
何も言わなくてもわかる。とても嬉しそうに青い目が輝く。瞳子さんが愛おしそうにほほ笑んだ。
「可愛い」
瞳子さんの気持ちがよくわかる。小さな子がご飯を食べていると、とても微笑ましい。
「ジュゼットが美味しそうにご飯を食べてくれると、とても嬉しくなるわ」
満足げに口を動かしていたジュゼットが、ふいに咀嚼を止めた。
「ジュゼット?」
不思議そうに声をかけた瞳子さんの前で、みるみる青い眼が潤んでいくのがわかる。それはすぐにあふれ出して、白い頬を伝った。
「どうしたの? ワサビでも入っていたのかしら」
慌てる瞳子さんに、頬張っていたものを飲み込みながら、ジュゼットが首を横に振った。
「美味しい……」
ジュゼットが俯いて唇を噛みしめている。まるで泣いちゃ駄目と自分に言い聞かせるように「美味しい」とだけ呟く。
「美味しい、です。……トーコ」
わたしの鼻がつんと痛む。考えない。信じないと思っていても、消せない予感。
じわりと視界が滲んだ。こらえきれずに、温かいものがあふれ出す。
駄目だ。泣いてはいけない。
いけない。わかっているのに、止められなかった。
ごまかすように、がばりとちらし寿司を頬張ってジュゼットに倣う。
「ほんと、おいしいです」
「あやめちゃんまで?」
「……おいしくて、涙がでちゃいます」
「ええ?」
戸惑う瞳子さんの前で、わたしとジュゼットは涙をこぼしながらチラシ寿司を貪る。
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