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2章

38、二歳の公主、行方不明事件

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 『まつりごとすは、なおもくするがごとし』という言葉がある。韓非子という昔の思想家が言った言葉だ。
 
 政治をするのは髪の毛を洗うようなもので、少しは抜け毛があっても、よい毛を生やすためには必要である――少数の悪人を罰するのは、多数の良民を安泰にするためだ、という意味である。
 
 当晋国とうしんこくの人々は髪が長い。
 お風呂に入って髪を洗い、乾かすのも一苦労だ。髪だって抜ける。
 「大変でも、みんなお風呂に入ろうね! 朕も政治がんばるから! わっしょい!」と、当晋国とうしんこくの皇帝は呼びかけている。

 ――当晋国とうしんこくは、沐浴を推奨している国なのだ。

 そんなわけで、お風呂である。
 
 浴場は、いわゆる半露天だ。
 床が濡れていて滑りやすくて、油断すると転びそう。
 竹製の衝立てに囲まれた陶器のお風呂は、瑠璃に似た美しさだ。
 湯は透明で、濫家の治める東南地区から運ばせた『従化温泉』という炭酸泉。
 風が吹くと白い湯けむりが流されて、吹いた先に溜まる様子は、風情がある。

「さあ、大事なお仕事ですよ、みんな!」
「はーい!」

 侍女団が腕まくりして張り切る中、紺紺はハッとした。
 お仕事をがんばって『あの子、仕事するのね』と思ってもらう好機だ!

 紺紺は張り切った。

 まず、物をいっぱい運ぶ! 力仕事、得意です!
 
「はーいっ! 私、湯桶運びします! 拭き布もまとめて運びますよ~っ!」
「まあ。力持ちね」

 そして、湯に浮いたゴミや抜け毛を集めて捨てる。微妙に汚い感じがして嫌がられるお仕事だ。

「はーいっ! 私がやります! やりたいですーっ!」
「助かるわ。でも、そんなに楽しそうにする仕事かしら?」

 あとは、元気いっぱいの杏杏シンシン公主のお相手。
 
「私、公主様のお着替えをお手伝いします!」
「気をつけて! すぐ逃げちゃうから……あっ、公主様! 真っ裸で走っちゃいけませんっ!」
「捕まえました!」

 それに、妃の体を洗ったり按摩あんましたり香湯を塗るお仕事!
 
「私がお体を洗わせていただきます!」
「あなた、なんでもやりたがるのね。元気ね……!?」
「誰よ、あの子が仕事しないって言ったの。人の何倍も働くじゃない」

 雨萱ユイシェンと一緒になって彰鈴シャオリン妃のお世話をしていると、隣の陶器風呂で桃瑚タオフー妃が「ふーん」と見ている。妃のお膝には杏杏シンシン公主がいて、きゃっきゃと笑っていた。
 杏杏《シンシン》公主は「おかあちゃま、だいすき!」って目で桃瑚タオフー妃を見上げている。
 
「ねえねえ、ぎょかえん」
杏杏シンシン、お母ちゃんはぎょかえんちゃうで」
「かんじゃし」
「かんじゃしでもない」
 
 ほんわかとした母子の会話に、紺紺は自分の母を思い出しそうになった。
 そこに、彰鈴シャオリン妃が声をかけてくる。
 
「たくさんお仕事してくださってありがとう。疲れていませんか?」
「ぜんぜん疲れてません! 私はお仕事をすればするほど元気になります!」
「まあ。ふふふ……気を使わせてしまって、ごめんなさいね」
 
 彰鈴シャオリン妃は、紺紺がどうして頑張っているのかわかったのだ。
 申し訳なさそうな表情を見て、紺紺はやる気を増した。
 
「お任せください、彰鈴シャオリン妃! もう悪いようには言わせませんから!」
 
 紺紺が彰鈴シャオリン妃の脚を丹念に洗っていると、彰鈴シャオリン妃は丸薬入りの壺から一粒を飲み、「あなたもどうぞ」と紺紺に飲ませた。
 
彰鈴シャオリン妃、これは体身香たいしんこうですね」
「ふふっ、正解ですわ。みんなで一緒にいい匂いになりましょう♪」
 
 体身香たいしんこうは、丁子、麝香、霊陵香、青木香、甘松、桂皮などを粉末にして練り、丸めた香薬だ。
 一日に十二個飲むことで、体臭が芳香になる。美容にも良いので、良家の子女は常備薬にしている者も多いのだ。
  
「侍女用の浴場もあるから、あとでお使いなさい」
「はい! ありがとうございます!」

 * * *

 お風呂の後は、宴会だ。

 東領は川や海の幸に恵まれている。温暖な気候で米の産地でもあるため、米を材料とした料理も多い。

 東坡肉トンポーロー(豚の角煮)、八宝菜、スープ入りの肉饅頭。
 粕漬けにした鶏肉の蒸し物に、揚げた麩とシイタケ、タケノコなどの甘辛煮。
 両面黄(かた焼きそば)に、 薄切りの餅炒めに、薄切りの餅炒め。
 真っ赤でつやつやの茹で蟹も!

「いい匂いー!」
「見た目も華やか!」

 紹興酒を飲み交わし、妃たちはいつしか夫談義や怪談を始めていた。
 自分たちだけでなく、料理を運ぶ侍女にも「飲めや食えや」と勧めての、賑やかな夕餉だ。
 
「主上は女好きでちょっとお馬鹿やけど、そこがええねん。わかりやすいのが信用できるっちゅーか。隠し事ばかりで本心がわからない殿方より、安心よ」
「そういえば、侍女が教えてくれたのですが、御花園ぎょかえんでお爺さんと幽霊さんが喧嘩してるという怪談があるのですわ」
「あっはは。なんやそれぇ。なんで後宮の御花園ぎょかえんでお爺さんと幽霊さんが喧嘩すんねん! ういー、ひっく」

 やがて、妃たちが立ち上がり、いそいそと外に出る。
 宮殿内の厨房から大皿盛りの蟹と五段重ねの蒸篭せいろを運んできた紺紺は、「あれっ」と思った。

雨萱ユイシェン様。お二人はどちらに行かれるんです?」
「紺紺さん、そんなにお料理持って平然としてて、すごいわね……」
「私、ものを運ぶのが得意です!」
「そうなの。お妃様は、肝試しをすると仰せよ。たぶん無理だと思うけど」

 なんと酔っぱらった妃たちは御花園ぎょかえんで肝試ししようとしているらしい。
 しかし、宮殿の外側で門を守る宮正きゅうせいの宦官は、「許可できません」と妃たちに毅然とした態度だ。
 先日、皇帝が「宮正は皇帝の臣であり、妃の臣ではない」と言い聞かせたのが効いている。

「俺たちは主上の臣であり……、んっ? 小娘?」

 上級妃二人を相手に堂々と弁舌を奮っていた宦官が、ふと紺紺を見る。
 
「あっ、楊釗ヤンショウ様」
「ちょうどいい。会ったらこれをやろうと思ってたんだ。やる」
 
 楊釗ヤンショウはそう言って、爪紅の小瓶を取り出して贈ってくれた。

「わあ、ありがとうございます」
「ふん。この前、俺の爪を褒めていただろう……!」

 頬から耳までを赤らめて顔を背ける楊釗ヤンショウに、妃たちが「おやおやぁ?」「まあ!」とはしゃぎだす。

「むっふふ。顔が茹で蟹みたいやで、宦官さん? 好きなんか~? 惚れてるんか~?」
「いつの間にか贈り物をもらう仲になりましたの?」

 侍女も一緒になってきゃあきゃあと声を響かせて、延禧宮えんききゅうの門は大騒ぎとなった。

「ええい、妃の方々は宮殿内にお戻りくださいっ」

 楊釗ヤンショウは、真っ赤になって吠えた。
 あっ、顔を手で隠してる。

 二人の妃は、扇で顔を隠すのも忘れて「ふぅぅん♪」「まあー♪」とニヤニヤしている。

「宦官が厳しくなってもうたーちぇー」
「まあまあ、そろそろ眠くなってきたなと思っていたところなのですわ。それに、あんまり人の恋路をお相手の目の前で弄っちゃいけません、くすくす……お兄様にもこれくらい可愛げがあればいいですのに」

 二人の妃が諦めた頃、事件は起きた。

「大変です。杏杏シンシン公主がいらっしゃいません……!」

 なんと、二歳の杏杏シンシン公主が行方不明になったのだ。
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