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七年後──一三六八年 マチェットフォード
「緑海の瘴気が晴れたと思ったら、さっそくナドカの国が出来たんだと」男は言い、忌々しげに口元を歪めた。「ついこの間、ナドカが王になったそうだ。信じられるか? 吸血鬼の王だぞ。虫唾が走る!」
マタルは従順に首を振り、男の杯にワインを注いだ。
「陛下も何を考えておいでなのだろう? せっかくの領土をみすみす連中にくれてしまうとは。ナドカが目障りなのはわかるが、追い払うにしたって別のやり方があったろうに。これでは、剣をやるかわりに喧嘩相手になってくれと言うようなものだ」
「喧嘩をお望みなのかも」マタルは言った。「昨日今日できた国に、ダイラが負けるはずがありませんよ」
微笑みを浮かべて、男に杯を差し出す。
「どうだか」男は言った。「フェリジアやヴァスタリアとにらみ合っている最中に、エイルにまで気を配るのは骨が折れるだろうな」
男がワインに口をつけている隙に、マタルは彼のシャツに手を伸ばした。男は嬉しい驚きだと言いたげに眉を上げ、マタルを見た。
オパールの飾りボタンを、ひとずつ外しながら尋ねる。
「ナドカは目障り?」拗ねた声を出す。「俺のことも、この寝台から追い出したいとお望みですか、旦那様?」
男の肌が熱を帯び、興奮に滲む汗のにおいが立ち上る。
「さあ、どうかな」男はもったいぶった調子で答え、剥き出しの腰に手を這わせた。「おまえの努力次第だよ」
マタルはにっこりと微笑んで男の膝の上に跨がると、褐色の肌によく合う深紅の薄絹を、するりと脱ぎ捨てた。ほんのわずかに残った慎みは、か細い金の鎖と手のひらほどの大きさもない布で作られた垂れ布にかかっている。それも、風前の灯火だ。
マタルは深呼吸をして、右耳につけられた封鐶を外した。
するとみるみるうちに、眠っていた月の力が目覚めはじめた。
「はぁ……ぁ」
肌にさざ波が立ち、戦慄がおこる。抑え込まれていた魔力は、ようやく訪れた解放のひとときに歓喜していた。身体の奥深くから湧き上がる興奮の疼きが、引き締まった腰から鍛え上げられた腹、やわらかく張り詰めた胸から、なめらかな首筋へと広がってゆく。
「ほら……見て」
官能の波を追いかけるように、磨き上げた肌の上に文身の茨が現れる。腰の後ろから腹、そして胸元へ。文様がくねり、肉体を飾り立てながら、いたるところに九重の薔薇──アシュタハを咲かせていった。アシュモールでは、夜明けと共に一斉に狂い咲くその真っ赤な薔薇は、気狂い花とも呼ばれている。
男は当然ながら、目の前の光景に息を呑んだ。そんな男を見下ろすマタルの右頬に、見事な花が開いた。そこに口づけせよと唆すように。
マタルは言った。
「アシュモールの魔女を抱いたことは?」
男の眼が、マタルの口元に吸い寄せられる。上下の犬歯には、精緻な彫刻を施した金をかぶせてあるのだ。この歯に噛みつかれたいと願う輩は、決して少なくない。
男は興奮に息を喘がせながらも「ああ」と呟いた。「おまえが最初の一人だ」
マタルは満足げに微笑み、熱を持った男の股間に手を伸ばした。そして、紅潮した耳元に唇を寄せた。
「それは、嬉しいな」
マタルの祖国では、月女神に与えられた祝福の力を扱う女たちは巫女と呼ばれる。
部族の男族長に仕えて、常人と旅をする魔女は数多くいる。だが、誰もがその名を耳にしただけで恐怖に肩を震わせるほどの強大な魔女はほんの一握り──死霊術を駆使するサーリヤたちだけだ。サーリヤ族の始祖マナールは、遠い昔、魔神との契約によって大いなる力を授けられた。
そして、マタルもサーリヤ族の一員だった。少なくとも、かつては。
ある祖母はよく言ったものだ。「この子の力はサイルのようだ」と。
砂漠の涸れ川にひと度雨が降ると、人や家畜を喰らう暴れ川となる。その祖母はマタルを暴れ川と呼び続け、ついに本当の名を呼ぶことはなかった。
ある母はマタルを心底から恐れていた。息子が母にする、ごくあたりまえの抱擁さえ厳しく拒絶するほどに。その拒絶は、マタルが故郷から逃げ出すまで続いた。
もう、何年も昔の話だ。
マタルは、微笑みひとつで過去を退けて、硬くなった男のものをそっと撫でた。
「魔女が箒に乗って飛ぶ理由をご存じ?」
男は快感と好奇心の中間で、中途半端な笑みを浮かべた。「いいや」
「貴方の箒で、どれほど高く飛べるか確かめたいな」
膨らんだものの形を、指先で辿る。
「ああ……」男が目を閉じ、恍惚としたため息を漏らした。「はやく跨がってくれ、俺の可愛い魔女──」
そのとき、マタルの褐色の肌に絡みついた茨の文身が、無数の三日月刀へと形を変えはじめた。
漆黒の剣はマタルの肉体を離れ、音もなく空中に浮かび上がると男を取り囲んだ。まるで、獣の顎に並んだ鋭い歯列のように。
凶暴な期待に、胸が躍る。
「残念」マタルは、氷のように冷たい声で囁いた。「その日は永遠に来ないんだよ、クソ野郎!」
漆黒の魔剣が、マタルが思い描いたとおりに空を切り、男の背中を、胸を、首を貫いた。男には抵抗する術も、身構える暇もなかった。彼はほんの一瞬身体を強ばらせ……次の瞬間、マタルの胸に倒れ込んだ。
そして死んだ。
「なにが『俺の可愛い魔女』だ、クソッタレ」
マタルは死体を押しのけて寝台に寝かせると、右耳に封鐶をつけなおした。すると、空中の三日月刀は肌の上に還ってもとの茨へと戻り、くねりながら腰の後ろに収まった。
ショールをかぶり、冷静な目で男を見下ろす。名乗らなかったが、彼がデンズウィックに屋敷を構えるダウリング家の三男だということはわかっていた。だからこそ、彼を狙ったのだ。
部屋の戸の前まで歩いて行き、外に向かって囁きかける。
「終わった」
そして、静かにあいた戸の隙間から、ホラス・サムウェルが滑り込んできた。
白髪交じりの長髪を後ろで結わいた中年の男だ。三十五歳にしては老けて見えるから、初めて会った者は彼のことをもっと年上だと思う。今日は審問官の仕着せではなく、質素な黒の長衣を着ていた。
十歳を数年過ぎたころ、マタルは故郷を捨てた。追っ手を躱しながら荒野を渡り、自ら奴隷商人の懐に飛び込んだ。そうしてダイラへの密入国を果たしておいてから、金目のものを巻き上げて行方をくらます──うまくいくはずだったのだ。もしあの日、この審問官が地下室に踏み込んでさえ来なければ。
これほどまでに力のある魔女が、一介の審問官に協力する理由のひとつが、それだ。マタルはいくつかの条件と引き換えに、彼の仕事を手伝う契約を結んだのだった。
「文句のつけようがないほど新鮮な死体でございますよ、ご主人様」
ホラスは寝台の上に身を横たえた男を見て、深いため息をついた。
「気絶させるだけでいいと言っただろう」
鉄を思わせるほど濃い蒼の瞳が、マタルの全身をさっと撫でる。ほんの一瞬、眉間の皺が深まったのは、あられもない姿をしているせいだろうか。
まさか嫉妬か? そんなはずないよな。
マタルはにっこりと笑った。
「真実は死人から取り出す方が早い」そして、クッションの効いた肘掛け椅子にどさりと腰を下ろし、足を組んだ。「どうせ死ぬなら、あなたと俺のどちらが殺しても同じだろ。さっさと片が付くほうがいい」
「いいか、今度勝手に殺したら──」
「はいはい、仰せの通りに」
この応酬も、もう何度目になるのだったか。だから二人とも、これが単なる脅しだということはわかっていた。
そして、この後にすべきことも。
ホラスが死体の前に立ち、ため息をつく。彼は、深く倦んだ眼差しをマタルに向けた。
これで七度目だ、とその目は語っていた。何度繰り返しても、光が見えない。
だが復讐のいいところは、いつかは終わると言うことだ。成し遂げるにせよ、しくじるにせよ。
「準備は?」
尋ねると、彼は無言で頷いた。
「では、こじ開けよう」
マタルは薄絹をなびかせて椅子から立ち上がり、今度は左耳の封鐶を外した。
†
生きとし生けるものたちは、常に二つの世界と──時には限りなく広大な──その境界に生きている。
陰と陽。過去と未来。北と南。東と西。天と地。男と女。神と人。そして、太陽と月。
かつて、この世界には数多の神々が存在していた。神々の父である嵐神ユルンを筆頭に、北海神マルドーホ、正義の女神ユスタリ、剣神スヴァールク、黄昏のリコヴ……数えきれぬほど多くの神と、彼らを崇める国々があった。全ての神はカルタニアの万神宮に本宮を持っていた。そこでは全ての神が平等に祀られ、崇められていた。
しかし、太陽を司る陽神デイナの力が他を圧倒したことで、その均衡が崩れ始める。
まず、デイナの弟でもある黄昏の神リコヴが神宮を追放された。それをかばった月神ヘカも──兄デイナに劣らぬ力の持ち主だったが──同じく放浪の身となった。
ヘカはデイナの北、緑海に浮かぶエイルという国に流れ着いた。彼女はそこで、自分に忠誠を誓った者に祝福を与え、自らの眷属である人外を生み出したのだ。ゆえに、人間は陽神の子、ナドカは月神の子と呼ばれる。
数多くいる月神の子らのなかでも、魔女ほど定義が難しい者はない。
かれらは最も人間に近いところに位置するナドカで、それゆえ世界中に様々な有様の魔女が存在している。風習も、社会的地位も、魔力との関わり方も千差万別だ。
マタルの故郷であるアシュモールは、海の向こうの東方大陸にひしめき合う大国のひとつだ。大陸の南に広がる砂漠と荒野の国で、王族同士の結婚や同盟で兄弟同然となったダイラやフェリジア、ヴァスタリアといった国とは、文化も風習も言語も、神の呼び名やその教義も、まるで違う。
アシュモールの国民は、ひとつの王族と、広大な砂漠を渡る遊牧民の部族たちから成る。アシュモールの魔女は、ダイラや他の陽神教国に住む魔女とは性格を大きく異にするが、中でも最も畏れられているのがサーリヤの一族だ。彼女たちは他の部族たちからは離れ、独自の集団で生活をしている。
彼女らが他のものたちと滅多に交わらないのには理由がある。サーリヤ族の魔術は、他の国では、決して侵すべからざる領域に立ち入るものだ。死という理をねじ曲げる彼女らの死霊術は人間からも、同じナドカからさえ忌み嫌われる。
ホラスは寝台に仰向けになった男を眺めた。何か文句を言いかけたところで死んだように、うっすらと口を開けている。薄く白粉を叩いた顔は、ホラスより年上だとは思えないほどなめらかだ。親から受け継ぐ領地を持たぬ三男であるが故に、彼はもうじき聖堂に入って神に仕える身となり、持参金代わりの布施とひきかえに、そこそこの位階と役職を授かり、死ぬまで安泰な暮らしを手に入れることになっていた。
フィリプ・ダウリング。
会うのは二度目──のはずだ。だが、ホラスにはその記憶がなかった。
「始めるぞ」
マタルが男の顔に手をかざし、目を閉じる。すると彼の肌の上に、あの変化が現れた。人間には計り知れない力が彼の中で開花してゆくときの、あの変化が。
歪みのない茨の文様と、それらを結び合わせる花──マタルの肌を彩る九重薔薇の文様とその拡がりには、何度目にしても感嘆させられる。
マタルが目を見開くと、琥珀色の瞳が強い光を宿していた。
「フィリプ・ダウリング。我が声に応えよ」
男の顔に手をかざすと、口元が大きく開いた。マタルは満足げな笑みを浮かべ、すらりとした指をゆっくりとひらめかせながら、不思議な響きの焔語で、詩の詠唱を始めた。
吾はサーリヤの血の者 地に注ぐ水
巫の祖は マナールの末裔よ
ダウリング 汝 奥津城にありて
吾 甦らせんその声を 月の力以て
アシュモールの魔女にとっては、言葉が魔法で、詩が呪文だ。
彼の声は虚ろであると同時に力強く、何かを抑え込むようでいて、同時に掻き立ててもいるようだ。木霊のように反復する音、舌を巧みに使った滑らかな発音は、彼の肌の上に現れる美しい模様を思わせる。
明かしたまへ 汝知りたるその真実
幾ほど深く埋めたとても
大地に 白雨染み入る如 我が力
逃るることは能わざるかし
ダウリングの口から、白い煙のようなものが立ち上る。マタルは何かを確かめるように煙を左手の指で手繰り、小さく頷いた。
「これで、この男はあなたのものだ」
男の顔から目を離さずに、マタルが言う。
「ご主人様、なんなりとご命令を」
ホラスは男の傍らに立ち、血の気を失った顔を見下ろした。この顔のどこかに、記憶を呼び起こす手がかりがないだろうかと考えながら。
「一三四八年──二十年前の夏だ」ホラスは片膝をつき、男の耳元に囁いた。「お前と、お前の仲間は、ロンブリーのはずれの森で、ひとりの少女を殺した」
男の喉から、壊れた笛のような音が漏れる。それが真実の前兆であることを、ホラスはもう知っていた。
「マーガレット・サムウェル」思い出すだけで痛みを伴うその名前を、感情を廃した声でゆっくりと口にする。「貴様らが焼き殺した娘だ」
夏になるたびに訪れた、ロンブリーの田舎町の風景が脳裏に蘇る。かつて、叔父一家がその町に住んでいた。叔父のロジャーと、ナタリアの夫婦。そして、娘のマーガレット。
土埃立つ道。くたびれた道標。畑に並んだ緑と、苔の積もった板葺きの屋根。水車の回る音と、庭先で揺れる花。蜜蜂の羽音。マギーが大事にしていた、薬草園の青臭い匂い。一日ごとに近づく祭りを楽しみにしながら、新しいガウンを縫っていた彼女の横顔。
マーガレットはホラスの従姉で、一人っ子のホラスにとって姉のような存在だった。憧れていたし、幼心に恋してもいた。だがあの夏の夜、彼女の輝かしい命は永遠に奪われた。ホラスの記憶と共に。
「あの夜のことを、全て話せ」
†
マーガレット・サムウェルは変異したばかりの魔女だった。そして、二十年前の夏祭りの夜に殺された。祭りで賑わう町の広場から離れた森の空き地で、木の柱にくくりつけられ、燃やされたのだ。
その話を聞いたとき、すぐに片が付くはずだとマタルは考えた。人外狩りを楽しむ人間はどこの国にもいる。突発的に湧き上がった衝動に身を任せて──あるいは、日頃の鬱憤を晴らすために立場の弱いものを狙う輩の仕業だ。連中のひとりをつかまえてこじ開ければ、狩りの全容も、加担したものの名も、たちまち明らかになるだろうと思っていた。
結局、ホラスと出会ったあの夜から七年が経っても、まだ首謀者を見つけることが出来ていない。
いままでに、六人の男たちを尋問した。
いまは七人目が、二人の目の前で真実を吐き出している。
「娘が……泣きわめくので、仲間が殴った……」
死者の声はいつも虚ろだ。感情が消えているから、まるで鞴がしゃべるような調子になる。
「仲間、とは?」ホラスが冷静な声で尋ねる。
「ジョン・マンロー」
一昨年、マタルとホラスが手にかけた男だ。
「それから?」
「気を失った娘を……柱に縛り付けて、地面の穴につきたてた……前の夜に、わたしとマンローが掘っておいた……爪の間に土がはいって取れないので、綺麗にするのに苦労した──」
死者の意識は彷徨いがちで、度々脇道に逸れるのでその度に正してやらねばならない。
「柱を立てたあとは?」
「その後は……待った。仲間たちが集まるのを……」
ホラスは身を乗り出した。「誰がやって来た?」
「ノースモア……コルボーン……オーツ……ソザートン……リッチフィート……」いままでに始末してきた連中の顔が、マタルの脳裏に浮かぶ。「隻眼の男……王都から来た男が、二人……」
この魔法は、生前に一度でも目にしたものならば、どんなに些細な記憶であろうと呼び出すことが出来る。ただ、本人が名前を知らない人間については、人相や特徴しか引き出せないのが難点だった。いままでに得た情報から、マーガレットの殺害には十二人の男たちが関わったことがわかっている。ダウリングが名前と人相を並べてゆく間、ホラスは目を閉じ、耳にした情報を頭の中の日誌に書き込んでいた。
「それから、ホーウッド」
「ホーウッド?」
ホラスが目を開けた。これは初めて出てきた名だ。
「ニコラス・ホーウッド」男が繰り返した。「彼だけ、ひとり遅れてやってきた……」
「他には?」ホラスが鋭い声で促す。
あとひとりいる。
陽神の加護を得て悪鬼と戦った十二人の使途にちなんで、魔女狩りの儀式には十二人の人手が必要だとされる。だから、あそこには十二人いた。
「あとひとり……」
マタルは祈るような気持ちで、続く言葉を待った。
「お……」男の喉が掠れる。「お……思い出せない……確かにいたのに……」
まただ。
マタルはため息をついた。
死者が記憶をなくすということは、まずありえない。だが、ホラスと共にこじ開けた男たちにはある共通点があった。そこにいたはずの人間──中でも、四人の男たちに関する記憶が抜け落ちているのだ。
誰もが口をそろえて挙げる、隻眼の男と、王都から来た二人の男。そしてもう一人の、謎の人物。この四人が魔女狩りの首謀者であることに疑いの余地はない。それなのに、どうしても彼らの正体に迫ることができないのだ。
ホラスは首を振り、別の質問をした。
「森の中に隠れていた少年を見つけただろう」
ダウリングは、間延びした「ああ」という音を出した。
「娘の従弟だと……言っていた……引きずり出して、押さえつけ……それから……子供が目をそらせないように、オーツが髪を掴んだ。あいつは酔うとたちが悪くなる……」
「それから?」ホラスは静かに尋ねた。
二十年間自分を苛み続ける記憶を、何度も他人の口から聞かされるというのは、どういう気分なんだろうかと、マタルはいつも思う。
まるで他人のように振る舞っているが、これはホラス自身が体験したことなのだ。
マタルはダウリングを見つめ続けた。死者をこじ開けている間は、相手から視線を外せない。眼力で押さえつけていなければ、制御を失って暴れ始めてしまうのだ。だから、いまはホラスの表情を盗み見ることが出来ない。
それを残念に思うべきだろうか。それとも、感謝すべきだろうか。
「その少年に、お前たちは何をした?」ホラスの声は相変わらず冷静だった。
男は何かを言おうとして、首を絞められた鶏のような声を上げた。
「う、う……わからない……なにかがおこった……」
「娘には、どうやって火をつけた?」
男は、陸に揚げられた魚のように口を開いては閉じた。
そして言った。「わからない……ああ……わからない」
失望が、インクの染みのように胸に広がる。いままでに六度、同じ言葉に落胆させられてきたのだ。
ホラスは続けざまに尋ねた。「それを見せた後、お前たちは少年に何をした? どうやって、彼の記憶を盗んだ?」
「お、おも……」感情のこもらないはずの死者の声に、何故だか、おびえの気配を感じ取る。「思い出せない……あいつは……俺たちにも同じことをしたから……」
「同じこと?」
「き」舌が喉に引っかかるような音を立てる。「記憶を、とられた……気づいた時には、夜が明けていて……祭りの広場にいた……森にいたはずだったのに……ひどく、気分が悪かった」
喘鳴まじりの呼吸をして、男が言う。
「娘が死んだことは……その日の昼過ぎに知った……。死体が見つかって……町が大騒ぎになっている間に、我々は街に帰った……デンズウィックに」
マタルはため息をついた。覚悟はしていたが、それでも、この結果には落胆せざるを得ない。
七年前、マタルがホラスから初めて復讐のことを聞いたときには、すぐに片がつくと思っていた。一筋縄ではいかないとわかったのは、ホラスの記憶が奪われていることを知ってからだ。
魔女狩りは起こる。嘆かわしいけれど、珍しい話ではない。連中は、まだ〈集会〉に所属していない、孤立した若い魔女を狙う。仲間の魔女からの報復を恐れる必要がないからだ。そこには卑劣さがあるだけで、大義も計画性もない。腐りきった人間のための最悪の気晴らしが魔女狩りなのだ。
それなのに、この連中は記憶を消された。
人間の記憶を奪うなどと言うことは、生半な力では為し得ない。ひとの記憶を消せるほど強大な力を持った者が、どうして負け犬どもの憂さ晴らしなんかに関わっているというのか?
進むほどに迷い、霧の中に閉じ込められる。そしていまでは妄執だけが、ホラスを突き動かしているようだった。
「よくわかった」
ホラスは言い、マタルに向かって頷いた。終わりの合図だ。
マタルは男の口元に顔を寄せ、そこから立ち上る煙に息を吹きかけた。
すると、男はため息をつくような音を立て──今度こそ、永遠に沈黙した。
「また無駄骨だった」ホラスが言い、立ち上がる。
「収穫はあったじゃないか。ニコラス・ホーウッドの名前だ」マタルは言いながら、封鐶を付け直した。「聞いたことがある気がする」
「だろうな。ニコラス・ホーウッドはダイラの王港長官だ。船艦を抱える港のまとめ役だよ」
マタルは小さく口笛を吹いた。「大物だ」
「大物過ぎる」ホラスは重々しいため息をついた。「しばらく間を開けよう。注意を引きたくない」
「一年?」
「いや……年が明けたらでいい。少し様子をみたい」
慎重なのがホラスのいいところだ。そのおかげで、真相に近づけぬまま七年も彼と共に過ごしている。
「ホラス」
マタルは首の上でひとつに結わえられた、ホラスの白髪交じりの長髪をそっと握って、引き寄せた。広い肩を背中から抱きしめ、耳元に唇を寄せる。
「なあ、ホラス……」
腕の中でゆっくりと、ホラスが振り向く。「寝台は死体に占拠されてるぞ」
マタルは笑った。「寝台でなきゃヤれないわけじゃない。だろ?」
問いかけのようでありながら、それは要求だった。
ナドカという種族は、無敵の力を誇るように見えて、実は多くの弱点を持っている。人狼は満月の夜には使い物にならないし、吸血鬼は血を飲まなければ萎びた蛭と同じだ。そして魔女もまた、力を使い続けるためには欠かせないものがある。性的昂揚だ。
「死体がにおいはじめる前に、さっさと済ませよう」マタルは言い、寝台の上の死体に目をやった。「こいつのせいで萎えたりしたら困るな」
脱いだショールを死体にかぶせたものの、紅の薄絹を纏ったせいでかえって異様さが際立ってしまった。まあ、他にどうしようもない。
「マタル、今はそういう気分には……」
「小さい頃、親に犬を飼いたいとせがんだことは?」
「あったら、何だと言うんだ」
マタルは悪戯っぽく笑った。「魔女を飼うなら、餌にまできちんと責任を持たないとな」
マタルはホラスのベルトに手を掛けて引き寄せてから、もう一方の手を両脚の付け根に這わせた──そこに熱があることを期待して。けれど見つけたのは、自制心の固まりのような男の、自制心の固まりだけだった。
「ねえ、審問官様」マタルは挑発した。「この卑しい魔女にお仕置きしてくださいな」
彼は小さく笑って首を振り、マタルの手から逃れた。
「そういう冗談は面白くないと言ったはずだ」
「強がるな。笑ったくせに」
ホラスはため息をついてから、観念したようにベルトの金具に手を掛けた。
「二日後には王都に帰っていなければならない」ホラスは言った。「今夜のうちに発つことになる。あまり気遣ってはやれないぞ」
「誰が気遣って欲しいと言った? 俺が欲しいのは」マタルはニヤリと笑った。「あなたの頭と同じくらい硬い、そいつだけだ」
マタルは、長衣の留め金を外してゆくホラスの脚の間に跪くと、下穿きの紐を解き、我が物顔で手を突っ込んだ。
ここから先──交わりとも言えぬ、この乾いた性交を行う間は、ホラスの顔を見ないと決めていた。そこに怒りや拒絶があるのを見てしまったら、逃げ出したくなるに決まっているから。
一族の女たちに恐れられるほどの魔女である、このマタル・サーリヤが一介の審問官に協力する理由はいくつかある。例えば、本当なら火あぶりになっていたであろう罪を隠蔽してくれた見返りとして。あるいは、寄る辺ない自分を家に住まわせ、教育を施し、仕事を与えたことへの恩返しとして。受けた恩は必ず返すのが、アシュモール人の矜持だ。だが、いくつかある『理由』の中で最も大きいのが……十三歳も年上の男に抱く、このどうしようもない恋慕の情だった。
馬具の革のにおいと、古い本を思わせるにおい。そして、決して不快ではない彼の汗のにおいを吸い込みながら、やわらかいものを口に含む。頭上で鋭く息を呑む音がして、ホラスの『気分』が変わったことを知る。
それだけで、背筋がゾクゾクと震えてしまいそうだった。
口の中のものが大きく、硬くなるほどに、マタルはその感触を愉しむように、舌や唇で丹念に愛撫した。そうして口淫を続けながら、手のひらに唾を吐き、濡らした指で後ろを解した。
熱さと重さを増してゆくホラスの屹立を嘔吐くほど深く飲み込み、指先で熱い内壁をこすり上げる。恍惚が目の奥に滲み、酔いが回ったみたいに頭がぼうっとする。
「ん……」
ダイラに来てから、扱う魔法の威力はそれまでよりも大きく高度になっていったから、母や姉たちに教えられたとおりに、性的昂揚を手に入れるために必要なことをした。昂揚を得るのに、王都以上に便利な場所はない。市壁を出て少し南に足を伸ばせば、そこは国で最も爛れた歓楽街だ。
サウゼイには魔法を使う度に世話になった。だから世の中には、抱く相手を多少手荒に扱っても構わないと思っている輩が多いことは知っている。相手に跪かせ、髪を掴んで喉の奥から血が出るほど激しく口を犯す男もいる。準備もなしにぶち込んで、痛がる様を見て愉しむ男もいる。
十八の歳に意を決して、ホラスに「魔力の補充のために抱いてくれ」と頼んだときには、彼のそうした一面を見ることになるのかと思っていた。けれど、知らない相手との行為には飽き飽きしていたし……後先考えられないほどホラスに焦がれていたから、乱暴な扱いを受けてもいいとさえ思っていた。
ところが彼は、マタルが今まで出会った連中とはまるで違っていた。
彼がマタルに触れることは──たとえ行為の最中であろうと──めったにない。痛みを与えることも、無理強いすることもない。我を忘れて獣じみた声を上げることも、荒々しく唇を奪うこともしない。ただ優しく、マタルが必要とするものを与えてくれるだけだ。
わかっている──それは『拒絶』に違いないのだと。
けれどこの身体はもう、他の男から与えられるものでは満たされないだろう。たとえ、この行為に心からの愛情や欲望が伴っていなくても。
心から望むものほど手に入らないのだとマタルに教えたのは、姉だった。姉の言葉が間違っていたことは、今までに一度もない。
「マタル」
遠慮がちな手が肩に置かれる。準備が整ったという合図だ。
マタルは立ち上がると、ホラスに尻を向けて、肘掛け椅子に膝を乗せた。そうして、彼が中に入ってくるのを待った。
すでに充分ほぐれているはずのそこに、ホラスは自分の荷物から取り出した軟膏をぬりつける。これもまた、お決まりの手順だった。
「ホラス、いいからはやく──」
「駄目だ」
駄目なものか。こっちは、せっかく勃たせたものが萎えるんじゃないかと気が気じゃないってのに。
だが、マタルの心配をよそに、その場所に触れたホラスのものはしっかりと硬かった。ホラスが椅子の背もたれを掴んで、後ろからマタルに覆い被さる。ここまでくれば、あとは、あまり考えなくていい。いや、考えない方が良い。
「いいか?」
「もちろん」マタルは頷いた。
そして、待ちわびた瞬間が訪れた。
ホラスのものがゆっくりと入ってくる感覚にマタルはのけぞり、小さな歓喜の声を漏らした。
「ああ……!」
熱い屹立が内側を押しひろげ、擦りながら奥へと這入ってくる。マタルは、熱に緩んだ軟膏の音や、首筋にかかるホラスの息の熱さに震えた。擦れ合う度に、身体のいたるところで小さな泡が弾け、中から官能の蜜が溢れる。貪欲に研ぎ澄まされた感覚が、この結合を悦び、駆り立てる。
「ホラス、もっとつよく……!」
彼は望みを叶えてくれた。腰を打ち付けられるたび、椅子が軋み、頭が痺れて、官能が潮のように身体の中を満たしていく。
「あ……!」
指先は切望のままに彷徨い、首筋や胸、そして、決して触れてはもらえない自身を愛撫する。マタルは、左手に強く握り込んだものを扱きながら、椅子の背もたれを掴むホラスの手を、滲む目でじっと見つめた。
あの大きく筋張った──すこしかさついた手で触れられたら、どんなにか気持ちがいいだろう。
強請れば、彼はきっと叶えてくれる。口づけさえしてくれるかもしれない。だからこそ言えない。優しさだけで満足するなんて、魔女にとってはひどい屈辱だ。
昔、姉はこうも言っていた。恋とは敗北。膝を屈して愛を請う時、魔女は死ぬのだと。
だからマタルは、せめて心の中でその瞬間に手を伸ばすために目を閉じた。
ホラス……なあ、ホラス。
優しさや気遣いなど要らない。
腕を引き寄せ、首筋を掴み、喉を絞り上げて、骨が震えるほど激しく揺さぶって欲しい。血が出るほどつよく耳を噛み、熱く凶暴な吐息で後ろ髪を乱し、荒々しい欲望のまま、めちゃくちゃに突き上げて欲しい。そうして果てるときには、一番奥に全てを注ぎ込み、それでも足りぬと言わんばかりに、さらに奥へと押し込んで欲しい。どんなに乱暴にされてもかまわない。
だが、すべては夢だ。叶ってはいけない夢。
「ああ……いく……!」
マタルはのけぞり、待ち望んでいた絶頂を受け入れた。心の中で何度も彼の名前を呼びながら、恍惚の甘い蜜に沈み、息を奪われるこの一瞬。この一瞬だけは、満たされない思いも全て忘れることができる。
「あ……は……」
喘ぎながら椅子の背に頽れ、鼓動する度におこる甘美な痙攣に身を任せる。その間も、ホラスは優しい抽挿を止めないでくれていた。
まるで、赤子をあやしているみたいに。
そう。赤子だ。恋人でも、愛人ですらない。ただの……面倒を見なければならない相手。
「ふ……」
マタルが溢した自嘲の笑いには気づかず、ホラスは達しないままの彼自身をそっと引き抜いた。そして寝台の下から尿瓶を引き出し、その中に放って終わりにした。その後ろ姿を無言で見つめている内に、現実を覆い隠す夢想の靄は消え失せた。
「あなたは先に王都に帰っていてくれ」普段の会話と変わらぬ調子で言い、椅子から立ち上がる。「俺は店主と話がある。死体の処理もしないとな」
身体にへばりついた精液は冷えて、今となってはただただ不快なだけだ。マタルは脱ぎ捨てた衣装でそれを拭い去り、部屋の隅に置かれた長櫃から、自分の服を取り出した。
「一人で平気か?」
その声は優しかった。お情けで抱いた相手にうってつけの声色だ。
「一人の方がいい」マタルは言った。「ここの店主とは知り合いなんだ」
店主のバイロンはデーモンで、商才が集うマチェットフォードでも名うての経営者だ。これまでにも何度か世話になったことがあるとは言え、自分の店で客が死んだことをよく思うはずがない。頼み事のひとつやふたつ聞くことになるだろうが、それでなかったことに出来るなら安いものだ。
「明日には、俺もこっちを発つよ」
ホラスはすでに服を着終えていた。彼はマタルの顔をじっと見てから言った。「用心しろ、マタル」
「わかってる」
「知らない奴にはついていくな」彼は真面目な顔を取り繕おうとして、失敗していた。「それから、道に迷ったら烏を送って報せるんだぞ」
「さっさと行けよ、うるさいな!」
わざとらしい子供扱いに憤慨したふりで、マタルは部屋からホラスを蹴り出した。
笑いながら扉を閉め、遠ざかる足音を聞く。目を閉じて、深くため息をついた。満たされた魔女の身体の中で、なおもひもじいままの心──それを慰める方法を、マタルは知らなかった。
「緑海の瘴気が晴れたと思ったら、さっそくナドカの国が出来たんだと」男は言い、忌々しげに口元を歪めた。「ついこの間、ナドカが王になったそうだ。信じられるか? 吸血鬼の王だぞ。虫唾が走る!」
マタルは従順に首を振り、男の杯にワインを注いだ。
「陛下も何を考えておいでなのだろう? せっかくの領土をみすみす連中にくれてしまうとは。ナドカが目障りなのはわかるが、追い払うにしたって別のやり方があったろうに。これでは、剣をやるかわりに喧嘩相手になってくれと言うようなものだ」
「喧嘩をお望みなのかも」マタルは言った。「昨日今日できた国に、ダイラが負けるはずがありませんよ」
微笑みを浮かべて、男に杯を差し出す。
「どうだか」男は言った。「フェリジアやヴァスタリアとにらみ合っている最中に、エイルにまで気を配るのは骨が折れるだろうな」
男がワインに口をつけている隙に、マタルは彼のシャツに手を伸ばした。男は嬉しい驚きだと言いたげに眉を上げ、マタルを見た。
オパールの飾りボタンを、ひとずつ外しながら尋ねる。
「ナドカは目障り?」拗ねた声を出す。「俺のことも、この寝台から追い出したいとお望みですか、旦那様?」
男の肌が熱を帯び、興奮に滲む汗のにおいが立ち上る。
「さあ、どうかな」男はもったいぶった調子で答え、剥き出しの腰に手を這わせた。「おまえの努力次第だよ」
マタルはにっこりと微笑んで男の膝の上に跨がると、褐色の肌によく合う深紅の薄絹を、するりと脱ぎ捨てた。ほんのわずかに残った慎みは、か細い金の鎖と手のひらほどの大きさもない布で作られた垂れ布にかかっている。それも、風前の灯火だ。
マタルは深呼吸をして、右耳につけられた封鐶を外した。
するとみるみるうちに、眠っていた月の力が目覚めはじめた。
「はぁ……ぁ」
肌にさざ波が立ち、戦慄がおこる。抑え込まれていた魔力は、ようやく訪れた解放のひとときに歓喜していた。身体の奥深くから湧き上がる興奮の疼きが、引き締まった腰から鍛え上げられた腹、やわらかく張り詰めた胸から、なめらかな首筋へと広がってゆく。
「ほら……見て」
官能の波を追いかけるように、磨き上げた肌の上に文身の茨が現れる。腰の後ろから腹、そして胸元へ。文様がくねり、肉体を飾り立てながら、いたるところに九重の薔薇──アシュタハを咲かせていった。アシュモールでは、夜明けと共に一斉に狂い咲くその真っ赤な薔薇は、気狂い花とも呼ばれている。
男は当然ながら、目の前の光景に息を呑んだ。そんな男を見下ろすマタルの右頬に、見事な花が開いた。そこに口づけせよと唆すように。
マタルは言った。
「アシュモールの魔女を抱いたことは?」
男の眼が、マタルの口元に吸い寄せられる。上下の犬歯には、精緻な彫刻を施した金をかぶせてあるのだ。この歯に噛みつかれたいと願う輩は、決して少なくない。
男は興奮に息を喘がせながらも「ああ」と呟いた。「おまえが最初の一人だ」
マタルは満足げに微笑み、熱を持った男の股間に手を伸ばした。そして、紅潮した耳元に唇を寄せた。
「それは、嬉しいな」
マタルの祖国では、月女神に与えられた祝福の力を扱う女たちは巫女と呼ばれる。
部族の男族長に仕えて、常人と旅をする魔女は数多くいる。だが、誰もがその名を耳にしただけで恐怖に肩を震わせるほどの強大な魔女はほんの一握り──死霊術を駆使するサーリヤたちだけだ。サーリヤ族の始祖マナールは、遠い昔、魔神との契約によって大いなる力を授けられた。
そして、マタルもサーリヤ族の一員だった。少なくとも、かつては。
ある祖母はよく言ったものだ。「この子の力はサイルのようだ」と。
砂漠の涸れ川にひと度雨が降ると、人や家畜を喰らう暴れ川となる。その祖母はマタルを暴れ川と呼び続け、ついに本当の名を呼ぶことはなかった。
ある母はマタルを心底から恐れていた。息子が母にする、ごくあたりまえの抱擁さえ厳しく拒絶するほどに。その拒絶は、マタルが故郷から逃げ出すまで続いた。
もう、何年も昔の話だ。
マタルは、微笑みひとつで過去を退けて、硬くなった男のものをそっと撫でた。
「魔女が箒に乗って飛ぶ理由をご存じ?」
男は快感と好奇心の中間で、中途半端な笑みを浮かべた。「いいや」
「貴方の箒で、どれほど高く飛べるか確かめたいな」
膨らんだものの形を、指先で辿る。
「ああ……」男が目を閉じ、恍惚としたため息を漏らした。「はやく跨がってくれ、俺の可愛い魔女──」
そのとき、マタルの褐色の肌に絡みついた茨の文身が、無数の三日月刀へと形を変えはじめた。
漆黒の剣はマタルの肉体を離れ、音もなく空中に浮かび上がると男を取り囲んだ。まるで、獣の顎に並んだ鋭い歯列のように。
凶暴な期待に、胸が躍る。
「残念」マタルは、氷のように冷たい声で囁いた。「その日は永遠に来ないんだよ、クソ野郎!」
漆黒の魔剣が、マタルが思い描いたとおりに空を切り、男の背中を、胸を、首を貫いた。男には抵抗する術も、身構える暇もなかった。彼はほんの一瞬身体を強ばらせ……次の瞬間、マタルの胸に倒れ込んだ。
そして死んだ。
「なにが『俺の可愛い魔女』だ、クソッタレ」
マタルは死体を押しのけて寝台に寝かせると、右耳に封鐶をつけなおした。すると、空中の三日月刀は肌の上に還ってもとの茨へと戻り、くねりながら腰の後ろに収まった。
ショールをかぶり、冷静な目で男を見下ろす。名乗らなかったが、彼がデンズウィックに屋敷を構えるダウリング家の三男だということはわかっていた。だからこそ、彼を狙ったのだ。
部屋の戸の前まで歩いて行き、外に向かって囁きかける。
「終わった」
そして、静かにあいた戸の隙間から、ホラス・サムウェルが滑り込んできた。
白髪交じりの長髪を後ろで結わいた中年の男だ。三十五歳にしては老けて見えるから、初めて会った者は彼のことをもっと年上だと思う。今日は審問官の仕着せではなく、質素な黒の長衣を着ていた。
十歳を数年過ぎたころ、マタルは故郷を捨てた。追っ手を躱しながら荒野を渡り、自ら奴隷商人の懐に飛び込んだ。そうしてダイラへの密入国を果たしておいてから、金目のものを巻き上げて行方をくらます──うまくいくはずだったのだ。もしあの日、この審問官が地下室に踏み込んでさえ来なければ。
これほどまでに力のある魔女が、一介の審問官に協力する理由のひとつが、それだ。マタルはいくつかの条件と引き換えに、彼の仕事を手伝う契約を結んだのだった。
「文句のつけようがないほど新鮮な死体でございますよ、ご主人様」
ホラスは寝台の上に身を横たえた男を見て、深いため息をついた。
「気絶させるだけでいいと言っただろう」
鉄を思わせるほど濃い蒼の瞳が、マタルの全身をさっと撫でる。ほんの一瞬、眉間の皺が深まったのは、あられもない姿をしているせいだろうか。
まさか嫉妬か? そんなはずないよな。
マタルはにっこりと笑った。
「真実は死人から取り出す方が早い」そして、クッションの効いた肘掛け椅子にどさりと腰を下ろし、足を組んだ。「どうせ死ぬなら、あなたと俺のどちらが殺しても同じだろ。さっさと片が付くほうがいい」
「いいか、今度勝手に殺したら──」
「はいはい、仰せの通りに」
この応酬も、もう何度目になるのだったか。だから二人とも、これが単なる脅しだということはわかっていた。
そして、この後にすべきことも。
ホラスが死体の前に立ち、ため息をつく。彼は、深く倦んだ眼差しをマタルに向けた。
これで七度目だ、とその目は語っていた。何度繰り返しても、光が見えない。
だが復讐のいいところは、いつかは終わると言うことだ。成し遂げるにせよ、しくじるにせよ。
「準備は?」
尋ねると、彼は無言で頷いた。
「では、こじ開けよう」
マタルは薄絹をなびかせて椅子から立ち上がり、今度は左耳の封鐶を外した。
†
生きとし生けるものたちは、常に二つの世界と──時には限りなく広大な──その境界に生きている。
陰と陽。過去と未来。北と南。東と西。天と地。男と女。神と人。そして、太陽と月。
かつて、この世界には数多の神々が存在していた。神々の父である嵐神ユルンを筆頭に、北海神マルドーホ、正義の女神ユスタリ、剣神スヴァールク、黄昏のリコヴ……数えきれぬほど多くの神と、彼らを崇める国々があった。全ての神はカルタニアの万神宮に本宮を持っていた。そこでは全ての神が平等に祀られ、崇められていた。
しかし、太陽を司る陽神デイナの力が他を圧倒したことで、その均衡が崩れ始める。
まず、デイナの弟でもある黄昏の神リコヴが神宮を追放された。それをかばった月神ヘカも──兄デイナに劣らぬ力の持ち主だったが──同じく放浪の身となった。
ヘカはデイナの北、緑海に浮かぶエイルという国に流れ着いた。彼女はそこで、自分に忠誠を誓った者に祝福を与え、自らの眷属である人外を生み出したのだ。ゆえに、人間は陽神の子、ナドカは月神の子と呼ばれる。
数多くいる月神の子らのなかでも、魔女ほど定義が難しい者はない。
かれらは最も人間に近いところに位置するナドカで、それゆえ世界中に様々な有様の魔女が存在している。風習も、社会的地位も、魔力との関わり方も千差万別だ。
マタルの故郷であるアシュモールは、海の向こうの東方大陸にひしめき合う大国のひとつだ。大陸の南に広がる砂漠と荒野の国で、王族同士の結婚や同盟で兄弟同然となったダイラやフェリジア、ヴァスタリアといった国とは、文化も風習も言語も、神の呼び名やその教義も、まるで違う。
アシュモールの国民は、ひとつの王族と、広大な砂漠を渡る遊牧民の部族たちから成る。アシュモールの魔女は、ダイラや他の陽神教国に住む魔女とは性格を大きく異にするが、中でも最も畏れられているのがサーリヤの一族だ。彼女たちは他の部族たちからは離れ、独自の集団で生活をしている。
彼女らが他のものたちと滅多に交わらないのには理由がある。サーリヤ族の魔術は、他の国では、決して侵すべからざる領域に立ち入るものだ。死という理をねじ曲げる彼女らの死霊術は人間からも、同じナドカからさえ忌み嫌われる。
ホラスは寝台に仰向けになった男を眺めた。何か文句を言いかけたところで死んだように、うっすらと口を開けている。薄く白粉を叩いた顔は、ホラスより年上だとは思えないほどなめらかだ。親から受け継ぐ領地を持たぬ三男であるが故に、彼はもうじき聖堂に入って神に仕える身となり、持参金代わりの布施とひきかえに、そこそこの位階と役職を授かり、死ぬまで安泰な暮らしを手に入れることになっていた。
フィリプ・ダウリング。
会うのは二度目──のはずだ。だが、ホラスにはその記憶がなかった。
「始めるぞ」
マタルが男の顔に手をかざし、目を閉じる。すると彼の肌の上に、あの変化が現れた。人間には計り知れない力が彼の中で開花してゆくときの、あの変化が。
歪みのない茨の文様と、それらを結び合わせる花──マタルの肌を彩る九重薔薇の文様とその拡がりには、何度目にしても感嘆させられる。
マタルが目を見開くと、琥珀色の瞳が強い光を宿していた。
「フィリプ・ダウリング。我が声に応えよ」
男の顔に手をかざすと、口元が大きく開いた。マタルは満足げな笑みを浮かべ、すらりとした指をゆっくりとひらめかせながら、不思議な響きの焔語で、詩の詠唱を始めた。
吾はサーリヤの血の者 地に注ぐ水
巫の祖は マナールの末裔よ
ダウリング 汝 奥津城にありて
吾 甦らせんその声を 月の力以て
アシュモールの魔女にとっては、言葉が魔法で、詩が呪文だ。
彼の声は虚ろであると同時に力強く、何かを抑え込むようでいて、同時に掻き立ててもいるようだ。木霊のように反復する音、舌を巧みに使った滑らかな発音は、彼の肌の上に現れる美しい模様を思わせる。
明かしたまへ 汝知りたるその真実
幾ほど深く埋めたとても
大地に 白雨染み入る如 我が力
逃るることは能わざるかし
ダウリングの口から、白い煙のようなものが立ち上る。マタルは何かを確かめるように煙を左手の指で手繰り、小さく頷いた。
「これで、この男はあなたのものだ」
男の顔から目を離さずに、マタルが言う。
「ご主人様、なんなりとご命令を」
ホラスは男の傍らに立ち、血の気を失った顔を見下ろした。この顔のどこかに、記憶を呼び起こす手がかりがないだろうかと考えながら。
「一三四八年──二十年前の夏だ」ホラスは片膝をつき、男の耳元に囁いた。「お前と、お前の仲間は、ロンブリーのはずれの森で、ひとりの少女を殺した」
男の喉から、壊れた笛のような音が漏れる。それが真実の前兆であることを、ホラスはもう知っていた。
「マーガレット・サムウェル」思い出すだけで痛みを伴うその名前を、感情を廃した声でゆっくりと口にする。「貴様らが焼き殺した娘だ」
夏になるたびに訪れた、ロンブリーの田舎町の風景が脳裏に蘇る。かつて、叔父一家がその町に住んでいた。叔父のロジャーと、ナタリアの夫婦。そして、娘のマーガレット。
土埃立つ道。くたびれた道標。畑に並んだ緑と、苔の積もった板葺きの屋根。水車の回る音と、庭先で揺れる花。蜜蜂の羽音。マギーが大事にしていた、薬草園の青臭い匂い。一日ごとに近づく祭りを楽しみにしながら、新しいガウンを縫っていた彼女の横顔。
マーガレットはホラスの従姉で、一人っ子のホラスにとって姉のような存在だった。憧れていたし、幼心に恋してもいた。だがあの夏の夜、彼女の輝かしい命は永遠に奪われた。ホラスの記憶と共に。
「あの夜のことを、全て話せ」
†
マーガレット・サムウェルは変異したばかりの魔女だった。そして、二十年前の夏祭りの夜に殺された。祭りで賑わう町の広場から離れた森の空き地で、木の柱にくくりつけられ、燃やされたのだ。
その話を聞いたとき、すぐに片が付くはずだとマタルは考えた。人外狩りを楽しむ人間はどこの国にもいる。突発的に湧き上がった衝動に身を任せて──あるいは、日頃の鬱憤を晴らすために立場の弱いものを狙う輩の仕業だ。連中のひとりをつかまえてこじ開ければ、狩りの全容も、加担したものの名も、たちまち明らかになるだろうと思っていた。
結局、ホラスと出会ったあの夜から七年が経っても、まだ首謀者を見つけることが出来ていない。
いままでに、六人の男たちを尋問した。
いまは七人目が、二人の目の前で真実を吐き出している。
「娘が……泣きわめくので、仲間が殴った……」
死者の声はいつも虚ろだ。感情が消えているから、まるで鞴がしゃべるような調子になる。
「仲間、とは?」ホラスが冷静な声で尋ねる。
「ジョン・マンロー」
一昨年、マタルとホラスが手にかけた男だ。
「それから?」
「気を失った娘を……柱に縛り付けて、地面の穴につきたてた……前の夜に、わたしとマンローが掘っておいた……爪の間に土がはいって取れないので、綺麗にするのに苦労した──」
死者の意識は彷徨いがちで、度々脇道に逸れるのでその度に正してやらねばならない。
「柱を立てたあとは?」
「その後は……待った。仲間たちが集まるのを……」
ホラスは身を乗り出した。「誰がやって来た?」
「ノースモア……コルボーン……オーツ……ソザートン……リッチフィート……」いままでに始末してきた連中の顔が、マタルの脳裏に浮かぶ。「隻眼の男……王都から来た男が、二人……」
この魔法は、生前に一度でも目にしたものならば、どんなに些細な記憶であろうと呼び出すことが出来る。ただ、本人が名前を知らない人間については、人相や特徴しか引き出せないのが難点だった。いままでに得た情報から、マーガレットの殺害には十二人の男たちが関わったことがわかっている。ダウリングが名前と人相を並べてゆく間、ホラスは目を閉じ、耳にした情報を頭の中の日誌に書き込んでいた。
「それから、ホーウッド」
「ホーウッド?」
ホラスが目を開けた。これは初めて出てきた名だ。
「ニコラス・ホーウッド」男が繰り返した。「彼だけ、ひとり遅れてやってきた……」
「他には?」ホラスが鋭い声で促す。
あとひとりいる。
陽神の加護を得て悪鬼と戦った十二人の使途にちなんで、魔女狩りの儀式には十二人の人手が必要だとされる。だから、あそこには十二人いた。
「あとひとり……」
マタルは祈るような気持ちで、続く言葉を待った。
「お……」男の喉が掠れる。「お……思い出せない……確かにいたのに……」
まただ。
マタルはため息をついた。
死者が記憶をなくすということは、まずありえない。だが、ホラスと共にこじ開けた男たちにはある共通点があった。そこにいたはずの人間──中でも、四人の男たちに関する記憶が抜け落ちているのだ。
誰もが口をそろえて挙げる、隻眼の男と、王都から来た二人の男。そしてもう一人の、謎の人物。この四人が魔女狩りの首謀者であることに疑いの余地はない。それなのに、どうしても彼らの正体に迫ることができないのだ。
ホラスは首を振り、別の質問をした。
「森の中に隠れていた少年を見つけただろう」
ダウリングは、間延びした「ああ」という音を出した。
「娘の従弟だと……言っていた……引きずり出して、押さえつけ……それから……子供が目をそらせないように、オーツが髪を掴んだ。あいつは酔うとたちが悪くなる……」
「それから?」ホラスは静かに尋ねた。
二十年間自分を苛み続ける記憶を、何度も他人の口から聞かされるというのは、どういう気分なんだろうかと、マタルはいつも思う。
まるで他人のように振る舞っているが、これはホラス自身が体験したことなのだ。
マタルはダウリングを見つめ続けた。死者をこじ開けている間は、相手から視線を外せない。眼力で押さえつけていなければ、制御を失って暴れ始めてしまうのだ。だから、いまはホラスの表情を盗み見ることが出来ない。
それを残念に思うべきだろうか。それとも、感謝すべきだろうか。
「その少年に、お前たちは何をした?」ホラスの声は相変わらず冷静だった。
男は何かを言おうとして、首を絞められた鶏のような声を上げた。
「う、う……わからない……なにかがおこった……」
「娘には、どうやって火をつけた?」
男は、陸に揚げられた魚のように口を開いては閉じた。
そして言った。「わからない……ああ……わからない」
失望が、インクの染みのように胸に広がる。いままでに六度、同じ言葉に落胆させられてきたのだ。
ホラスは続けざまに尋ねた。「それを見せた後、お前たちは少年に何をした? どうやって、彼の記憶を盗んだ?」
「お、おも……」感情のこもらないはずの死者の声に、何故だか、おびえの気配を感じ取る。「思い出せない……あいつは……俺たちにも同じことをしたから……」
「同じこと?」
「き」舌が喉に引っかかるような音を立てる。「記憶を、とられた……気づいた時には、夜が明けていて……祭りの広場にいた……森にいたはずだったのに……ひどく、気分が悪かった」
喘鳴まじりの呼吸をして、男が言う。
「娘が死んだことは……その日の昼過ぎに知った……。死体が見つかって……町が大騒ぎになっている間に、我々は街に帰った……デンズウィックに」
マタルはため息をついた。覚悟はしていたが、それでも、この結果には落胆せざるを得ない。
七年前、マタルがホラスから初めて復讐のことを聞いたときには、すぐに片がつくと思っていた。一筋縄ではいかないとわかったのは、ホラスの記憶が奪われていることを知ってからだ。
魔女狩りは起こる。嘆かわしいけれど、珍しい話ではない。連中は、まだ〈集会〉に所属していない、孤立した若い魔女を狙う。仲間の魔女からの報復を恐れる必要がないからだ。そこには卑劣さがあるだけで、大義も計画性もない。腐りきった人間のための最悪の気晴らしが魔女狩りなのだ。
それなのに、この連中は記憶を消された。
人間の記憶を奪うなどと言うことは、生半な力では為し得ない。ひとの記憶を消せるほど強大な力を持った者が、どうして負け犬どもの憂さ晴らしなんかに関わっているというのか?
進むほどに迷い、霧の中に閉じ込められる。そしていまでは妄執だけが、ホラスを突き動かしているようだった。
「よくわかった」
ホラスは言い、マタルに向かって頷いた。終わりの合図だ。
マタルは男の口元に顔を寄せ、そこから立ち上る煙に息を吹きかけた。
すると、男はため息をつくような音を立て──今度こそ、永遠に沈黙した。
「また無駄骨だった」ホラスが言い、立ち上がる。
「収穫はあったじゃないか。ニコラス・ホーウッドの名前だ」マタルは言いながら、封鐶を付け直した。「聞いたことがある気がする」
「だろうな。ニコラス・ホーウッドはダイラの王港長官だ。船艦を抱える港のまとめ役だよ」
マタルは小さく口笛を吹いた。「大物だ」
「大物過ぎる」ホラスは重々しいため息をついた。「しばらく間を開けよう。注意を引きたくない」
「一年?」
「いや……年が明けたらでいい。少し様子をみたい」
慎重なのがホラスのいいところだ。そのおかげで、真相に近づけぬまま七年も彼と共に過ごしている。
「ホラス」
マタルは首の上でひとつに結わえられた、ホラスの白髪交じりの長髪をそっと握って、引き寄せた。広い肩を背中から抱きしめ、耳元に唇を寄せる。
「なあ、ホラス……」
腕の中でゆっくりと、ホラスが振り向く。「寝台は死体に占拠されてるぞ」
マタルは笑った。「寝台でなきゃヤれないわけじゃない。だろ?」
問いかけのようでありながら、それは要求だった。
ナドカという種族は、無敵の力を誇るように見えて、実は多くの弱点を持っている。人狼は満月の夜には使い物にならないし、吸血鬼は血を飲まなければ萎びた蛭と同じだ。そして魔女もまた、力を使い続けるためには欠かせないものがある。性的昂揚だ。
「死体がにおいはじめる前に、さっさと済ませよう」マタルは言い、寝台の上の死体に目をやった。「こいつのせいで萎えたりしたら困るな」
脱いだショールを死体にかぶせたものの、紅の薄絹を纏ったせいでかえって異様さが際立ってしまった。まあ、他にどうしようもない。
「マタル、今はそういう気分には……」
「小さい頃、親に犬を飼いたいとせがんだことは?」
「あったら、何だと言うんだ」
マタルは悪戯っぽく笑った。「魔女を飼うなら、餌にまできちんと責任を持たないとな」
マタルはホラスのベルトに手を掛けて引き寄せてから、もう一方の手を両脚の付け根に這わせた──そこに熱があることを期待して。けれど見つけたのは、自制心の固まりのような男の、自制心の固まりだけだった。
「ねえ、審問官様」マタルは挑発した。「この卑しい魔女にお仕置きしてくださいな」
彼は小さく笑って首を振り、マタルの手から逃れた。
「そういう冗談は面白くないと言ったはずだ」
「強がるな。笑ったくせに」
ホラスはため息をついてから、観念したようにベルトの金具に手を掛けた。
「二日後には王都に帰っていなければならない」ホラスは言った。「今夜のうちに発つことになる。あまり気遣ってはやれないぞ」
「誰が気遣って欲しいと言った? 俺が欲しいのは」マタルはニヤリと笑った。「あなたの頭と同じくらい硬い、そいつだけだ」
マタルは、長衣の留め金を外してゆくホラスの脚の間に跪くと、下穿きの紐を解き、我が物顔で手を突っ込んだ。
ここから先──交わりとも言えぬ、この乾いた性交を行う間は、ホラスの顔を見ないと決めていた。そこに怒りや拒絶があるのを見てしまったら、逃げ出したくなるに決まっているから。
一族の女たちに恐れられるほどの魔女である、このマタル・サーリヤが一介の審問官に協力する理由はいくつかある。例えば、本当なら火あぶりになっていたであろう罪を隠蔽してくれた見返りとして。あるいは、寄る辺ない自分を家に住まわせ、教育を施し、仕事を与えたことへの恩返しとして。受けた恩は必ず返すのが、アシュモール人の矜持だ。だが、いくつかある『理由』の中で最も大きいのが……十三歳も年上の男に抱く、このどうしようもない恋慕の情だった。
馬具の革のにおいと、古い本を思わせるにおい。そして、決して不快ではない彼の汗のにおいを吸い込みながら、やわらかいものを口に含む。頭上で鋭く息を呑む音がして、ホラスの『気分』が変わったことを知る。
それだけで、背筋がゾクゾクと震えてしまいそうだった。
口の中のものが大きく、硬くなるほどに、マタルはその感触を愉しむように、舌や唇で丹念に愛撫した。そうして口淫を続けながら、手のひらに唾を吐き、濡らした指で後ろを解した。
熱さと重さを増してゆくホラスの屹立を嘔吐くほど深く飲み込み、指先で熱い内壁をこすり上げる。恍惚が目の奥に滲み、酔いが回ったみたいに頭がぼうっとする。
「ん……」
ダイラに来てから、扱う魔法の威力はそれまでよりも大きく高度になっていったから、母や姉たちに教えられたとおりに、性的昂揚を手に入れるために必要なことをした。昂揚を得るのに、王都以上に便利な場所はない。市壁を出て少し南に足を伸ばせば、そこは国で最も爛れた歓楽街だ。
サウゼイには魔法を使う度に世話になった。だから世の中には、抱く相手を多少手荒に扱っても構わないと思っている輩が多いことは知っている。相手に跪かせ、髪を掴んで喉の奥から血が出るほど激しく口を犯す男もいる。準備もなしにぶち込んで、痛がる様を見て愉しむ男もいる。
十八の歳に意を決して、ホラスに「魔力の補充のために抱いてくれ」と頼んだときには、彼のそうした一面を見ることになるのかと思っていた。けれど、知らない相手との行為には飽き飽きしていたし……後先考えられないほどホラスに焦がれていたから、乱暴な扱いを受けてもいいとさえ思っていた。
ところが彼は、マタルが今まで出会った連中とはまるで違っていた。
彼がマタルに触れることは──たとえ行為の最中であろうと──めったにない。痛みを与えることも、無理強いすることもない。我を忘れて獣じみた声を上げることも、荒々しく唇を奪うこともしない。ただ優しく、マタルが必要とするものを与えてくれるだけだ。
わかっている──それは『拒絶』に違いないのだと。
けれどこの身体はもう、他の男から与えられるものでは満たされないだろう。たとえ、この行為に心からの愛情や欲望が伴っていなくても。
心から望むものほど手に入らないのだとマタルに教えたのは、姉だった。姉の言葉が間違っていたことは、今までに一度もない。
「マタル」
遠慮がちな手が肩に置かれる。準備が整ったという合図だ。
マタルは立ち上がると、ホラスに尻を向けて、肘掛け椅子に膝を乗せた。そうして、彼が中に入ってくるのを待った。
すでに充分ほぐれているはずのそこに、ホラスは自分の荷物から取り出した軟膏をぬりつける。これもまた、お決まりの手順だった。
「ホラス、いいからはやく──」
「駄目だ」
駄目なものか。こっちは、せっかく勃たせたものが萎えるんじゃないかと気が気じゃないってのに。
だが、マタルの心配をよそに、その場所に触れたホラスのものはしっかりと硬かった。ホラスが椅子の背もたれを掴んで、後ろからマタルに覆い被さる。ここまでくれば、あとは、あまり考えなくていい。いや、考えない方が良い。
「いいか?」
「もちろん」マタルは頷いた。
そして、待ちわびた瞬間が訪れた。
ホラスのものがゆっくりと入ってくる感覚にマタルはのけぞり、小さな歓喜の声を漏らした。
「ああ……!」
熱い屹立が内側を押しひろげ、擦りながら奥へと這入ってくる。マタルは、熱に緩んだ軟膏の音や、首筋にかかるホラスの息の熱さに震えた。擦れ合う度に、身体のいたるところで小さな泡が弾け、中から官能の蜜が溢れる。貪欲に研ぎ澄まされた感覚が、この結合を悦び、駆り立てる。
「ホラス、もっとつよく……!」
彼は望みを叶えてくれた。腰を打ち付けられるたび、椅子が軋み、頭が痺れて、官能が潮のように身体の中を満たしていく。
「あ……!」
指先は切望のままに彷徨い、首筋や胸、そして、決して触れてはもらえない自身を愛撫する。マタルは、左手に強く握り込んだものを扱きながら、椅子の背もたれを掴むホラスの手を、滲む目でじっと見つめた。
あの大きく筋張った──すこしかさついた手で触れられたら、どんなにか気持ちがいいだろう。
強請れば、彼はきっと叶えてくれる。口づけさえしてくれるかもしれない。だからこそ言えない。優しさだけで満足するなんて、魔女にとってはひどい屈辱だ。
昔、姉はこうも言っていた。恋とは敗北。膝を屈して愛を請う時、魔女は死ぬのだと。
だからマタルは、せめて心の中でその瞬間に手を伸ばすために目を閉じた。
ホラス……なあ、ホラス。
優しさや気遣いなど要らない。
腕を引き寄せ、首筋を掴み、喉を絞り上げて、骨が震えるほど激しく揺さぶって欲しい。血が出るほどつよく耳を噛み、熱く凶暴な吐息で後ろ髪を乱し、荒々しい欲望のまま、めちゃくちゃに突き上げて欲しい。そうして果てるときには、一番奥に全てを注ぎ込み、それでも足りぬと言わんばかりに、さらに奥へと押し込んで欲しい。どんなに乱暴にされてもかまわない。
だが、すべては夢だ。叶ってはいけない夢。
「ああ……いく……!」
マタルはのけぞり、待ち望んでいた絶頂を受け入れた。心の中で何度も彼の名前を呼びながら、恍惚の甘い蜜に沈み、息を奪われるこの一瞬。この一瞬だけは、満たされない思いも全て忘れることができる。
「あ……は……」
喘ぎながら椅子の背に頽れ、鼓動する度におこる甘美な痙攣に身を任せる。その間も、ホラスは優しい抽挿を止めないでくれていた。
まるで、赤子をあやしているみたいに。
そう。赤子だ。恋人でも、愛人ですらない。ただの……面倒を見なければならない相手。
「ふ……」
マタルが溢した自嘲の笑いには気づかず、ホラスは達しないままの彼自身をそっと引き抜いた。そして寝台の下から尿瓶を引き出し、その中に放って終わりにした。その後ろ姿を無言で見つめている内に、現実を覆い隠す夢想の靄は消え失せた。
「あなたは先に王都に帰っていてくれ」普段の会話と変わらぬ調子で言い、椅子から立ち上がる。「俺は店主と話がある。死体の処理もしないとな」
身体にへばりついた精液は冷えて、今となってはただただ不快なだけだ。マタルは脱ぎ捨てた衣装でそれを拭い去り、部屋の隅に置かれた長櫃から、自分の服を取り出した。
「一人で平気か?」
その声は優しかった。お情けで抱いた相手にうってつけの声色だ。
「一人の方がいい」マタルは言った。「ここの店主とは知り合いなんだ」
店主のバイロンはデーモンで、商才が集うマチェットフォードでも名うての経営者だ。これまでにも何度か世話になったことがあるとは言え、自分の店で客が死んだことをよく思うはずがない。頼み事のひとつやふたつ聞くことになるだろうが、それでなかったことに出来るなら安いものだ。
「明日には、俺もこっちを発つよ」
ホラスはすでに服を着終えていた。彼はマタルの顔をじっと見てから言った。「用心しろ、マタル」
「わかってる」
「知らない奴にはついていくな」彼は真面目な顔を取り繕おうとして、失敗していた。「それから、道に迷ったら烏を送って報せるんだぞ」
「さっさと行けよ、うるさいな!」
わざとらしい子供扱いに憤慨したふりで、マタルは部屋からホラスを蹴り出した。
笑いながら扉を閉め、遠ざかる足音を聞く。目を閉じて、深くため息をついた。満たされた魔女の身体の中で、なおもひもじいままの心──それを慰める方法を、マタルは知らなかった。
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