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オルノアをあとにして、海面に顔を出したふたりの前にあったのは、小さな舟だった。舟の上には、島に置いてきたはずのゲラードの父親の日誌や指輪、ふたりの服が載せられていた。ナールの話では、こいつに乗って待っていれば、潮が導いてくれるという。
フーヴァルたちは這い上がるように船に乗り、海水を吸って重くなった身を、なんとか起こした。
「それで、こいつがどこに導くって?」
尋ねたけれど、ナールの姿は海中に消えていた。
もう何かを言い返したり怒ったり、気に病んだりする気力は残っていなかった。海底で半日過ごすだけでも骨が折れるのに、目の前に馬鹿でかい竜がいるなんて状況をくぐり抜けたあとの脱力感は、疲労なんて言葉じゃ言い表せない。
あたりは、すっかり夜になっていた。
星の位置は相変わらずめちゃくちゃで、少しの間見上げていただけで目眩がしてきた。島影はなく、小舟には橈もない。
ふたりは言葉もなく見つめ合い、そして船底に身を横たえ、穏やかな波に揺られながら、気絶するように目を閉じた。
けれど、眠ることはできなかった。
交換条件を話し合ったあとに待っていた『もう一つの話』が、フーヴァルの胸をざわつかせていた。
貴銀の族について、シドナはこう語った。
その昔、神々がまだ名前も持たぬ精霊として、風や、波や、木々の間で遊んでいた頃。この世には精霊と通じ合うことができる民がいた。彼らは時に精霊と交渉し、雨を乞うたり、凪や豊作を乞うたりしていた。精霊たちは気まぐれで、思い通りにならないことも多かった。だから貴銀の族は、精霊に貢ぎ物をし、精霊が課した禁忌を破らずに生活することで、彼らの機嫌を取った。
「そんな昔から、人間は神の奴隷だったわけか」
フーヴァルの言葉に、ナールが首を振った。
「いいや、逆だよ」彼は言った。「人間の貢ぎ物を受け取ることで、神が人間の奴隷になったんだ」
頼みをよく聞く精霊の評判は、貴銀の族によって広く伝えられた。精霊は多くの人に崇められるほど力を増した。そして貴銀の族は、ある決定的な鎖を、精霊の首にかけた。
「名前だ」ゲラードは、まるで半分夢見るような口調で言った。「彼らは、精霊に名前をつけた」
ナールは頷いた。
「名前をつけられることで、精霊は神としての産声をあげる。呼ばれるための名前をつけられるということは、それ以外の存在に変化できなくなるということだ」ナールは静かな声で語った。
「名前をつけられることで、精霊は神としての産声をあげる」ゲラードが囁く。「そして、彼らのための物語が語られるようになる」
それが、神話だ。
神話によって、神はさらなる信仰を──力を集めた。
「貴銀の族は『見るもの』であり、『聞くもの』であり、『語るもの』だった。彼らがいなければ、精霊は精霊のまま、この世で遊び暮らしているだけだっただろう」
「つまり……彼らが、神を作ったと?」
「簡単に言えば、そうだね」ナールが頷いた。「その血は、とある神によって長いこと封じられてきたんだ」
フーヴァルは、あることに気付いて身を強ばらせた。
「待てよ。よりによって今、こいつが目覚めたってことは、血を封じてた神ってのは──」
ゲラードとフーヴァルの目が合う。互いの目の中に驚きを見てから、再びナールとシドナに視線を戻した。
「まさか、陽神なのですか?」ゲラードが言った。
「その通りだ」ナールは深く頷いた。「それは長い、長い嵐の中から生まれた。かの神は太陽の恵みを名前で縛ることで生まれた。いと高きところで輝き、人間が目覚め、耕し、記し、営むための、光という秩序をもたらした」
それは、絶対的な秩序だった。
「それまでには存在していなかったのだ──あれほどまでに強い力を持つ神は」ナールの声を借りて、シドナが言った。「光が生じたことで影は形を定め、夜が生まれた。様々な神がこの世に生じた。月神ヘカ、暁のアシュタハ……そして神々の末子、黄昏のリコヴ。人々の営みが多岐に亘るほど、神もまた、その数を増やした。貴銀の族の力によって」
「ならばなぜ、陽神は貴銀の血を封じたんだろう?」ゲラードは小さく呟いた。
ナールは言った。「恐れたからだ」
ゲラードは眉を顰めた。「恐れた? それほどまでに強力な神が、なぜ──」
「さらに強い神が生まれるのを恐れたってことか」フーヴァルが言った。
「そうだ」ナールの背後で、シドナが同意の轟きを発した。「地中に眠る貴金が、そのための楔だった。世界と、貴銀の血を分断するための」
「で、それが力を失って……こいつの力が目覚めた」フーヴァルが言った。
沈黙の中、ゲラードがゆっくりと事態を飲み込んでゆく。
神話が真実となり、今までにない鮮やかさで目の前に広がる。そしてそれが、自分を取り囲むのを、彼は今まさに体感しているのだった。
「お前が目覚めたのは、貴銀の子よ、世界がそれを求めたからだ」ナールが言った。「今はまだ微睡んでいるお前の血も、じきに本来の力を取り戻す」
「し、しかし……」
ゲラードの息が荒くなっている。彼の手は、微かに震えていた。その手を握ると、ゲラードは感謝の眼差しでフーヴァルを見た。彼はわななく唇を一度強く結んでから、言った。
「世界に意思があるのだとしたら……僕に何を求めているんでしょう」
「お前が、心のままに行動することを求めている」ナールは言った。「この世界の一部であるお前が決めたことは──それすなわち、この世界の決めたこと」
謎めいた言い回しに、ゲラードの不安がぶり返す。彼はフーヴァルの手を強く握った。
「それは……僕に、新たな神を作れと……? けれど──」
それはすなわち、この世に再び、怖ろしい天変地異をもたらすことになるのでは?
彼は口にはしなかったが、その横顔には痛いほどの恐怖が表れていた。
耳を突き刺すほど強烈な沈黙が、海の底に降りる。
やがて、ナールは言った。
「まだわからぬ」彼は、もう一度言った。「世界はお前が、心のままに行動することを求めている」
その声は、安心を与えてはくれなかった。
フーヴァルは小舟の上で、隣に寝そべるゲラードを見た。
あの立派な王城から離れて、こんなに遠くまで来てしまうことを、彼はほんの少しでも予想していただろうか。
ゲラードが神を作り出す力──正しくは、名もない精霊を『神』に仕立て上げる力を持ってるなんて。
だが、話の大きさに打ちのめされるのではないかと思っていたフーヴァルの心配をよそに、彼は規則正しい寝息を立てていた。肝心なところで、信じられないほど図太いのだ、この男は。
そのせいだろうか。寄り添う身体の温もりを感じているうちに、フーヴァルの瞼もようやく重くなってきた。
眠りの気配のように、海霧が小さな小舟を包み込む。
「ま……なるようになるか」
呟き、目を閉じる。
どのみち、彼と離れて生きられないことはわかりきっている。なら、それがどんな終わり方であれ、最後まで傍にいるだけだ。
胸の内でそう独りごちた瞬間──銀の目を光らせて、ゲラードが飛び起きた。
「まずい!」
「何だ!?」
つられて起き上がると、さっきまで立ちこめていた海霧は跡形もなく消えていた。小舟は、どういうわけか馬鹿みたいに揺れまくっていて、耳の中には警鐘のような耳鳴りが──いや、耳鳴りのような警鐘が鳴り響いていた。目の前に、おかしな形をした壁が迫っていると思ったのは一瞬だった。フーヴァルは、それが船の舳先だとすぐに気付いた。
だが、遅すぎた。
馬に蹴散らされた蟻のように、船はなすすべなくひっくり返った。
目を白黒させながら転覆した船にしがみつく。ゲラードも、フーヴァルの隣で激しく喘いでいた。
「何が『潮が導いてくれる』だ、あのクソ野郎……」
「いったい──」
その時、空から声が降ってきた。
「フーヴァル!?」
舷縁から身を乗り出し、こちらを覗き込んでいる人影がある。彼女は、遭難者をもっとよく見るためにギリギリのところまで段索を下がってきた。動く度に、髪に編み込んだガラス玉や、金貨や、珊瑚の飾りがチリチリと音を立てている。
彼女は、両目の下に刻んだ鴎の翼の刺青ごと顔を歪めて、怒鳴った。
「何やってんだよ、こんなとこで!」
イルヴァ・シーゲレ。
〈浪吼団〉のもう一人の船長が、ロッサーナ号からフーヴァルたちを見下ろしていた。
「ほーお」
新しい服と毛布にくるまる遭難者ふたりを、海軍卿イルヴァ・シーゲレは非難に満ちた目で交互に見た。
彼女の船長室には大きな窓があり、そのおかげで明るかった。部屋の外周を取り囲む外回廊の手摺りには鴎たちが憩っていて、そのうちの数羽が興味深そうに室内を覗き込んでいる。
フーヴァルとゲラードは椅子代わりの木箱の上に座り、毛布の中で震えていた。船長室にある魔法仕掛けの火鉢にも火が入っていたけれど、南の海に慣れすぎたあとでは、この気温はかなり堪えた。
「そんであんたらふたりは、半年もの間行方をくらまして、そのなんだかって言う無人島でよろしくヤってたわけか」
明らかに強調された『よろしくヤってた』という部分を訂正する余裕はなかった。
「半年だ!?」フーヴァルが声を荒らげる。「待てよ。俺たちが遭難してから……まだ十日かそこらしか経ってないはずだぞ」
イルヴァは、船虫でも見るような目でフーヴァルを見た。
「そこまで嘘が下手な奴、初めて見た」
「本当なんだ」ゲラードがおずおずと加勢した。「おそらく、あの島では時の流れが違っているんだと思う──極の海は、そういう場所なんだろう」
イルヴァは思いきり目を剥いた。「極の海!? あんなとこにいたの?」
ゲラードとフーヴァルは、そろって頷いた。
イルヴァはため息のような、感嘆の声のようなものを吐き出してから、恐れ入ったというように笑った。
「極の海で遭難して、生きて還っただって?」
「ここがどの海かもわからねえ」フーヴァルは言った、くたびれ果てた声を隠そうとも思わなかった。
「ここは大蒼洋。半年前まではあんたの庭だった海」イルヴァは言った。
「どういうことだよ」
「こういうことだよ。いまじゃこの海を仕切ってるのはあんたじゃない。ジャクィス・キャトルって海賊さ。幽霊と大烏賊を引き連れて、好き放題暴れ回ってる。どうにもきな臭い相手と組んでるしね」
フーヴァルは呻きながら、椅子の上で沈み込んだ。
その様子を見て、イルヴァは少しだけ眉を緩めた。
「実はさ、あんたたちのことをラーニヤに占ってもらってたんだ。覚えてるだろ? アシュモールの魔女」
覚えている。ダイラでお尋ね者になってしまった審問官のサムウェルと一緒に、エイル行きの船に匿った。
「おふたりさんの行方がわからなくなって……どうにも諦めきれなくてね」彼女は肩をすくめた。「ラニーは人捜しにかけちゃピカイチだ。ちょうどこのあたりの海域だって言うんだよ。それだって、もう何ヶ月も前の話だぜ」
イルヴァは、彼女が腰掛けた寝棚の枕元から、酒瓶を引っ張り出した。コルクを噛んで引き抜き、ゲラードに差し出す。ゲラードが丁重に断ると、今度はフーヴァルに回した。
フーヴァルは思いきり呷り、二、三度噎せた。もの凄く効くが、二口と飲めないくらい強烈な酒だ。そして、意を決したように尋ねた。
「マリシュナは、どうなった?」
イルヴァはけろりとした顔で言った。
「ああ。今はアーナヴが回してるよ。〈嵐の民〉の件は保留になってる。今は前みたく、商船の護衛やらなにやら──」
フーヴァルは深い安堵のため息をついた。「そうか……」
「でもな、締まりも何もあったもんじゃないんだ。みぃんな腑抜け。あれこそ幽霊船だね」イルヴァはフーヴァルの手から酒瓶を奪い返すと、景気よく喉を鳴らして飲んだ。そして言った。「とにかく、あんたらが還ってきて良かったよ。ようやくいい報せができた」
彼女は立ち上がった。
「じゃ、あたしは仕事に戻るから、船室の準備ができるまではこの部屋を使って良い。けど──」
警告するような目を、フーヴァルに向ける。
フーヴァルは両手を挙げて、言った。
「おかしな真似はしねえよ。そんな体力も残ってねえんだ」
「どうだか」イルヴァはまだ不信の目を向けたままだ。「オーウィンから全部聞いてんだよ、こっちは」
「勘弁してくれよ……」
あたしの寝棚に触ったら殺すと言い置いて、彼女は部屋を出た。
ありがたいことに、入れ替わりに船員が入ってきて、ふたりのための船室の用意ができたと教えてくれた。
オルノアをあとにして、海面に顔を出したふたりの前にあったのは、小さな舟だった。舟の上には、島に置いてきたはずのゲラードの父親の日誌や指輪、ふたりの服が載せられていた。ナールの話では、こいつに乗って待っていれば、潮が導いてくれるという。
フーヴァルたちは這い上がるように船に乗り、海水を吸って重くなった身を、なんとか起こした。
「それで、こいつがどこに導くって?」
尋ねたけれど、ナールの姿は海中に消えていた。
もう何かを言い返したり怒ったり、気に病んだりする気力は残っていなかった。海底で半日過ごすだけでも骨が折れるのに、目の前に馬鹿でかい竜がいるなんて状況をくぐり抜けたあとの脱力感は、疲労なんて言葉じゃ言い表せない。
あたりは、すっかり夜になっていた。
星の位置は相変わらずめちゃくちゃで、少しの間見上げていただけで目眩がしてきた。島影はなく、小舟には橈もない。
ふたりは言葉もなく見つめ合い、そして船底に身を横たえ、穏やかな波に揺られながら、気絶するように目を閉じた。
けれど、眠ることはできなかった。
交換条件を話し合ったあとに待っていた『もう一つの話』が、フーヴァルの胸をざわつかせていた。
貴銀の族について、シドナはこう語った。
その昔、神々がまだ名前も持たぬ精霊として、風や、波や、木々の間で遊んでいた頃。この世には精霊と通じ合うことができる民がいた。彼らは時に精霊と交渉し、雨を乞うたり、凪や豊作を乞うたりしていた。精霊たちは気まぐれで、思い通りにならないことも多かった。だから貴銀の族は、精霊に貢ぎ物をし、精霊が課した禁忌を破らずに生活することで、彼らの機嫌を取った。
「そんな昔から、人間は神の奴隷だったわけか」
フーヴァルの言葉に、ナールが首を振った。
「いいや、逆だよ」彼は言った。「人間の貢ぎ物を受け取ることで、神が人間の奴隷になったんだ」
頼みをよく聞く精霊の評判は、貴銀の族によって広く伝えられた。精霊は多くの人に崇められるほど力を増した。そして貴銀の族は、ある決定的な鎖を、精霊の首にかけた。
「名前だ」ゲラードは、まるで半分夢見るような口調で言った。「彼らは、精霊に名前をつけた」
ナールは頷いた。
「名前をつけられることで、精霊は神としての産声をあげる。呼ばれるための名前をつけられるということは、それ以外の存在に変化できなくなるということだ」ナールは静かな声で語った。
「名前をつけられることで、精霊は神としての産声をあげる」ゲラードが囁く。「そして、彼らのための物語が語られるようになる」
それが、神話だ。
神話によって、神はさらなる信仰を──力を集めた。
「貴銀の族は『見るもの』であり、『聞くもの』であり、『語るもの』だった。彼らがいなければ、精霊は精霊のまま、この世で遊び暮らしているだけだっただろう」
「つまり……彼らが、神を作ったと?」
「簡単に言えば、そうだね」ナールが頷いた。「その血は、とある神によって長いこと封じられてきたんだ」
フーヴァルは、あることに気付いて身を強ばらせた。
「待てよ。よりによって今、こいつが目覚めたってことは、血を封じてた神ってのは──」
ゲラードとフーヴァルの目が合う。互いの目の中に驚きを見てから、再びナールとシドナに視線を戻した。
「まさか、陽神なのですか?」ゲラードが言った。
「その通りだ」ナールは深く頷いた。「それは長い、長い嵐の中から生まれた。かの神は太陽の恵みを名前で縛ることで生まれた。いと高きところで輝き、人間が目覚め、耕し、記し、営むための、光という秩序をもたらした」
それは、絶対的な秩序だった。
「それまでには存在していなかったのだ──あれほどまでに強い力を持つ神は」ナールの声を借りて、シドナが言った。「光が生じたことで影は形を定め、夜が生まれた。様々な神がこの世に生じた。月神ヘカ、暁のアシュタハ……そして神々の末子、黄昏のリコヴ。人々の営みが多岐に亘るほど、神もまた、その数を増やした。貴銀の族の力によって」
「ならばなぜ、陽神は貴銀の血を封じたんだろう?」ゲラードは小さく呟いた。
ナールは言った。「恐れたからだ」
ゲラードは眉を顰めた。「恐れた? それほどまでに強力な神が、なぜ──」
「さらに強い神が生まれるのを恐れたってことか」フーヴァルが言った。
「そうだ」ナールの背後で、シドナが同意の轟きを発した。「地中に眠る貴金が、そのための楔だった。世界と、貴銀の血を分断するための」
「で、それが力を失って……こいつの力が目覚めた」フーヴァルが言った。
沈黙の中、ゲラードがゆっくりと事態を飲み込んでゆく。
神話が真実となり、今までにない鮮やかさで目の前に広がる。そしてそれが、自分を取り囲むのを、彼は今まさに体感しているのだった。
「お前が目覚めたのは、貴銀の子よ、世界がそれを求めたからだ」ナールが言った。「今はまだ微睡んでいるお前の血も、じきに本来の力を取り戻す」
「し、しかし……」
ゲラードの息が荒くなっている。彼の手は、微かに震えていた。その手を握ると、ゲラードは感謝の眼差しでフーヴァルを見た。彼はわななく唇を一度強く結んでから、言った。
「世界に意思があるのだとしたら……僕に何を求めているんでしょう」
「お前が、心のままに行動することを求めている」ナールは言った。「この世界の一部であるお前が決めたことは──それすなわち、この世界の決めたこと」
謎めいた言い回しに、ゲラードの不安がぶり返す。彼はフーヴァルの手を強く握った。
「それは……僕に、新たな神を作れと……? けれど──」
それはすなわち、この世に再び、怖ろしい天変地異をもたらすことになるのでは?
彼は口にはしなかったが、その横顔には痛いほどの恐怖が表れていた。
耳を突き刺すほど強烈な沈黙が、海の底に降りる。
やがて、ナールは言った。
「まだわからぬ」彼は、もう一度言った。「世界はお前が、心のままに行動することを求めている」
その声は、安心を与えてはくれなかった。
フーヴァルは小舟の上で、隣に寝そべるゲラードを見た。
あの立派な王城から離れて、こんなに遠くまで来てしまうことを、彼はほんの少しでも予想していただろうか。
ゲラードが神を作り出す力──正しくは、名もない精霊を『神』に仕立て上げる力を持ってるなんて。
だが、話の大きさに打ちのめされるのではないかと思っていたフーヴァルの心配をよそに、彼は規則正しい寝息を立てていた。肝心なところで、信じられないほど図太いのだ、この男は。
そのせいだろうか。寄り添う身体の温もりを感じているうちに、フーヴァルの瞼もようやく重くなってきた。
眠りの気配のように、海霧が小さな小舟を包み込む。
「ま……なるようになるか」
呟き、目を閉じる。
どのみち、彼と離れて生きられないことはわかりきっている。なら、それがどんな終わり方であれ、最後まで傍にいるだけだ。
胸の内でそう独りごちた瞬間──銀の目を光らせて、ゲラードが飛び起きた。
「まずい!」
「何だ!?」
つられて起き上がると、さっきまで立ちこめていた海霧は跡形もなく消えていた。小舟は、どういうわけか馬鹿みたいに揺れまくっていて、耳の中には警鐘のような耳鳴りが──いや、耳鳴りのような警鐘が鳴り響いていた。目の前に、おかしな形をした壁が迫っていると思ったのは一瞬だった。フーヴァルは、それが船の舳先だとすぐに気付いた。
だが、遅すぎた。
馬に蹴散らされた蟻のように、船はなすすべなくひっくり返った。
目を白黒させながら転覆した船にしがみつく。ゲラードも、フーヴァルの隣で激しく喘いでいた。
「何が『潮が導いてくれる』だ、あのクソ野郎……」
「いったい──」
その時、空から声が降ってきた。
「フーヴァル!?」
舷縁から身を乗り出し、こちらを覗き込んでいる人影がある。彼女は、遭難者をもっとよく見るためにギリギリのところまで段索を下がってきた。動く度に、髪に編み込んだガラス玉や、金貨や、珊瑚の飾りがチリチリと音を立てている。
彼女は、両目の下に刻んだ鴎の翼の刺青ごと顔を歪めて、怒鳴った。
「何やってんだよ、こんなとこで!」
イルヴァ・シーゲレ。
〈浪吼団〉のもう一人の船長が、ロッサーナ号からフーヴァルたちを見下ろしていた。
「ほーお」
新しい服と毛布にくるまる遭難者ふたりを、海軍卿イルヴァ・シーゲレは非難に満ちた目で交互に見た。
彼女の船長室には大きな窓があり、そのおかげで明るかった。部屋の外周を取り囲む外回廊の手摺りには鴎たちが憩っていて、そのうちの数羽が興味深そうに室内を覗き込んでいる。
フーヴァルとゲラードは椅子代わりの木箱の上に座り、毛布の中で震えていた。船長室にある魔法仕掛けの火鉢にも火が入っていたけれど、南の海に慣れすぎたあとでは、この気温はかなり堪えた。
「そんであんたらふたりは、半年もの間行方をくらまして、そのなんだかって言う無人島でよろしくヤってたわけか」
明らかに強調された『よろしくヤってた』という部分を訂正する余裕はなかった。
「半年だ!?」フーヴァルが声を荒らげる。「待てよ。俺たちが遭難してから……まだ十日かそこらしか経ってないはずだぞ」
イルヴァは、船虫でも見るような目でフーヴァルを見た。
「そこまで嘘が下手な奴、初めて見た」
「本当なんだ」ゲラードがおずおずと加勢した。「おそらく、あの島では時の流れが違っているんだと思う──極の海は、そういう場所なんだろう」
イルヴァは思いきり目を剥いた。「極の海!? あんなとこにいたの?」
ゲラードとフーヴァルは、そろって頷いた。
イルヴァはため息のような、感嘆の声のようなものを吐き出してから、恐れ入ったというように笑った。
「極の海で遭難して、生きて還っただって?」
「ここがどの海かもわからねえ」フーヴァルは言った、くたびれ果てた声を隠そうとも思わなかった。
「ここは大蒼洋。半年前まではあんたの庭だった海」イルヴァは言った。
「どういうことだよ」
「こういうことだよ。いまじゃこの海を仕切ってるのはあんたじゃない。ジャクィス・キャトルって海賊さ。幽霊と大烏賊を引き連れて、好き放題暴れ回ってる。どうにもきな臭い相手と組んでるしね」
フーヴァルは呻きながら、椅子の上で沈み込んだ。
その様子を見て、イルヴァは少しだけ眉を緩めた。
「実はさ、あんたたちのことをラーニヤに占ってもらってたんだ。覚えてるだろ? アシュモールの魔女」
覚えている。ダイラでお尋ね者になってしまった審問官のサムウェルと一緒に、エイル行きの船に匿った。
「おふたりさんの行方がわからなくなって……どうにも諦めきれなくてね」彼女は肩をすくめた。「ラニーは人捜しにかけちゃピカイチだ。ちょうどこのあたりの海域だって言うんだよ。それだって、もう何ヶ月も前の話だぜ」
イルヴァは、彼女が腰掛けた寝棚の枕元から、酒瓶を引っ張り出した。コルクを噛んで引き抜き、ゲラードに差し出す。ゲラードが丁重に断ると、今度はフーヴァルに回した。
フーヴァルは思いきり呷り、二、三度噎せた。もの凄く効くが、二口と飲めないくらい強烈な酒だ。そして、意を決したように尋ねた。
「マリシュナは、どうなった?」
イルヴァはけろりとした顔で言った。
「ああ。今はアーナヴが回してるよ。〈嵐の民〉の件は保留になってる。今は前みたく、商船の護衛やらなにやら──」
フーヴァルは深い安堵のため息をついた。「そうか……」
「でもな、締まりも何もあったもんじゃないんだ。みぃんな腑抜け。あれこそ幽霊船だね」イルヴァはフーヴァルの手から酒瓶を奪い返すと、景気よく喉を鳴らして飲んだ。そして言った。「とにかく、あんたらが還ってきて良かったよ。ようやくいい報せができた」
彼女は立ち上がった。
「じゃ、あたしは仕事に戻るから、船室の準備ができるまではこの部屋を使って良い。けど──」
警告するような目を、フーヴァルに向ける。
フーヴァルは両手を挙げて、言った。
「おかしな真似はしねえよ。そんな体力も残ってねえんだ」
「どうだか」イルヴァはまだ不信の目を向けたままだ。「オーウィンから全部聞いてんだよ、こっちは」
「勘弁してくれよ……」
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ありがたいことに、入れ替わりに船員が入ってきて、ふたりのための船室の用意ができたと教えてくれた。
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