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この世の果てまで続く砂漠のただ中に、マタルは立っている。
夜明け前。世界が最も美しい青に沈む時間。
これは──故郷の風景だ。いつの間に帰ってきてしまったのか。
理由もわからないまま、とても昂揚している。心を掻き立てるのは、『はじまり』を囁きかけてくるもの全て。海に向かって吹く風を抱擁する真新しい帆、あるいは、奔流をせき止める堰を、打ち壊す止めの一撃。
今すぐに駆け出したい。大声を上げて、自分はここにいるのだと知らしめたい。だが走れない。夢の中では、自由がきかない。この脚も、手も、声も、自分のものではなかったから。
そうか、これは夢だ。
ふと見ると、広漠とした砂漠の向こう側に誰かが立っている。
いや、こちらに向かってくる。一歩ずつ。砂を踏みしめて。
あの人かげは──。
砂を蹴散らしながら歩み寄ると、彼が言う。
「止めなければならない。今すぐに。二度とわたしの前に立ち塞がることが出来ぬように」
彼のことを、よく知っている気がした。
「なあ、どうしたんだ?」
だが、彼は答えない。その目に憎しみが宿っているのを見て、口をつぐむ。
彼が顔を逸らしたので、同じものを見ようと顔を巡らす。
地平線の向こうで、大気が揺らいていだ。地物は歓呼の歌を唱い、それを待ちわびている。冷たい夜を焼き滅ぼすものが、もう間もなくやってくる。
いま、荒野が目覚め、色彩を取り戻そうとしている。
「あ……」
これは、俺の時間だ。俺が、この時間を支配するんだ。
一緒に喜んで欲しくて、向き直る。だが、彼は憎悪に目を滾らせたまま、地平線をねめつけていた。
「あれを、ここに来させてはならない」
彼が言い、いきなり首を掴んできた。
「な……!?」
心臓が、胸の中で暴れ回る。
そんなはずはない。彼がそんなことをするはずない!
「やめ……やめろ!」
首を絞める手に、更に力がこもる。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
怖い。苦しい。
憎い。
「どうして……!」
哀惜のような、懇願のような、呪詛のような慟哭をあげる。砂という砂が震え、滑らかな地表に波紋が現れる。九重に連なる波の中心に、ふたりはいた。
どれ程声を限りに叫んでも、悲鳴は砂に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。終わりだ。これで、おわり。
「や、め……」
声は嗄れ、喘鳴のようなものが、ほんのわずかな隙間から逃げてゆくだけ。
首を掴んだ腕をかきむしる。肉体は炎に燃え上がっていた。
夜と朝の狭間にある星々が、揺らぎながら歌う。
誰そ
喚べよ 吾が名を
東の方 地平の果て
吾は俘囚
此は無明の獄──
その歌に答えるように、背中に生まれた熱の卵から、か細い蛇が孵化する。何匹も、何匹も。
それはうねり、のたうちながら、マタルの中心にあるものを食い荒らしていく。抗うことなど出来るはずがない。
神に抗えるものなど、この地上には存在し得ない。
「必ずや」自分の声ではない声が、自分の喉から迸る。「そなたに酬いを受けさせよう」
すると彼は、マタルが恋したあの微笑を浮かべて、言った。
「億万劫の彼方で、待っている」
マタルは思い知った。
俺は、彼女の最期を見ている。
「ああ……!」
文身に身体を戒められ、魂を質にとられる。
そして意識の中に、あの問いがねじ込まれる。
『我が望みを遂げるのは汝か?』
マタルは答えた。
「嫌だ」
『我が、望みを、遂げる、のは、汝か?』
怖ろしい声がのし掛かり、目の前が暗くなる。胸が悪くなるような腐敗臭が漂いはじめたとき、これがただの夢ではないことに、マタルは気づいた。
彼女が俺に、自分自身の最期を見せているのだ。復讐を遂げさせるために。
「嫌だ……俺はやりたくない!」
声がうねり、マタルを取り囲む。足下から、黒いへどろが湧き上がる。それが悪臭の源だった。それは、もがく脚から腰を伝い、口元までおしよせて、マタルを飲み込んだ。
まばたきをひとつ。すると、世界は闇に包まれていた。自分が落下しているのか、上昇しているのか、ここに肉体が在るのかもわからない。指先も見えないような暗黒の中で、声だけが確かに存在していた。
『望みを遂げよ! 望みを遂げよ!』
「俺は……絶対に……殺さない……!」
遂げよ、遂げよという声が、次第に意味を成さない雑音の束に変わってゆく。腐臭が喉を詰まらせ、耳や口、そして皮膚や目から声がねじ込まれる。何かまともなことを考える余裕さえない。
意識を乗っ取られる前に、マタルは渾身の力を込めて叫んだ。
「嫌だ!」
すると、暗闇は唐突に終わった。
夜明け前の砂漠の風景が、再び目の前に広がっていた。
そして……生まれたままの姿で這いつくばるマタルの前に、〈呪い〉がいた。
鱗に覆われた巨大な異様。空を覆い尽くす翼。燃え上がる瞳と、鋭い牙の列。
『なれば』 と、〈呪い〉は言った。
その手の中に、見慣れたものがある。
あれは……俺だ。俺の身体が、巨大な鉤爪の檻の中に横たわっている。
そしてその肉体は〈呪い〉の手の中で泡立ちながら、黒いへどろに変わった。ぶすぶすと音を立ててしたたり落ちる。そして、〈呪い〉は言った。
『汝の時間は、尽きたり』
「マタル!」
目を覚ました瞬間、視界に飛び込んできた顔を見て、マタルは、またあの夢に囚われているのだと思いこんだ。恐怖に心臓が引き攣れ、呼吸がままならない。首をかばうために手をあげ、身体をよじって彼から遠ざかろうとする。
「やめてくれ!」
すると、彼が手を掴んだ。「マタル!」
もう一度瞬きをすると、ホラスがそこにいた。正真正銘の、ホラス・サムウェルが。
「ホラス?」
彼はホッとしたように顔をほころばせた。「ああ、そうだ」
こうして見ると、似ているようでちっとも似ていない。夢の中で自分を殺そうとしてきた男は、もっと万能感に溢れていたし、もっと厳格そうで、もっと……おそろしかった。この世で自分の思い通りにならないものなどないと知っている者の姿だった。
「そうか」マタルは、思わず口に出して呟いていた。「そうだったんだ」
残酷な理解が、胸に広がる。それは煮えたぎる油のように身のうちを焼き焦がし、氷の剣のように腸を引き裂いた。
ああ、光神よ。もっと早くに気づきたかった。
「マタル、ちょっと待て」
ホラスが不意に表情を強ばらせ、シーツをめくった。そして、息を呑んだ。「これは……!」
マタルは自分の手を見下ろした。諦念がインクの染みのように、刺し傷から流れ出す血のように、心に広がっていく。
肌をびっしりと埋め尽くす鱗の文様。
『時間切れ』の証しだ。
「マタル……?」
あらためて、ホラスを見つめる。マタルに優しさを教えてくれた彼は、今もその顔に気遣いを浮かべている。
もっと早くに気づくべきだった。彼が見るという砂漠の悪夢が、それをずっと示していたのに。
あの悪夢はホラス・サムウェルのものではなかった。彼の中に入り込む者の記憶だ。まだ完全には目覚めていないけれど、間違いない。
だから、彼に引き寄せられた。
だから……彼に惹かれた?
「は……はは……」
醜い笑いが、ひとりでに零れた。
「マタル?」
伸ばされた手から、とっさに身を引く。
「平気だ」声が震えてしまう。咳払いしてから続けた「何でもない」
一方ホラスの声は揺るぎなかった。
「マタル。これは何でもなくない」
その胸にすがりついて、助けてくれと泣けたならどんなによかったか。
「休めば治る。本当だ」マタルは言い、ホラスに背を向けて横たわった。「おやすみ、ホラス」
ホラスは返事をしなかった。きっと、マタルと同じように、しばらく眠らずにいるだろう。
窓の向こうは、あいかわらずの土砂降りだった。まるで諦めが、何千億もの雫となって降り注いでいるかのよう。
音もなく、涙が零れた。
何が『欲しいものは自分で手に入れる』だ。可笑しくってしかたない。
手放さなきゃならないのは、最初からずっと俺の方だった。
デイナ。
俺は、最高神の依り代に恋をしていたんだ。
夜明け前。世界が最も美しい青に沈む時間。
これは──故郷の風景だ。いつの間に帰ってきてしまったのか。
理由もわからないまま、とても昂揚している。心を掻き立てるのは、『はじまり』を囁きかけてくるもの全て。海に向かって吹く風を抱擁する真新しい帆、あるいは、奔流をせき止める堰を、打ち壊す止めの一撃。
今すぐに駆け出したい。大声を上げて、自分はここにいるのだと知らしめたい。だが走れない。夢の中では、自由がきかない。この脚も、手も、声も、自分のものではなかったから。
そうか、これは夢だ。
ふと見ると、広漠とした砂漠の向こう側に誰かが立っている。
いや、こちらに向かってくる。一歩ずつ。砂を踏みしめて。
あの人かげは──。
砂を蹴散らしながら歩み寄ると、彼が言う。
「止めなければならない。今すぐに。二度とわたしの前に立ち塞がることが出来ぬように」
彼のことを、よく知っている気がした。
「なあ、どうしたんだ?」
だが、彼は答えない。その目に憎しみが宿っているのを見て、口をつぐむ。
彼が顔を逸らしたので、同じものを見ようと顔を巡らす。
地平線の向こうで、大気が揺らいていだ。地物は歓呼の歌を唱い、それを待ちわびている。冷たい夜を焼き滅ぼすものが、もう間もなくやってくる。
いま、荒野が目覚め、色彩を取り戻そうとしている。
「あ……」
これは、俺の時間だ。俺が、この時間を支配するんだ。
一緒に喜んで欲しくて、向き直る。だが、彼は憎悪に目を滾らせたまま、地平線をねめつけていた。
「あれを、ここに来させてはならない」
彼が言い、いきなり首を掴んできた。
「な……!?」
心臓が、胸の中で暴れ回る。
そんなはずはない。彼がそんなことをするはずない!
「やめ……やめろ!」
首を絞める手に、更に力がこもる。
「いやだ! いやだ! いやだ!」
怖い。苦しい。
憎い。
「どうして……!」
哀惜のような、懇願のような、呪詛のような慟哭をあげる。砂という砂が震え、滑らかな地表に波紋が現れる。九重に連なる波の中心に、ふたりはいた。
どれ程声を限りに叫んでも、悲鳴は砂に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。終わりだ。これで、おわり。
「や、め……」
声は嗄れ、喘鳴のようなものが、ほんのわずかな隙間から逃げてゆくだけ。
首を掴んだ腕をかきむしる。肉体は炎に燃え上がっていた。
夜と朝の狭間にある星々が、揺らぎながら歌う。
誰そ
喚べよ 吾が名を
東の方 地平の果て
吾は俘囚
此は無明の獄──
その歌に答えるように、背中に生まれた熱の卵から、か細い蛇が孵化する。何匹も、何匹も。
それはうねり、のたうちながら、マタルの中心にあるものを食い荒らしていく。抗うことなど出来るはずがない。
神に抗えるものなど、この地上には存在し得ない。
「必ずや」自分の声ではない声が、自分の喉から迸る。「そなたに酬いを受けさせよう」
すると彼は、マタルが恋したあの微笑を浮かべて、言った。
「億万劫の彼方で、待っている」
マタルは思い知った。
俺は、彼女の最期を見ている。
「ああ……!」
文身に身体を戒められ、魂を質にとられる。
そして意識の中に、あの問いがねじ込まれる。
『我が望みを遂げるのは汝か?』
マタルは答えた。
「嫌だ」
『我が、望みを、遂げる、のは、汝か?』
怖ろしい声がのし掛かり、目の前が暗くなる。胸が悪くなるような腐敗臭が漂いはじめたとき、これがただの夢ではないことに、マタルは気づいた。
彼女が俺に、自分自身の最期を見せているのだ。復讐を遂げさせるために。
「嫌だ……俺はやりたくない!」
声がうねり、マタルを取り囲む。足下から、黒いへどろが湧き上がる。それが悪臭の源だった。それは、もがく脚から腰を伝い、口元までおしよせて、マタルを飲み込んだ。
まばたきをひとつ。すると、世界は闇に包まれていた。自分が落下しているのか、上昇しているのか、ここに肉体が在るのかもわからない。指先も見えないような暗黒の中で、声だけが確かに存在していた。
『望みを遂げよ! 望みを遂げよ!』
「俺は……絶対に……殺さない……!」
遂げよ、遂げよという声が、次第に意味を成さない雑音の束に変わってゆく。腐臭が喉を詰まらせ、耳や口、そして皮膚や目から声がねじ込まれる。何かまともなことを考える余裕さえない。
意識を乗っ取られる前に、マタルは渾身の力を込めて叫んだ。
「嫌だ!」
すると、暗闇は唐突に終わった。
夜明け前の砂漠の風景が、再び目の前に広がっていた。
そして……生まれたままの姿で這いつくばるマタルの前に、〈呪い〉がいた。
鱗に覆われた巨大な異様。空を覆い尽くす翼。燃え上がる瞳と、鋭い牙の列。
『なれば』 と、〈呪い〉は言った。
その手の中に、見慣れたものがある。
あれは……俺だ。俺の身体が、巨大な鉤爪の檻の中に横たわっている。
そしてその肉体は〈呪い〉の手の中で泡立ちながら、黒いへどろに変わった。ぶすぶすと音を立ててしたたり落ちる。そして、〈呪い〉は言った。
『汝の時間は、尽きたり』
「マタル!」
目を覚ました瞬間、視界に飛び込んできた顔を見て、マタルは、またあの夢に囚われているのだと思いこんだ。恐怖に心臓が引き攣れ、呼吸がままならない。首をかばうために手をあげ、身体をよじって彼から遠ざかろうとする。
「やめてくれ!」
すると、彼が手を掴んだ。「マタル!」
もう一度瞬きをすると、ホラスがそこにいた。正真正銘の、ホラス・サムウェルが。
「ホラス?」
彼はホッとしたように顔をほころばせた。「ああ、そうだ」
こうして見ると、似ているようでちっとも似ていない。夢の中で自分を殺そうとしてきた男は、もっと万能感に溢れていたし、もっと厳格そうで、もっと……おそろしかった。この世で自分の思い通りにならないものなどないと知っている者の姿だった。
「そうか」マタルは、思わず口に出して呟いていた。「そうだったんだ」
残酷な理解が、胸に広がる。それは煮えたぎる油のように身のうちを焼き焦がし、氷の剣のように腸を引き裂いた。
ああ、光神よ。もっと早くに気づきたかった。
「マタル、ちょっと待て」
ホラスが不意に表情を強ばらせ、シーツをめくった。そして、息を呑んだ。「これは……!」
マタルは自分の手を見下ろした。諦念がインクの染みのように、刺し傷から流れ出す血のように、心に広がっていく。
肌をびっしりと埋め尽くす鱗の文様。
『時間切れ』の証しだ。
「マタル……?」
あらためて、ホラスを見つめる。マタルに優しさを教えてくれた彼は、今もその顔に気遣いを浮かべている。
もっと早くに気づくべきだった。彼が見るという砂漠の悪夢が、それをずっと示していたのに。
あの悪夢はホラス・サムウェルのものではなかった。彼の中に入り込む者の記憶だ。まだ完全には目覚めていないけれど、間違いない。
だから、彼に引き寄せられた。
だから……彼に惹かれた?
「は……はは……」
醜い笑いが、ひとりでに零れた。
「マタル?」
伸ばされた手から、とっさに身を引く。
「平気だ」声が震えてしまう。咳払いしてから続けた「何でもない」
一方ホラスの声は揺るぎなかった。
「マタル。これは何でもなくない」
その胸にすがりついて、助けてくれと泣けたならどんなによかったか。
「休めば治る。本当だ」マタルは言い、ホラスに背を向けて横たわった。「おやすみ、ホラス」
ホラスは返事をしなかった。きっと、マタルと同じように、しばらく眠らずにいるだろう。
窓の向こうは、あいかわらずの土砂降りだった。まるで諦めが、何千億もの雫となって降り注いでいるかのよう。
音もなく、涙が零れた。
何が『欲しいものは自分で手に入れる』だ。可笑しくってしかたない。
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