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第九章:甘い香り

6:激痛

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 まるで人形に口づけをしているかのように、冷たい唇だった。深く探ってみても、どこにも温もりが感じられない。ただ味覚は彼の甘さに反応する。

 効率良く唾液を与えるために、本能的にそう仕掛けられているのだろうか。
 まさに瀕死の人に救命措置を行うように、ミアは必死で励みながら無駄なことを考えてしまう。いつもなら既にふわりとした浮遊感に襲われ、意識が背徳的な波に囚われるが、今日は色香避けが効いているのか、思考が明瞭だった。

 何にも囚われず、頭がはっきりしているからこそ恥ずかしくもなるが、今は使命感が上回っていた。人形のように微動だにしないシルファは冷たく、すでに屍のようだった。彼に死んでほしくない。シルファがいなくなることなど考えられない。

 自分の熱が移っていくのか、少しずつ彼に温もりが戻っている気がして、ミアはいったん聖女の恩恵を中断する。

 頰に触れて体温をたしかめる。まだひやりと冷たい。何か変化がないかと彼の顔をじっと眺めていると、瞬きそうに、長いまつ毛がかすかに震えた。
 途端に、辺りに一気に甘い芳香が広がって、ミアを捉えるように充満する。

「シルファ?」

 放たれた色香。芳醇な香りがどこまでも密度を増していく。意識が戻ったのかと期待した瞬間、ミアは強い力に腕を掴まれた。どっと寝台に引き倒される。

「――っ」

 突然の衝撃に何が起きたのか分からない。一瞬で天地が逆転して、自分を見下ろすシルファの真紅の瞳を見つけた。

 彼に組み敷かれていると考える間もなく、ブラウスの襟元を引き裂くような力が加わる。思わず悲鳴をあげたが、シルファは動じない。まるで獲物を狙う肉食獣のようにミアを力で征服する。赤い眼光に恐ろしい本能が宿っていた。正気からは程遠いのが、一目でわかる。

(――怖いっ!)

 ミアが身を固くしても、シルファは力を緩めない。あらわになった首筋にためらわず歯を当てる。ぶつりと皮膚を破る嫌な音がした瞬間、ミアは強烈な痛みに襲われた。

「いっ!」

 シルファへの恐れも吹き飛ぶほど、痛みの事しか考えられない。脳裏に星が飛ぶほどの衝撃だった。頸動脈が激しく波打っているリズムに合わせて、首筋に千切れそうな痛みが刻まれる。歯を食いしばっていても、あまりの激痛に涙が滲む。

「痛いっ! いっ! いたい、いたい――っ!」

「ミア! 耐えてください!」

 チカチカと痛みで視界が明滅しているが、セラフィの声は聞き取れた。

「こんなに痛いなんて聞いてないっ!」

「え? 私ちゃんと説明しましたよね」

「いっ! 痛っ――! 痛い!」

「だから、めちゃくちゃ痛いですって言ったじゃないですか」

「もう! 痛い――っ!」

 不思議と他人事のようなセラフィの声は頭に入ってくる。ミアは彼女の能天気な声に殺意を覚えながら、とにかく早くこの痛みから逃れたいとひたすらそれだけを願う。泣きながら痛いと悲鳴をあげて耐えていると、ふいに痛みが遠ざかった。

 さっきまでの激痛が嘘のように、ふうっと消失する。何とか耐え切れたと体の力を抜くと同時に、シルファが嚙み痕に舌を這わせた。ミアがびくりと反応すると、のしかかっていた身体が少し離れる。自分を抑え込んでいた力が緩んだ。

「……ミア……?」

 聞きなれた声に獰猛さはない。癖のない髪をかき上げながら、シルファが驚いたようにこちらを見ている。依然として瞳は赤いが、正気を取り戻したようだった。

「う……」

 ミアは痛みからの解放と、目覚めたシルファへの安堵で、いっきに気持ちが緩んだ。言葉にできない感情がこみ上げて、すぐに視界が滲む。涙が溢れて止まらない。

「う、良かった。――っ、シルファが、死んじゃうんじゃないかって……」

 シルファはいつもの労わるような眼差しで、寝台に横たわったまま嗚咽するミアを見下ろしている。

「すごく、怖かったし、――っ、痛かった……」

 胎児のように丸くなって、ミアは声を上げて泣いた。緩んだ気持ちに歯止めが効かない。
 シルファは状況を察したのか、寝台で子供のように泣くミアを抱き起こす。さっきまでの乱暴な力が嘘のように、優しく抱き締めてくれた。

「――悪かった。ありがとう」

「う……」

 ミアはぼろぼろと涙で顔を濡らす。しゃくりあげるようにして泣いていると、シルファの大きな手が、涙に濡れたミアの手をそっと握った。頬を伝う涙をついばむように唇を寄せる。ミアの涙に触れながら、やがてシルファが唇を重ねた。
 味覚に甘さが宿ると、ミアは少し落ち着きを取り戻す。辺りはまだ甘い香りで満ちていた。

(――ん? んん?)

 混乱した気持ちが落ち着くと、色香に囚われることがない意識は、迷わず羞恥心を叩き起こす。正気を取り戻したシルファには、既に聖女の恩恵は足りているはずなのだ。

 何のために唇を重ねているのか、はっきり言って理由がない。加えて自分を抱いている彼から伝わる、生身の体温。無我夢中で気が付かなかったが、シルファは寝台の肌掛け以外は、何も纏っていなかったのだ。

 ミアはべりっと引きはがれるように、瞬時にシルファから距離を取った。
 こちらを見る彼の瞳は、怖いくらいに美しい真紅に染まっている。まだ渇望しているのだろうか。それとも――。
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