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夜明けと共に、掌帆手全員で清掃をする。ポンプで海からくみ上げた水を甲板に流して砂を撒き、その上を砥石で磨いて、また海水で洗い流すのだ。そうすることで木の表面は滑らかになり、乾燥すると真っ白になる。これを怠ると甲板がぬめり、足を滑らせやすくなってしまう。滑りやすい甲板は、船乗りにとっては命取りだ。
歌のうまさに定評のある、掌帆手のフェデリックが口ずさみはじめた舟歌は、仲間を巻き込んで次第に大きくなり、船上に響き渡った。
酔いどれ水夫をどうしちゃろ
酔いどれ水夫をどうしちゃろ
酔いどれ水夫をどうしちゃろうか
朝も早よから
素面になるまで帆桁に吊せ
素面になるまで帆桁に吊せ
素面になるまで帆桁に吊せ
朝も早よから……
歌の中で酔いどれ水夫への容赦ない刑罰が延々と続く中、ゲラードもおずおずと、やがて大胆に、合唱に加わった。今日も空は晴れ渡り、太陽は張り切って──朝も早よから──燦々と照り輝いている。首筋をじりじりと焦がす熱を感じながら、甲板に四つん這いになり、汗を垂らしつつ作業に励む。辛いわけではなく、かといって楽しいわけでもないのだけれど、こうして声を合わせて歌いながら無心に何かに励んでいると、ゲラードは不思議と心の平穏を感じた。
王城ではほとんど顧みられない存在だったとはいえ、無視されていたわけではない。王族の一挙手一投足には注目が集まる。小さな頃から、ゲラードや他の兄妹たちは、常に他人の見る目を意識して生きていく術を、頭と身体に叩き込まれてきた。相手を威圧し、畏怖させ、驚嘆させるためには、どう立ち、どう歩き、どう話せば良いか。瞬きはゆっくりと、やたらにしばたかないように。話すときにも早口にならないよう注意すること。相手の言葉にむきになって無闇に反論すると、威厳を損なう……など。
この船に乗って、(多少の遠慮はあれど)平民と同じ立場で仕事をして初めて、自分が身につけてきたものの特異さが理解できた。ここでは、話している相手の瞬きの数など誰も気にも留めないし、相手の言葉を遮ったからといって軽蔑されることもない。猫背だろうが、歯や足が欠けていようが、片眼がなかろうが、問題にはならない。ここで重んじられるのは、自分に与えられた仕事ができるかどうかなのだ。ある意味では厳しい世界だけれど、別の角度から見れば、寛容であるとも言える。
たった七日雑用をこなしただけで何を偉そうにと、フーヴァルなら言うかもしれない。だがそれほどまでに、今までの人生は……空っぽだったのだ。
その時、主檣の檣楼にいたワトソンが声を上げた。
「船影だ!」
途端に、船上に緊張が走る。掌帆手は清掃の手を止めない。掌帆長の指示があるまでは、己に与えられた仕事を続ける決まりだ。ゲラードは、背中の汗が冷えてゆく心地を味わいながらも、作業を続けた。
「左舷前方、水甕の方角です」
「総員、作業やめ!」
掌帆長のルーが号令をかけると、みな、砥石を片手に立ち上がる。その合間を縫って、船尾の方からフーヴァルとアーナヴがやってきた。大股で甲板を横切るフーヴァルの手には、緻密な文様が刻まれた金属の筒がある。彼がその筒を目にあてると、文様が微かに発光した。何か特別なものを見るための魔道具に違いない。
「ガル!」
名前を呼ばれて、慌てて立ち上がり、フーヴァルの隣に駆け寄る。彼の視線を追うと、確かに帆の影が見えた。だが、海から立ち上る靄のせいで、ここからではそれ以上のことを判別することはできない。
フーヴァルの横顔は鋭く、強ばっていた。
「こいつを覗いてみろ。知ってる船か?」
言われるまま、手渡された魔道具を覗き込んでみる。すると、さっきはただの黒い点だったものが、大きく引き延ばされて見えた。そこでようやく、この道具は望遠鏡──別名〈ケラニの目〉なのだと気付いた。ケラニは、この世の中で起こっていることを瞬時に知ることができる神だ。天啓や予感を人間に届ける役目を持つことから、〈早文の神〉とも呼ばれる。
その船は、ゲラードたちに船首を向けていた。黒い船体、真っ白な帆……乗員の顔までは見えない。これしきの情報では、何もわからない。
「船首像に見覚えは?」
そう言われて、船首から突き出す船首斜檣の下に目をこらした。
「菫を抱えた穴熊……」
「船首の彫刻は最近の流行りだ」その口ぶりから、フーヴァルがそれをどう思っているかは察しがつく。「大抵の連中は自分に馴染みのある題材を選ぶ。紋章とかな」
「菫はクラレント家の象徴だから、王に許された者しか使えない」ゲラードは言った。「菫の意匠を下賜された家で、穴熊を紋章にしているのは、オールダム、ギャンピアン、ウィルコックス……それに、コールリッジ」
「その中で、お前を追ってきそうな奴は?」
いずれも名家だが、船を所有できる程の──ましてや、それを外国に航海させられるほどの資金力を有している家は多くない。内陸に所領を有する家も除外していい。となると、当てはまるのは……。
「コールリッジ。旧ベイルズのラメルトン伯爵家」
複雑に入り組んだ家系図を頭の中で紐解こうとしてみるものの、役立ちそうなことを思い出せない。フェリジアと姻戚関係があったのは確かだが、それが何世代前のことだったかは定かではない。
「ラ・クソッタレ・メルトン伯爵だと? 気にくわねえ響きだ」
フーヴァルは、ゲラードの手から望遠鏡を奪い返すと、もう一度覗いて舌打ちをした。
「こっちに向かってきてやがる」カシャンと音を立ててスコープを畳んだ。
「まさか、この海域で交戦する気なのか?」アーナヴが信じられないという口調で言った。
「あの船は新しい。貴族が道楽で船遊びに興じるご時世だ。何があってもおかしかねえな」
アーナヴは、アルマラの言葉で何かを呟いた。
「ああ。おおかた、ダイラの近海しか知らねえ雇われ船長が乗ってんだろ」
フーヴァルがアーナヴにスコープを手渡した。
「デカいな。左舷側に砲門が六つ」アーナヴが言う。「逃げるか? 今ならまだ間に合う」
「いいや」
アーナヴはわずかに目を見開いた。
「本気か?」そして、ゲラードを一瞥する。「面倒事は起こさない方がいいんじゃないのか?」
「ラ・クソ間抜け・メルトン伯爵のお船がどういうつもりで俺たちに喧嘩をふっかけてくるのか、知りたいからな」フーヴァルは息を吸い込んで、言った。「戦闘配備だ」
アーナヴはこれ見よがしに大きなため息をついた。それから、普段の彼からは想像もつかない大きな声で号令を発した。
「戦闘配備! 船首を左二角へ!」
その一言で、一陣の風が吹いたように、船上の空気が変わった。航海士も、操舵手も、掌帆長も、それ以上の説明無しに立ち回りはじめた。みな自分のやるべきことが身体に染みついているようだ。ほんの一瞬のことだったが、ゲラードはその場に立ちすくんで圧倒された。
その背中を、フーヴァルが思いきり叩く。
「ガル! ハインズをたたき起こして甲板に連れてこい!」
「了解、船長!」
ゲラードは、反射的に、まるで熟練の船乗りのように答え──それに感慨を抱く余裕もないまま、甲板の上を駆け出した。
たたき起こすとは言われたが、この騒ぎで目を覚まさないものがいるだろうかと思いつつ、ゲラードは下甲板のさらに下へ向かった。船尾側の客室のうちの一室が『開かずの間』だということは知っていた。そこに、この船の魔法関係を担当している魔女がいるということも。
「ミズ・ヘインズ! 戦闘配備です!」固く閉ざされた扉を叩いて、声を張り上げる。「ミズ・ヘインズ! いらっしゃいますか!?」
これを数度繰り返して、ゲラードはフーヴァルの『たたき起こす』という言葉が正しかったことを知った。
「ミズ──!」
「わかった、わかった。起きるから!」若い女性の声が中から聞こえた。「あと十分待って」
そんな余裕がないことは、新入りのゲラードにだってわかる。
「戦闘配備です!」早くも、ゲラードの声は掠れはじめていた。「急いで頂けますか!」
くぐもった唸り声が聞こえた。了解ということなのだろう。
そして、ようやく『開かずの扉』が開いた。
中から出てきたのは若い魔女だった。左目に眼帯をつけていて、見えている方の目は榛色。黒に近いほど濃い茶色の髪を頭の後ろで結い上げているが、ところどころほつれた毛が頭の周りで自由気ままに踊っていた。この船では、女性はスカートを身につけない。彼女もまた、動きやすい脚衣に長靴という格好だった。
「あれ。あんた新入り?」
「七日前から乗船しています」
ゲラードはいい、小走りで歩きながら、彼女を甲板の方へと促した。
「『乗船しています』だって? はーん。あんた、いいとこの坊ちゃんなんだ」
ギクリとして、歩調を速める。全員承知していることかと思っていたが、彼女は船内の情報にも疎いようだ。説明を求められたら、嘘で誤魔化せる気がしない。
「まあ……そのようなものです」
「わかるよ。あんたみたいな奴は珍しくないもん。でもさ、あんまりミズミズっていうもんだから、神殿学校に逆戻りしたのかと思った!」
「では、どう呼べば?」
上甲板への昇降口の手前でふり返ると、彼女はにんまりと笑った。
「クラウディって呼んで」しなをつくって、彼女は言った。
彼女は昇降口から降り注ぐ陽光と喧噪と怒号──ヘインズはまだかと、誰かが怒鳴っていた──を堪能するように伸びをしてから、再び目を開けた。
「さ、仕事だ!」
†
海戦の時に、状況の有利不利を左右するのは風向きだ。簡単に言えば、風上を取ったものが勝利を取る。風上側の船が風下に進むのにたいした苦労はいらない。一方、風下の船が風上に向かうには、間切りと呼ばれる稲妻形の航路を取らなければならない。船首の向きを変える度に帆の向きを調節して風を捕らえるから、相手に近づくのに時間がかかるし、方向転換をするにも簡単にはいかない。
だが、それは人間の乗る船の場合だ。
散々待ったすえ、クラウディ・ヘインズがようやく甲板に姿を現した。
「遅い!」
「すみませぇん」ヘインズは腑抜けた返事をしながらフーヴァルに駆け寄った。
ヘインズの眠たげな目が、海風に頬を張られてぱっちりと開いた。舷から海を眺め回す彼女に、フーヴァルが言う。
「戦闘配備はするが、攻撃は無しだ。ここは『極』に近すぎる」
「うへぇ。いったいどこの馬鹿がこんな海域で喧嘩をふっかけてきたの」
「それを、これから問いただすんだよ」
ヘインズは頷いた。「わかった」
「ちなみに、大砲は六門ある」
ヘインズは目をひん剥いた。「なのに、逃げないの?」
「なんで逃げなきゃならん? 俺はお前らのことを心の底から信じてるんだぜ」
ヘインズは非難がましい目でフーヴァルを睨んでから、それでは足りないとばかりに、後じさりしながら声に出さず「オエッ」という仕草をした。それから、舷縁にひらりと飛び乗り、ラットラインを駆け登って、あっという間に主檣の檣楼に乗り込んだ。
ヘインズは冗談扱いしたが、フーヴァルの信頼は本物だった。
何かから逃れて海賊になる者は多い。地上に居場所を見つけられずに海に活路を見出そうとする者たちを、フーヴァルは嫌というほど見てきた。そういう連中のほとんどは、海に出さえすればどうにかなると考えているが、それは間違いだ。海ほど身動きの取れないどん詰まりはない。何せ、船の上から一歩でも足を踏み出せば、そこに広がっているのは底知れぬ海だけなのだから。
海で生きるのは、地上で生きるよりもよほど難しい。だからこそ、同じ船に乗るのは信頼できる者だけ──生きるための努力を惜しまない者だけだ。『この船に全員は乗れない』がフーヴァルの信条だった。
ゲラードの姿は甲板から消えていた。バウワーに仕事を命じられて下甲板に向かったのだろう。上甲板に集まっているのは、飛び道具を備えた魔法使いやデーモンたちだ。
「船長、間もなく敵船の射程圏内です!」見張りについていた掌帆手のワトソンが叫んだ。「敵船、全砲門開いてます!」
フーヴァルは頷き、声を張り上げた。
「ヘインズ!」
「あいよ!」
ヘインズの魔法は、エリマスで暮らす姉モイラの手による魔導具があって初めて効力を発揮する。彼女が作る魔道具は船そのもの──さらに言うなら、船が掲げる帆の全面に、びっしりと施された刺繍だ。白い魔法糸でもって様々な意匠が刺繍された帆布は、ヘインズの魔法をこの世に顕すための、巨大な呪文書でもある。この魔法があるおかげで、マリシュナは追い風を集め、嵐を逃れ……さらに目を瞠ることまでやってのける。
波音の向こう側から、相手の船の号令が聞こえた。弾を込め、最初の一発を放とうと身構えている。
「メディラヴァコモラセクリェカルラ……」
ヘインズが呪文の詠唱をはじめると、マリシュナ号の純白の帆に光の文様が浮かび上がった。ヘインズの呪文は、常人には意味を成さない音の羅列だ。だが糸にとっては、それこそが『命令』である。糸は彼女の声を聞き、その言葉が発せられるままに発光する。あるところでは点滅し、またあるところでは流れるように点灯していく光が意味を結ぶのは、糸からなる魔方陣が完成した時だ。
敵船が、待ちかねていたようにマリシュナ号と水平に並ぶ。
「現在、射程範囲内!」ワトソンが淡々と告げる。「来ますよ!」
「放て!」
敵船の号令が、はっきり聞こえた。
砲門から火花が飛び散り、黒煙を従えた砲弾が放たれる。
数年前に、ある魔術師が見出した『爆発』という現象を利用した武器が、まるで疫病のように世界中に広まっている。炎薬と呼ばれる類いの物質を混ぜ合わせた瞬間に発生する力で、鉛の球を発射するという忌々しい兵器だ。エイルの船の多くには、大砲は配備されていない。そうするだけの資金も、砲筒や弾丸に使う資源も足りないのだ──今はまだ。
鉛の砲弾が空気を切り裂く甲高い音がした。漆黒の球体は弧を描きながら、こちらの船体に吸い込まれるように飛んでくる。
「……セラジェリヴェルマニ、カ!」
ヘインズの詠唱が終わると同時に、帆の上に甲虫を模した魔方陣が浮かび上がった。
砲弾の群れは、ちょうど左舷の下甲板付近に命中する……はずだった。ところが、主檣のてっぺんから降りてきた光の幕に阻まれて、まるで硝子の窓にぶつかった蠅のように、虚しく海中に落ちていった。
その瞬間、ここぞとばかりに、船乗りたちが歓声と馬鹿笑いをあげた。
中には、相手に向かって剥き出しの尻を振って見せる者もいる。フーヴァルは、相手の戦意を削ぐことならなんだって許可していた。海賊にとっては、品位など禁酒の次くらいに無意味なものだ。
敵船の狙いはマリシュナ号でも〈浪吼団〉でもない。海賊を拿捕しようとする船乗りはまず間違いなく、標的とする船のことを調べ上げるものだが、目の前の船の船長は、どう考えてもそれを怠っていた。マリシュナ号に魔女が乗っていると知っていれば、無闇に砲弾を撃ち込んでくるはずがない。おそらく、誰かから聞かされた船の特徴だけを頼りに、この海域で待ち構えていたのだろう。とすれば連中の目的は、この船の積荷だ。
「アーナヴ、あいつを甲板に出させるな」そっと耳打ちすると、アーナヴは一つ頷いて、ゲラードの身柄を確保しに行った。
フーヴァルは左舷の舷縁に飛び乗り、静索の一本を掴んだ。
「こちらはマリシュナ号の船長、フーヴァル・ゴーラムだ」フーヴァルは、相手の船に向かって声を上げた。「貴船の船長と話がしたい!」
ややあって、見るからに胃腸の悪そうな男が右舷に姿を現した。
「アクシング号の船長、エイベル・ファリントンだ」
「こちらは、エイル王の正式な認可を受けた私掠船だ。貴船の攻撃の意図を尋ねたい」厳しい態度でそう言い放ってから、少しだけ態度を軟化させてみせる。「幸いにも、あんたがたの攻撃は不発に終わった。我々で力になれることがあるなら、見返り次第で協力してやってもいい」
「我々は、ダイラ議会の要請を受け、ある人物の行方を追っている。貴船と同じ特徴を持つ船がその人物を匿っているという情報を元に攻撃を加えたまでだ」
ファリントンの顔色は極端に悪く、いまにも吐きそうな顔をしている。
まさか、船酔いでもしてるのか? どこの馬鹿が、こんな陸者を船長に据えた?
「その人物に何の用がある?」
「その人物は、王権に対する反逆の容疑がかけられている。身柄を確保次第、国に送還し、裁判のあとしかるべき手順に則って処罰を受ける」
「処刑されることまで決まってるってか。気に入らねえな」フーヴァルは独りごちた。
船を沈める勢いで大砲をぶち込んできたということは、その人物が早く消えれば消えるほど良いということだ。これが本当に『議会の要請』によって行われたことかどうかはわからないが、あのゲラードが、誰かに命を狙われる程度には存在感があるのは確からしい。
「あいにくだが、この船にそんな怪しい奴は──」
「一つ聞きたい!」
後ろから聞こえた声に、文字通り頭を殴られたような気分でふり返る。
そこに、ゲラード本人が立っていた。
「おい、ちょっと待て──」
「わたしはゲラード・オブ・クラレントだ。ファリントン君に尋ねる」
言いながら、ゲラードは臆する風もなく甲板を歩いてくる。
「このクソ馬鹿野郎!」
フーヴァルの悪態を無視して、彼は舷縁に手を掛けた。
「議会の要請と言ったが、誰の立案だ? ユージーン王子か?」
すると、船長の調子の悪そうな顔に、赤みが戻った。王子を前に脱帽して最敬礼したものの、しぶしぶながらといった様子だ。
「ユージーン殿下は身罷られました。あなたがキャトフォードを脱走した直後に」
「何だって!?」
「あなたはいまや、グレイアム王、ユージーン王子ご両名殺害の廉で起訴されておいでです! 即刻ダイラにお戻りになり、しかるべき裁きをお受けください!」
ゲラードはよろめいた。
「そんな……ばかな」
アクシング号の船長は、ここぞとばかりに軽蔑の眼差しをゲラードに注いだ。
「此度の要請は、エレノア王女が議会にご提出なされたものです」
おそらく、それがとどめだった。
「エレノアが……?」
ゲラードの膝から力が抜けて、その場にしゃがみこみそうになる。それを助けたのは、ようやく王子に追いついたアーナヴだった。
ゲラードの登場は、明らかに状況を悪い方に向かわせた。ファリントン船長がどんな戯言を吹き込まれたにせよ──そして、彼がどれほど船乗りに向いてないにせよ──正義漢であることは確かなようだ。彼にとってゲラードは、ふたりの兄を殺しておきながら亡命を図った極悪人なのだ。
「抵抗なさるおつもりなら、こちらは徹底的に抗戦するまで。そのような場合の対処についても、指示を受けておりますので!」
まるで判決文を読み上げるように言うと、ファリントンは帽子をかぶり直した。
「総員、戦闘配置!」
号令の伝達と共に笛の音が響き渡る。
「こんな至近距離でぶち込まれたらまずい!」アーナヴが鋭く囁く。「この海域では戦闘もできない。今すぐ逃げないと──」
「わかってる!」フーヴァルは言った。「ヘインズの力はこのまま防御に回す。残りの手を全部使って、全力で南下しろ!」
「本気か」アーナヴの目に、理解が閃く。「とんでもない賭けだぞ」
「俺が賭けで負けたことがあったか?」
「負けた結果がこれだろう! まったく!」アーナヴはそう言って、後部甲板に急ぎつつ命令を下した。「風上に舵を切れ! 全帆展開!」
ゲラードの姿を探してあたりを見回したちょうどそのとき、砲撃の第二波が放たれた。ヘインズの結界は今度もしのいでくれたが、保ってあと三回までだろう。その前に、なんとか南の海域に逃げ込まなければならない。
「ガル!」
ゲラードは別人かと思うほど青ざめた顔をしていたものの、広げた帆を引き延ばす掌帆手に混じって、自分の仕事をしていた。自分が呼ばれたことに気付いているのかいないのか、手だけはなんとか動かしながら、呆然とフーヴァルを見返している。
「ガル、俺の近くにいろ!」
彼はフーヴァルを無視して、再び帆を引く仕事に戻った。
「おい! いいから、安全な場所に──」
肩を掴んだ手を、彼は振り払った。
「いやだ!」
打ちのめされたような表情は消え、手に負えないほど意固地になっているときの顔になっている。
「すまない。すべて僕のせいだ」ゲラードは言った。「だからこそ、安全なところに逃げ込んで震えているのはいやだ!」
「ああそうかい! なら勝手にしやがれ!」
ゲラードに怒りをぶつけながらも、わざわざあの船に近づくという選択をしたのは自分なのだということを、フーヴァルは理解していた。
ゲラードを追いかけてくる者の正体を、どうしても、はっきりさせずにはいられなかったのだ。
馬鹿はどっちだ、クソ。
「てめえの尻拭いをするまでは死ぬんじゃねえぞ!」
フーヴァルはゲラードを残して舵柄へと向かった。
甲板を横切る最中に打ち込まれた第三波の砲撃で、結界にわずかなひずみが生じたが、船体はまだ無傷だ。
帆は正面から風を受け、狙い通り、船が後退しはじめる。
「面舵いっぱい!」
アーナヴの指示に従い、操舵手のマクレガンが舵を切る。船は後退しながら、船首を右舷側──南へと巡らした。
「全帆、右四角に転回!」
掌帆手たちが転桁索にとりつき、力一杯引っ張って、帆の向きを変える。正しい角度で風を受けた船は後退をやめ、今度は前へと進みはじめる。これで、アクシング号の射線から少しだけ遠ざかることができた。こちらの動きを判じかねていたファリントンも、ようやく腹を決めてマリシュナのあとを追いはじめた。
左右の舷に大砲を備えた船は、相手方の船の横腹に水平に並ばなければ戦力を発揮できない。だから、一度不利な陣形から逃れることができれば、追いかけっこに持ち込める。とは言え、巨大な船体にふさわしい巨大な帆を持つアクシング号は、マリシュナ号に苦もなく追いつき、再び砲弾を食らわせてこようとするだろう。
人間の背丈ほどもある舵柄は、撹拌機の棒を思わせる形状から撹拌棒とも呼ばれる。操舵手を務めるマクレガンは、真剣を握っているかのような面持ちでそれを握りしめていた。
そのすぐ傍で、アーナヴが待ち構えていた。
アーナヴは、舵柄の奥に鎮座している箱に両手をついていた。正方形の机のような形をした箱の天板には円形の窓がついていて、そこから魔道具特有の不思議な光が漏れていた。霊水で満たされたこの箱の中には、表面に陸と海の形が描かれた球体が収まっている。船が移動するにつれて動く球体が、現在の位置を示すという代物だ。球の表面に彫り込まれた地形図や海図は、いわば船外不出の情報で、歴代の航海士たちが、時に命を賭けて刻み込んでいったものだ。浮球儀と呼ばれるこの魔道具は、航海神の名を取って『マルドーホのタマ』とも呼ばれる。もちろん、限られたものの間でしか使われない呼び名だが。
「いまどの位置にいる?」フーヴァルが言い、浮球儀を覗き込んだ。
「この風なら、極まであと五分の一刻ってところだ」アーナヴが言った。
そのとき、とどろき渡る爆音に次いで、船体が震撼した。
船長と航海士と操舵手とが、緊張に満ちた視線を交わす。
よろめきながら駆け込んできた掌帆手のジェンキンズが──覚悟はしていたものの──嫌な知らせを運んできた。
「左舷下甲板後方に二発命中!」
下甲板なら喫水線より上だから、浸水はない。
「よし。レイリーの下に三人つけて修理にあたらせろ。他にも穴が開くかもしれねえから、いまは応急処置でいい」
了解! と、半ば叫ぶように返事をして、ジェンキンズは戻っていった。
アーナヴがフーヴァルを見る。本気の度合いを図るような眼差しで。
彼は言った。「ガルは?」
「甲板中央部だ」
「放ってきたのか?」アーナヴがフーヴァルの腕を掴んだ。
「自分の仕事を全うしたいと言う奴に、駄目とは言わねえ」
フーヴァルは有無を言わせぬ声で言った。アーナヴはそれ以上反論しなかった。
「アクシング、右舷に並びます!」
報告の声と共に、独特のきな臭さが漂ってくる。結界を張るのに消耗した魔法糸が燃え尽きはじめているのだ。
浮球儀は焦れったいほどゆっくりと回転し、小さな点で示された現在位置が、じりじりと南へ這ってゆく。その少しだけ先で、球の表面に塗られた海の色が変わっている。青から──船乗りの間では不吉を表す──濃緑へと。
「間もなく射程範囲!」
「連中が砲撃をやめると思うか?」アーナヴが言う。「俺たちを沈めるまで止まらないぞ」
「俺たちが沈むのが先か、向こうが先かだ」フーヴァルは浮球儀の天板の縁を握り、小さな点を凝視し続けた。「今は待つしかねえ」
ジェンキンズの声が響く。「射程範囲……内!」
小さな点が、いまようやく、青と緑の混ざり合う境界にさしかかる。フーヴァルがアーナヴに頷くと、彼はすぐさま、甲板中央部に走りながら叫んだ。
「極の海に入った! 武器を置いてかがめ!」
その指示が、皆に聞こえたかどうか。
爆音と共に、アクシング号の左舷から砲弾が飛び出した。重量のある鉄の球が、大きく弧を描いてこちらに向かってくる。
彼らは帆を狙っていた。帆と、檣楼で結界を張っているヘインズを。
空気を裂く甲高い音が、間延びしながら近づいてくる。
放たれた三発のうちの一つが主檣帆を突き破り、主檣に命中した。飛び散る木っ端の雨の中、船が震撼し、怖ろしい軋みが響き渡る。
「ヘインズ!」
主檣の檣楼の上で、ヘインズは悲鳴を上げなかった。永遠にも思える時間をかけて、マストが傾ぎ、舷の外側に向かって曲がる。太いマストの芯まで露わになり、松材の香りが不意に空気中に満ちる。そして、木くずを撒き散らしながらマストが折れ、先端から海に落ちた。
「マストが折れたぞ!!」
「ヘインズが落ちた!!」
二つの報告が同時にあがる。
舷に駆け寄り、ヘインズの姿を探す。彼女は折れたマストに辛うじてしがみついていた。
巨大なマストと船体を繋ぐ無数の索に引っ張られ、マリシュナ号は左舷側に大きく傾ぐ。悲鳴にも似た不穏な軋みが船体からあがった。今すぐに切り離さなければ船が横転してしまうが、その索こそがヘインズの命綱なのだ。
「ヘインズ! おーい! 索を掴め!」掌帆手が左舷に駆け寄り、声をかける。「水に浸かるな!早く!」
この海域で船外に出るのは、嵐の海に落ちるのと同じだ。
極の海の波は高く、硬い。だが、問題はそればかりではない。この海には魔物がひしめいている。だからこそ、この海域での戦闘は禁じられているのだ。騒乱に血のにおいは、魔物たちを刺激し、おびき寄せる。
「クソッ! 右舷三角に海狼の群れが!」
「ヘインズ! 頑張れ!」
海狼は、巨大な牙と体を持つ魔獣だ。陸の狼とは違い、四つの足の代わりによく動く鰭を持っている。水掻きも鰓も持たない者が為す術なく海に浮かんでいるのを嗅ぎつけられたら、水中に引きずり込まれる。そうなれば、まず助からない。
ヘインズはまだマストの一部にしがみついているが、いつまで持ちこたえられるかはわからない。
このわずかな間で、船の傾きはさらに大きくなっていた。もはや何かに捕まらないでは、甲板の上で立っていることもできない。
一人を助けるために、他の船員を危険に晒すような命令を下すことはできない。
迷いがある奴は、船長ではいられない。
彼女が船に戻るのを……待ってはいられない。
そのとき、何かがはじけるような音がして、船と折れたマストとを繋いでいた索が切れた。
「ヘインズ!」
彼女が右手で中空に印を描くと、また一本、索が切れた。
波間に飲まれてはまた浮かび上がる彼女の、鋭い眼差しがフーヴァルの視線とかち合う。
その目に迷いはなかった。彼女は、状況を理解していた。
──姉さんに、わたしの最後を伝えて。
フーヴァルは歯を食いしばり、一瞬だけ目を閉じた。
迷いがある奴は──。
「索を切れ」フーヴァルが言う。「索を切れ!」
近くにいた掌帆手たちは、聞こえない振りなどしなかった。
「畜生……!」
長く海で生きていれば、仲間を見殺しにすることを、誰もが一度は経験する。彼らは腰に帯びた短剣を抜き、ピンと張った索に飛びついた。
一本、二本と、張り詰めた索がはじけ飛ぶようにして切れる。
「何をしているんだ!」ゲラードが悲鳴のような声を上げて、掌帆手たちを止めようとしている。「まだミズ・ヘインズがあそこにいるじゃないか! 彼女は──」
フーヴァルは彼の襟首を掴んで、思いきり後ろに引いた。
「索を切らなきゃ、船が横転して全員くたばる!」フーヴァルは押し殺した声で言った。「魔物が、すぐそこまで来てる。助けに出ても共倒れになるんだ。わかったか!」
ゲラードの瞳が、殴られたように揺れる。
「だけど……」
再び爆音が轟き、あの噎び泣くような砲弾の音が近づいてくる。
「みんな、伏せろ!」
みな甲板に身を伏せ、攻撃をやり過ごそうとしていた。次に顔を上げたとき、ヘインズはまだあそこにいるだろうかと思いながら。その時──
「おい、待て!」
制止の声にも構わず、ゲラードが駆け出した。彼は左舷の舷縁に飛び乗ると、海に向かって何かを投げた。動索を留めておくために使われるビレイピンに、索をくくりつけたものだ。
次の瞬間、中部甲板に砲弾が命中した。
焼け焦げた匂いと、むせかえるような血のにおいの中、衝撃で息が止まる。
ゲラードの身体が宙に浮き、舷を越えて──見えなくなった。
「ゲラード!」
フーヴァルは、手摺りに駆け寄った。
海面に人影はない。何十年かぶりに味わう船酔いのような不快感が、腹の底から押し寄せてくる。希望を捨てたくない気持ちと、諦めの気持ちとが激しく混ざり合い、内臓が溶けそうだった。
やめてくれ。ヘインズに続いて、あいつまで──。
「フーヴァル!」
声のした方に慌てて目を向けると、そこにゲラードがいた。船側にぶら下がり、さっき切断した索の一本を両手で握りしめている。彼の胴体にはまた別の索が巻き付けられていて……それが、波間で必死に抗いながらビレイピンにしがみつくヘインズと、彼とを繋いでいた。
「このクソ馬鹿野郎!」
ゲラードが叫び返した。
「その通りだから、早く引き上げてくれ……!」
アクシング号の船員は、首をかしげたはずだ。
容赦ない砲撃に一方的に晒されている状況だというのに、マリシュナ号の甲板からは、割れるような喝采があがっているのだから。
夜明けと共に、掌帆手全員で清掃をする。ポンプで海からくみ上げた水を甲板に流して砂を撒き、その上を砥石で磨いて、また海水で洗い流すのだ。そうすることで木の表面は滑らかになり、乾燥すると真っ白になる。これを怠ると甲板がぬめり、足を滑らせやすくなってしまう。滑りやすい甲板は、船乗りにとっては命取りだ。
歌のうまさに定評のある、掌帆手のフェデリックが口ずさみはじめた舟歌は、仲間を巻き込んで次第に大きくなり、船上に響き渡った。
酔いどれ水夫をどうしちゃろ
酔いどれ水夫をどうしちゃろ
酔いどれ水夫をどうしちゃろうか
朝も早よから
素面になるまで帆桁に吊せ
素面になるまで帆桁に吊せ
素面になるまで帆桁に吊せ
朝も早よから……
歌の中で酔いどれ水夫への容赦ない刑罰が延々と続く中、ゲラードもおずおずと、やがて大胆に、合唱に加わった。今日も空は晴れ渡り、太陽は張り切って──朝も早よから──燦々と照り輝いている。首筋をじりじりと焦がす熱を感じながら、甲板に四つん這いになり、汗を垂らしつつ作業に励む。辛いわけではなく、かといって楽しいわけでもないのだけれど、こうして声を合わせて歌いながら無心に何かに励んでいると、ゲラードは不思議と心の平穏を感じた。
王城ではほとんど顧みられない存在だったとはいえ、無視されていたわけではない。王族の一挙手一投足には注目が集まる。小さな頃から、ゲラードや他の兄妹たちは、常に他人の見る目を意識して生きていく術を、頭と身体に叩き込まれてきた。相手を威圧し、畏怖させ、驚嘆させるためには、どう立ち、どう歩き、どう話せば良いか。瞬きはゆっくりと、やたらにしばたかないように。話すときにも早口にならないよう注意すること。相手の言葉にむきになって無闇に反論すると、威厳を損なう……など。
この船に乗って、(多少の遠慮はあれど)平民と同じ立場で仕事をして初めて、自分が身につけてきたものの特異さが理解できた。ここでは、話している相手の瞬きの数など誰も気にも留めないし、相手の言葉を遮ったからといって軽蔑されることもない。猫背だろうが、歯や足が欠けていようが、片眼がなかろうが、問題にはならない。ここで重んじられるのは、自分に与えられた仕事ができるかどうかなのだ。ある意味では厳しい世界だけれど、別の角度から見れば、寛容であるとも言える。
たった七日雑用をこなしただけで何を偉そうにと、フーヴァルなら言うかもしれない。だがそれほどまでに、今までの人生は……空っぽだったのだ。
その時、主檣の檣楼にいたワトソンが声を上げた。
「船影だ!」
途端に、船上に緊張が走る。掌帆手は清掃の手を止めない。掌帆長の指示があるまでは、己に与えられた仕事を続ける決まりだ。ゲラードは、背中の汗が冷えてゆく心地を味わいながらも、作業を続けた。
「左舷前方、水甕の方角です」
「総員、作業やめ!」
掌帆長のルーが号令をかけると、みな、砥石を片手に立ち上がる。その合間を縫って、船尾の方からフーヴァルとアーナヴがやってきた。大股で甲板を横切るフーヴァルの手には、緻密な文様が刻まれた金属の筒がある。彼がその筒を目にあてると、文様が微かに発光した。何か特別なものを見るための魔道具に違いない。
「ガル!」
名前を呼ばれて、慌てて立ち上がり、フーヴァルの隣に駆け寄る。彼の視線を追うと、確かに帆の影が見えた。だが、海から立ち上る靄のせいで、ここからではそれ以上のことを判別することはできない。
フーヴァルの横顔は鋭く、強ばっていた。
「こいつを覗いてみろ。知ってる船か?」
言われるまま、手渡された魔道具を覗き込んでみる。すると、さっきはただの黒い点だったものが、大きく引き延ばされて見えた。そこでようやく、この道具は望遠鏡──別名〈ケラニの目〉なのだと気付いた。ケラニは、この世の中で起こっていることを瞬時に知ることができる神だ。天啓や予感を人間に届ける役目を持つことから、〈早文の神〉とも呼ばれる。
その船は、ゲラードたちに船首を向けていた。黒い船体、真っ白な帆……乗員の顔までは見えない。これしきの情報では、何もわからない。
「船首像に見覚えは?」
そう言われて、船首から突き出す船首斜檣の下に目をこらした。
「菫を抱えた穴熊……」
「船首の彫刻は最近の流行りだ」その口ぶりから、フーヴァルがそれをどう思っているかは察しがつく。「大抵の連中は自分に馴染みのある題材を選ぶ。紋章とかな」
「菫はクラレント家の象徴だから、王に許された者しか使えない」ゲラードは言った。「菫の意匠を下賜された家で、穴熊を紋章にしているのは、オールダム、ギャンピアン、ウィルコックス……それに、コールリッジ」
「その中で、お前を追ってきそうな奴は?」
いずれも名家だが、船を所有できる程の──ましてや、それを外国に航海させられるほどの資金力を有している家は多くない。内陸に所領を有する家も除外していい。となると、当てはまるのは……。
「コールリッジ。旧ベイルズのラメルトン伯爵家」
複雑に入り組んだ家系図を頭の中で紐解こうとしてみるものの、役立ちそうなことを思い出せない。フェリジアと姻戚関係があったのは確かだが、それが何世代前のことだったかは定かではない。
「ラ・クソッタレ・メルトン伯爵だと? 気にくわねえ響きだ」
フーヴァルは、ゲラードの手から望遠鏡を奪い返すと、もう一度覗いて舌打ちをした。
「こっちに向かってきてやがる」カシャンと音を立ててスコープを畳んだ。
「まさか、この海域で交戦する気なのか?」アーナヴが信じられないという口調で言った。
「あの船は新しい。貴族が道楽で船遊びに興じるご時世だ。何があってもおかしかねえな」
アーナヴは、アルマラの言葉で何かを呟いた。
「ああ。おおかた、ダイラの近海しか知らねえ雇われ船長が乗ってんだろ」
フーヴァルがアーナヴにスコープを手渡した。
「デカいな。左舷側に砲門が六つ」アーナヴが言う。「逃げるか? 今ならまだ間に合う」
「いいや」
アーナヴはわずかに目を見開いた。
「本気か?」そして、ゲラードを一瞥する。「面倒事は起こさない方がいいんじゃないのか?」
「ラ・クソ間抜け・メルトン伯爵のお船がどういうつもりで俺たちに喧嘩をふっかけてくるのか、知りたいからな」フーヴァルは息を吸い込んで、言った。「戦闘配備だ」
アーナヴはこれ見よがしに大きなため息をついた。それから、普段の彼からは想像もつかない大きな声で号令を発した。
「戦闘配備! 船首を左二角へ!」
その一言で、一陣の風が吹いたように、船上の空気が変わった。航海士も、操舵手も、掌帆長も、それ以上の説明無しに立ち回りはじめた。みな自分のやるべきことが身体に染みついているようだ。ほんの一瞬のことだったが、ゲラードはその場に立ちすくんで圧倒された。
その背中を、フーヴァルが思いきり叩く。
「ガル! ハインズをたたき起こして甲板に連れてこい!」
「了解、船長!」
ゲラードは、反射的に、まるで熟練の船乗りのように答え──それに感慨を抱く余裕もないまま、甲板の上を駆け出した。
たたき起こすとは言われたが、この騒ぎで目を覚まさないものがいるだろうかと思いつつ、ゲラードは下甲板のさらに下へ向かった。船尾側の客室のうちの一室が『開かずの間』だということは知っていた。そこに、この船の魔法関係を担当している魔女がいるということも。
「ミズ・ヘインズ! 戦闘配備です!」固く閉ざされた扉を叩いて、声を張り上げる。「ミズ・ヘインズ! いらっしゃいますか!?」
これを数度繰り返して、ゲラードはフーヴァルの『たたき起こす』という言葉が正しかったことを知った。
「ミズ──!」
「わかった、わかった。起きるから!」若い女性の声が中から聞こえた。「あと十分待って」
そんな余裕がないことは、新入りのゲラードにだってわかる。
「戦闘配備です!」早くも、ゲラードの声は掠れはじめていた。「急いで頂けますか!」
くぐもった唸り声が聞こえた。了解ということなのだろう。
そして、ようやく『開かずの扉』が開いた。
中から出てきたのは若い魔女だった。左目に眼帯をつけていて、見えている方の目は榛色。黒に近いほど濃い茶色の髪を頭の後ろで結い上げているが、ところどころほつれた毛が頭の周りで自由気ままに踊っていた。この船では、女性はスカートを身につけない。彼女もまた、動きやすい脚衣に長靴という格好だった。
「あれ。あんた新入り?」
「七日前から乗船しています」
ゲラードはいい、小走りで歩きながら、彼女を甲板の方へと促した。
「『乗船しています』だって? はーん。あんた、いいとこの坊ちゃんなんだ」
ギクリとして、歩調を速める。全員承知していることかと思っていたが、彼女は船内の情報にも疎いようだ。説明を求められたら、嘘で誤魔化せる気がしない。
「まあ……そのようなものです」
「わかるよ。あんたみたいな奴は珍しくないもん。でもさ、あんまりミズミズっていうもんだから、神殿学校に逆戻りしたのかと思った!」
「では、どう呼べば?」
上甲板への昇降口の手前でふり返ると、彼女はにんまりと笑った。
「クラウディって呼んで」しなをつくって、彼女は言った。
彼女は昇降口から降り注ぐ陽光と喧噪と怒号──ヘインズはまだかと、誰かが怒鳴っていた──を堪能するように伸びをしてから、再び目を開けた。
「さ、仕事だ!」
†
海戦の時に、状況の有利不利を左右するのは風向きだ。簡単に言えば、風上を取ったものが勝利を取る。風上側の船が風下に進むのにたいした苦労はいらない。一方、風下の船が風上に向かうには、間切りと呼ばれる稲妻形の航路を取らなければならない。船首の向きを変える度に帆の向きを調節して風を捕らえるから、相手に近づくのに時間がかかるし、方向転換をするにも簡単にはいかない。
だが、それは人間の乗る船の場合だ。
散々待ったすえ、クラウディ・ヘインズがようやく甲板に姿を現した。
「遅い!」
「すみませぇん」ヘインズは腑抜けた返事をしながらフーヴァルに駆け寄った。
ヘインズの眠たげな目が、海風に頬を張られてぱっちりと開いた。舷から海を眺め回す彼女に、フーヴァルが言う。
「戦闘配備はするが、攻撃は無しだ。ここは『極』に近すぎる」
「うへぇ。いったいどこの馬鹿がこんな海域で喧嘩をふっかけてきたの」
「それを、これから問いただすんだよ」
ヘインズは頷いた。「わかった」
「ちなみに、大砲は六門ある」
ヘインズは目をひん剥いた。「なのに、逃げないの?」
「なんで逃げなきゃならん? 俺はお前らのことを心の底から信じてるんだぜ」
ヘインズは非難がましい目でフーヴァルを睨んでから、それでは足りないとばかりに、後じさりしながら声に出さず「オエッ」という仕草をした。それから、舷縁にひらりと飛び乗り、ラットラインを駆け登って、あっという間に主檣の檣楼に乗り込んだ。
ヘインズは冗談扱いしたが、フーヴァルの信頼は本物だった。
何かから逃れて海賊になる者は多い。地上に居場所を見つけられずに海に活路を見出そうとする者たちを、フーヴァルは嫌というほど見てきた。そういう連中のほとんどは、海に出さえすればどうにかなると考えているが、それは間違いだ。海ほど身動きの取れないどん詰まりはない。何せ、船の上から一歩でも足を踏み出せば、そこに広がっているのは底知れぬ海だけなのだから。
海で生きるのは、地上で生きるよりもよほど難しい。だからこそ、同じ船に乗るのは信頼できる者だけ──生きるための努力を惜しまない者だけだ。『この船に全員は乗れない』がフーヴァルの信条だった。
ゲラードの姿は甲板から消えていた。バウワーに仕事を命じられて下甲板に向かったのだろう。上甲板に集まっているのは、飛び道具を備えた魔法使いやデーモンたちだ。
「船長、間もなく敵船の射程圏内です!」見張りについていた掌帆手のワトソンが叫んだ。「敵船、全砲門開いてます!」
フーヴァルは頷き、声を張り上げた。
「ヘインズ!」
「あいよ!」
ヘインズの魔法は、エリマスで暮らす姉モイラの手による魔導具があって初めて効力を発揮する。彼女が作る魔道具は船そのもの──さらに言うなら、船が掲げる帆の全面に、びっしりと施された刺繍だ。白い魔法糸でもって様々な意匠が刺繍された帆布は、ヘインズの魔法をこの世に顕すための、巨大な呪文書でもある。この魔法があるおかげで、マリシュナは追い風を集め、嵐を逃れ……さらに目を瞠ることまでやってのける。
波音の向こう側から、相手の船の号令が聞こえた。弾を込め、最初の一発を放とうと身構えている。
「メディラヴァコモラセクリェカルラ……」
ヘインズが呪文の詠唱をはじめると、マリシュナ号の純白の帆に光の文様が浮かび上がった。ヘインズの呪文は、常人には意味を成さない音の羅列だ。だが糸にとっては、それこそが『命令』である。糸は彼女の声を聞き、その言葉が発せられるままに発光する。あるところでは点滅し、またあるところでは流れるように点灯していく光が意味を結ぶのは、糸からなる魔方陣が完成した時だ。
敵船が、待ちかねていたようにマリシュナ号と水平に並ぶ。
「現在、射程範囲内!」ワトソンが淡々と告げる。「来ますよ!」
「放て!」
敵船の号令が、はっきり聞こえた。
砲門から火花が飛び散り、黒煙を従えた砲弾が放たれる。
数年前に、ある魔術師が見出した『爆発』という現象を利用した武器が、まるで疫病のように世界中に広まっている。炎薬と呼ばれる類いの物質を混ぜ合わせた瞬間に発生する力で、鉛の球を発射するという忌々しい兵器だ。エイルの船の多くには、大砲は配備されていない。そうするだけの資金も、砲筒や弾丸に使う資源も足りないのだ──今はまだ。
鉛の砲弾が空気を切り裂く甲高い音がした。漆黒の球体は弧を描きながら、こちらの船体に吸い込まれるように飛んでくる。
「……セラジェリヴェルマニ、カ!」
ヘインズの詠唱が終わると同時に、帆の上に甲虫を模した魔方陣が浮かび上がった。
砲弾の群れは、ちょうど左舷の下甲板付近に命中する……はずだった。ところが、主檣のてっぺんから降りてきた光の幕に阻まれて、まるで硝子の窓にぶつかった蠅のように、虚しく海中に落ちていった。
その瞬間、ここぞとばかりに、船乗りたちが歓声と馬鹿笑いをあげた。
中には、相手に向かって剥き出しの尻を振って見せる者もいる。フーヴァルは、相手の戦意を削ぐことならなんだって許可していた。海賊にとっては、品位など禁酒の次くらいに無意味なものだ。
敵船の狙いはマリシュナ号でも〈浪吼団〉でもない。海賊を拿捕しようとする船乗りはまず間違いなく、標的とする船のことを調べ上げるものだが、目の前の船の船長は、どう考えてもそれを怠っていた。マリシュナ号に魔女が乗っていると知っていれば、無闇に砲弾を撃ち込んでくるはずがない。おそらく、誰かから聞かされた船の特徴だけを頼りに、この海域で待ち構えていたのだろう。とすれば連中の目的は、この船の積荷だ。
「アーナヴ、あいつを甲板に出させるな」そっと耳打ちすると、アーナヴは一つ頷いて、ゲラードの身柄を確保しに行った。
フーヴァルは左舷の舷縁に飛び乗り、静索の一本を掴んだ。
「こちらはマリシュナ号の船長、フーヴァル・ゴーラムだ」フーヴァルは、相手の船に向かって声を上げた。「貴船の船長と話がしたい!」
ややあって、見るからに胃腸の悪そうな男が右舷に姿を現した。
「アクシング号の船長、エイベル・ファリントンだ」
「こちらは、エイル王の正式な認可を受けた私掠船だ。貴船の攻撃の意図を尋ねたい」厳しい態度でそう言い放ってから、少しだけ態度を軟化させてみせる。「幸いにも、あんたがたの攻撃は不発に終わった。我々で力になれることがあるなら、見返り次第で協力してやってもいい」
「我々は、ダイラ議会の要請を受け、ある人物の行方を追っている。貴船と同じ特徴を持つ船がその人物を匿っているという情報を元に攻撃を加えたまでだ」
ファリントンの顔色は極端に悪く、いまにも吐きそうな顔をしている。
まさか、船酔いでもしてるのか? どこの馬鹿が、こんな陸者を船長に据えた?
「その人物に何の用がある?」
「その人物は、王権に対する反逆の容疑がかけられている。身柄を確保次第、国に送還し、裁判のあとしかるべき手順に則って処罰を受ける」
「処刑されることまで決まってるってか。気に入らねえな」フーヴァルは独りごちた。
船を沈める勢いで大砲をぶち込んできたということは、その人物が早く消えれば消えるほど良いということだ。これが本当に『議会の要請』によって行われたことかどうかはわからないが、あのゲラードが、誰かに命を狙われる程度には存在感があるのは確からしい。
「あいにくだが、この船にそんな怪しい奴は──」
「一つ聞きたい!」
後ろから聞こえた声に、文字通り頭を殴られたような気分でふり返る。
そこに、ゲラード本人が立っていた。
「おい、ちょっと待て──」
「わたしはゲラード・オブ・クラレントだ。ファリントン君に尋ねる」
言いながら、ゲラードは臆する風もなく甲板を歩いてくる。
「このクソ馬鹿野郎!」
フーヴァルの悪態を無視して、彼は舷縁に手を掛けた。
「議会の要請と言ったが、誰の立案だ? ユージーン王子か?」
すると、船長の調子の悪そうな顔に、赤みが戻った。王子を前に脱帽して最敬礼したものの、しぶしぶながらといった様子だ。
「ユージーン殿下は身罷られました。あなたがキャトフォードを脱走した直後に」
「何だって!?」
「あなたはいまや、グレイアム王、ユージーン王子ご両名殺害の廉で起訴されておいでです! 即刻ダイラにお戻りになり、しかるべき裁きをお受けください!」
ゲラードはよろめいた。
「そんな……ばかな」
アクシング号の船長は、ここぞとばかりに軽蔑の眼差しをゲラードに注いだ。
「此度の要請は、エレノア王女が議会にご提出なされたものです」
おそらく、それがとどめだった。
「エレノアが……?」
ゲラードの膝から力が抜けて、その場にしゃがみこみそうになる。それを助けたのは、ようやく王子に追いついたアーナヴだった。
ゲラードの登場は、明らかに状況を悪い方に向かわせた。ファリントン船長がどんな戯言を吹き込まれたにせよ──そして、彼がどれほど船乗りに向いてないにせよ──正義漢であることは確かなようだ。彼にとってゲラードは、ふたりの兄を殺しておきながら亡命を図った極悪人なのだ。
「抵抗なさるおつもりなら、こちらは徹底的に抗戦するまで。そのような場合の対処についても、指示を受けておりますので!」
まるで判決文を読み上げるように言うと、ファリントンは帽子をかぶり直した。
「総員、戦闘配置!」
号令の伝達と共に笛の音が響き渡る。
「こんな至近距離でぶち込まれたらまずい!」アーナヴが鋭く囁く。「この海域では戦闘もできない。今すぐ逃げないと──」
「わかってる!」フーヴァルは言った。「ヘインズの力はこのまま防御に回す。残りの手を全部使って、全力で南下しろ!」
「本気か」アーナヴの目に、理解が閃く。「とんでもない賭けだぞ」
「俺が賭けで負けたことがあったか?」
「負けた結果がこれだろう! まったく!」アーナヴはそう言って、後部甲板に急ぎつつ命令を下した。「風上に舵を切れ! 全帆展開!」
ゲラードの姿を探してあたりを見回したちょうどそのとき、砲撃の第二波が放たれた。ヘインズの結界は今度もしのいでくれたが、保ってあと三回までだろう。その前に、なんとか南の海域に逃げ込まなければならない。
「ガル!」
ゲラードは別人かと思うほど青ざめた顔をしていたものの、広げた帆を引き延ばす掌帆手に混じって、自分の仕事をしていた。自分が呼ばれたことに気付いているのかいないのか、手だけはなんとか動かしながら、呆然とフーヴァルを見返している。
「ガル、俺の近くにいろ!」
彼はフーヴァルを無視して、再び帆を引く仕事に戻った。
「おい! いいから、安全な場所に──」
肩を掴んだ手を、彼は振り払った。
「いやだ!」
打ちのめされたような表情は消え、手に負えないほど意固地になっているときの顔になっている。
「すまない。すべて僕のせいだ」ゲラードは言った。「だからこそ、安全なところに逃げ込んで震えているのはいやだ!」
「ああそうかい! なら勝手にしやがれ!」
ゲラードに怒りをぶつけながらも、わざわざあの船に近づくという選択をしたのは自分なのだということを、フーヴァルは理解していた。
ゲラードを追いかけてくる者の正体を、どうしても、はっきりさせずにはいられなかったのだ。
馬鹿はどっちだ、クソ。
「てめえの尻拭いをするまでは死ぬんじゃねえぞ!」
フーヴァルはゲラードを残して舵柄へと向かった。
甲板を横切る最中に打ち込まれた第三波の砲撃で、結界にわずかなひずみが生じたが、船体はまだ無傷だ。
帆は正面から風を受け、狙い通り、船が後退しはじめる。
「面舵いっぱい!」
アーナヴの指示に従い、操舵手のマクレガンが舵を切る。船は後退しながら、船首を右舷側──南へと巡らした。
「全帆、右四角に転回!」
掌帆手たちが転桁索にとりつき、力一杯引っ張って、帆の向きを変える。正しい角度で風を受けた船は後退をやめ、今度は前へと進みはじめる。これで、アクシング号の射線から少しだけ遠ざかることができた。こちらの動きを判じかねていたファリントンも、ようやく腹を決めてマリシュナのあとを追いはじめた。
左右の舷に大砲を備えた船は、相手方の船の横腹に水平に並ばなければ戦力を発揮できない。だから、一度不利な陣形から逃れることができれば、追いかけっこに持ち込める。とは言え、巨大な船体にふさわしい巨大な帆を持つアクシング号は、マリシュナ号に苦もなく追いつき、再び砲弾を食らわせてこようとするだろう。
人間の背丈ほどもある舵柄は、撹拌機の棒を思わせる形状から撹拌棒とも呼ばれる。操舵手を務めるマクレガンは、真剣を握っているかのような面持ちでそれを握りしめていた。
そのすぐ傍で、アーナヴが待ち構えていた。
アーナヴは、舵柄の奥に鎮座している箱に両手をついていた。正方形の机のような形をした箱の天板には円形の窓がついていて、そこから魔道具特有の不思議な光が漏れていた。霊水で満たされたこの箱の中には、表面に陸と海の形が描かれた球体が収まっている。船が移動するにつれて動く球体が、現在の位置を示すという代物だ。球の表面に彫り込まれた地形図や海図は、いわば船外不出の情報で、歴代の航海士たちが、時に命を賭けて刻み込んでいったものだ。浮球儀と呼ばれるこの魔道具は、航海神の名を取って『マルドーホのタマ』とも呼ばれる。もちろん、限られたものの間でしか使われない呼び名だが。
「いまどの位置にいる?」フーヴァルが言い、浮球儀を覗き込んだ。
「この風なら、極まであと五分の一刻ってところだ」アーナヴが言った。
そのとき、とどろき渡る爆音に次いで、船体が震撼した。
船長と航海士と操舵手とが、緊張に満ちた視線を交わす。
よろめきながら駆け込んできた掌帆手のジェンキンズが──覚悟はしていたものの──嫌な知らせを運んできた。
「左舷下甲板後方に二発命中!」
下甲板なら喫水線より上だから、浸水はない。
「よし。レイリーの下に三人つけて修理にあたらせろ。他にも穴が開くかもしれねえから、いまは応急処置でいい」
了解! と、半ば叫ぶように返事をして、ジェンキンズは戻っていった。
アーナヴがフーヴァルを見る。本気の度合いを図るような眼差しで。
彼は言った。「ガルは?」
「甲板中央部だ」
「放ってきたのか?」アーナヴがフーヴァルの腕を掴んだ。
「自分の仕事を全うしたいと言う奴に、駄目とは言わねえ」
フーヴァルは有無を言わせぬ声で言った。アーナヴはそれ以上反論しなかった。
「アクシング、右舷に並びます!」
報告の声と共に、独特のきな臭さが漂ってくる。結界を張るのに消耗した魔法糸が燃え尽きはじめているのだ。
浮球儀は焦れったいほどゆっくりと回転し、小さな点で示された現在位置が、じりじりと南へ這ってゆく。その少しだけ先で、球の表面に塗られた海の色が変わっている。青から──船乗りの間では不吉を表す──濃緑へと。
「間もなく射程範囲!」
「連中が砲撃をやめると思うか?」アーナヴが言う。「俺たちを沈めるまで止まらないぞ」
「俺たちが沈むのが先か、向こうが先かだ」フーヴァルは浮球儀の天板の縁を握り、小さな点を凝視し続けた。「今は待つしかねえ」
ジェンキンズの声が響く。「射程範囲……内!」
小さな点が、いまようやく、青と緑の混ざり合う境界にさしかかる。フーヴァルがアーナヴに頷くと、彼はすぐさま、甲板中央部に走りながら叫んだ。
「極の海に入った! 武器を置いてかがめ!」
その指示が、皆に聞こえたかどうか。
爆音と共に、アクシング号の左舷から砲弾が飛び出した。重量のある鉄の球が、大きく弧を描いてこちらに向かってくる。
彼らは帆を狙っていた。帆と、檣楼で結界を張っているヘインズを。
空気を裂く甲高い音が、間延びしながら近づいてくる。
放たれた三発のうちの一つが主檣帆を突き破り、主檣に命中した。飛び散る木っ端の雨の中、船が震撼し、怖ろしい軋みが響き渡る。
「ヘインズ!」
主檣の檣楼の上で、ヘインズは悲鳴を上げなかった。永遠にも思える時間をかけて、マストが傾ぎ、舷の外側に向かって曲がる。太いマストの芯まで露わになり、松材の香りが不意に空気中に満ちる。そして、木くずを撒き散らしながらマストが折れ、先端から海に落ちた。
「マストが折れたぞ!!」
「ヘインズが落ちた!!」
二つの報告が同時にあがる。
舷に駆け寄り、ヘインズの姿を探す。彼女は折れたマストに辛うじてしがみついていた。
巨大なマストと船体を繋ぐ無数の索に引っ張られ、マリシュナ号は左舷側に大きく傾ぐ。悲鳴にも似た不穏な軋みが船体からあがった。今すぐに切り離さなければ船が横転してしまうが、その索こそがヘインズの命綱なのだ。
「ヘインズ! おーい! 索を掴め!」掌帆手が左舷に駆け寄り、声をかける。「水に浸かるな!早く!」
この海域で船外に出るのは、嵐の海に落ちるのと同じだ。
極の海の波は高く、硬い。だが、問題はそればかりではない。この海には魔物がひしめいている。だからこそ、この海域での戦闘は禁じられているのだ。騒乱に血のにおいは、魔物たちを刺激し、おびき寄せる。
「クソッ! 右舷三角に海狼の群れが!」
「ヘインズ! 頑張れ!」
海狼は、巨大な牙と体を持つ魔獣だ。陸の狼とは違い、四つの足の代わりによく動く鰭を持っている。水掻きも鰓も持たない者が為す術なく海に浮かんでいるのを嗅ぎつけられたら、水中に引きずり込まれる。そうなれば、まず助からない。
ヘインズはまだマストの一部にしがみついているが、いつまで持ちこたえられるかはわからない。
このわずかな間で、船の傾きはさらに大きくなっていた。もはや何かに捕まらないでは、甲板の上で立っていることもできない。
一人を助けるために、他の船員を危険に晒すような命令を下すことはできない。
迷いがある奴は、船長ではいられない。
彼女が船に戻るのを……待ってはいられない。
そのとき、何かがはじけるような音がして、船と折れたマストとを繋いでいた索が切れた。
「ヘインズ!」
彼女が右手で中空に印を描くと、また一本、索が切れた。
波間に飲まれてはまた浮かび上がる彼女の、鋭い眼差しがフーヴァルの視線とかち合う。
その目に迷いはなかった。彼女は、状況を理解していた。
──姉さんに、わたしの最後を伝えて。
フーヴァルは歯を食いしばり、一瞬だけ目を閉じた。
迷いがある奴は──。
「索を切れ」フーヴァルが言う。「索を切れ!」
近くにいた掌帆手たちは、聞こえない振りなどしなかった。
「畜生……!」
長く海で生きていれば、仲間を見殺しにすることを、誰もが一度は経験する。彼らは腰に帯びた短剣を抜き、ピンと張った索に飛びついた。
一本、二本と、張り詰めた索がはじけ飛ぶようにして切れる。
「何をしているんだ!」ゲラードが悲鳴のような声を上げて、掌帆手たちを止めようとしている。「まだミズ・ヘインズがあそこにいるじゃないか! 彼女は──」
フーヴァルは彼の襟首を掴んで、思いきり後ろに引いた。
「索を切らなきゃ、船が横転して全員くたばる!」フーヴァルは押し殺した声で言った。「魔物が、すぐそこまで来てる。助けに出ても共倒れになるんだ。わかったか!」
ゲラードの瞳が、殴られたように揺れる。
「だけど……」
再び爆音が轟き、あの噎び泣くような砲弾の音が近づいてくる。
「みんな、伏せろ!」
みな甲板に身を伏せ、攻撃をやり過ごそうとしていた。次に顔を上げたとき、ヘインズはまだあそこにいるだろうかと思いながら。その時──
「おい、待て!」
制止の声にも構わず、ゲラードが駆け出した。彼は左舷の舷縁に飛び乗ると、海に向かって何かを投げた。動索を留めておくために使われるビレイピンに、索をくくりつけたものだ。
次の瞬間、中部甲板に砲弾が命中した。
焼け焦げた匂いと、むせかえるような血のにおいの中、衝撃で息が止まる。
ゲラードの身体が宙に浮き、舷を越えて──見えなくなった。
「ゲラード!」
フーヴァルは、手摺りに駆け寄った。
海面に人影はない。何十年かぶりに味わう船酔いのような不快感が、腹の底から押し寄せてくる。希望を捨てたくない気持ちと、諦めの気持ちとが激しく混ざり合い、内臓が溶けそうだった。
やめてくれ。ヘインズに続いて、あいつまで──。
「フーヴァル!」
声のした方に慌てて目を向けると、そこにゲラードがいた。船側にぶら下がり、さっき切断した索の一本を両手で握りしめている。彼の胴体にはまた別の索が巻き付けられていて……それが、波間で必死に抗いながらビレイピンにしがみつくヘインズと、彼とを繋いでいた。
「このクソ馬鹿野郎!」
ゲラードが叫び返した。
「その通りだから、早く引き上げてくれ……!」
アクシング号の船員は、首をかしげたはずだ。
容赦ない砲撃に一方的に晒されている状況だというのに、マリシュナ号の甲板からは、割れるような喝采があがっているのだから。
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