水音が紡ぐ恋歌

あげいも

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第一章

水底の泡

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 午後の講義が終わった後。
 以前、三春と出かける前に翠と話した場所へと訪れた。あの時と同じように石を手にして祈るように目を閉じる。
 周囲の木々の葉擦れの音が、ぴたりと止んだ。世界から音が消えたような静寂。ゆっくりと目を開くと、そこには翠の姿があった。
「あれ……」
 服が違う。三春が選んだ服ではなく、和服──最初に出逢った時の服装だ。
 髪は短いままなのだが。呆然と瞬きする遠夜に、翠は緩く首を傾げた。
「どうかしたか?」
「あ、ううん。服……どうしたの?」
 まさか。三春の服も「主様への貢物」にしてしまったのだろうか。
 眉が情けなく下がり、視線は足元の土に落ちた。爪が食い込むほど、強く拳を握りしめる。
「この方が動きやすい」
「……そう、なんだ」
 昨日のことを思い出して声がかすれた。怪訝そうな目に慌てて姿勢をただす。深呼吸した後、口を開いた。
「あの、翠さん!……言って、おきたいことがあって」
 思ったよりも大きな声が出て、自分でも驚いて肩が震えた。
「えっと……あのね。昨日の帰りにもちょっと話したけど。翠さんにとっては、主様が絶対で……他の事はどうでもいいのかも知れないけれど」
 一度言葉を区切る。視線を彷徨わせたところで、動きを止めた。見開かれた視線の先──
「……っ──!」
 声にならない悲鳴。あの『黒い影』がそこにいた。不定形の塊。顔なんてないはずなのに、向けられた視線にとらわれてしまうような感覚。
 黒い塊が自分に指を伸ばすより早く。翠が割って入った。
 静かに翠が指を伸ばす。掌を影へと向け、口を開いた。自分には理解出来ない音の羅列。だが、『黒い影』にはそうではないらしい。
 耳の奥を掻きむしられるような不快音が響き、ぬめる冷気が肌を這った。鉄錆のような匂いが一瞬漂ったかと思うと──翠の指に触れるより早く、影は断末魔の叫びを残して消えていった。
 固まったままの遠夜の目の前で、理解を超えた光景が、瞬きする間に完結していた。
 初めての時は目を閉じていたから、翠が何をしたのかは分からないままだった。今、目の前で行われたこと。
 形は違えど、命を奪うという行為そのもの。
「……遠夜?」
 翠の声に我に返る。自分へと伸ばされる指に反射的に後ろに下がってしまう。
「……ぁ……ごめん、なさい」
 今更体が震えだす。がたがたと音を立てる歯を落ち着かせることが出来なくて、その場に座り込んでしまった。
 ただ震え竦む遠夜を見て、翠もその場に膝をついた。
「遠夜」
 びくりと顔を上げると、翠の顔が目の前にある。色を変える目は、今はただ穏やかな光を湛えて凪いでいる。
「君は今、折り重なった波のようだ」
 伸びてきた指が頬に触れる。ひやりとした感触はあの時から変わらない──
 指の動きが止まる。静かだった翠の目が大きく揺らいだ。
「…………遠夜?」
 ぼろぼろと涙があふれてくる。とめたくてもとまらない。ひたすらに手で拭いながら、胸が詰まり、酸素を求めるようにひくりと息を吸い込む。
「ごめ、なさい……俺、……」
 ごめんなさい、と唇が動く。何に対して謝っているのか、もう分からなかった。助かったはずなのに、身体の震えが止まらない。怖いのに、翠の気配がすぐそばにあることに、どこか安心してしまっている自分もいる。
 ぐちゃぐちゃになった感情の行き場がなく、涙がぼろぼろと溢れて視界を歪ませた。
 嗚咽とともにただ詫びるだけの遠夜の後頭部へそっと手が添えられた。
「……家まで送ろう。今は何も言わなくていい」
 静かに抱き寄せられる。そこにあるはずの鼓動はない。耳に響くのは、清凉な水の流れる音。あの時の音。あの時の──
 遠夜の意識はそこで途切れた。

        ◇◇◇◇◇◇◇

 意識が戻った時。目に入ったのは見慣れた天井。
 ここが自分の部屋だと気づくまでの数秒。その後、飛び起きた。
「翠さん?!」
 思わず名を呼ぶが返事はない。周囲を見回しても、薄暗い部屋が時間の経過を知らせるばかりで、求めるものは何も目に入って来なかった。
「……俺、……」
 うなだれてしまう。肩を落とし、俯いた視線の先。唯一、違っていたものに気づいて指を伸ばす。
 三春が首から下げられるように加工してくれた輝石──淡い光を放っているようなそれが、自分の首にかけられていた。
 触れた指先から伝わる冷たさにまた涙があふれてしまう。
「……ごめん、なさい」
 石を強く握る。そのまま泣き疲れて眠りに落ちるまで。自分の嗚咽だけが響く部屋でうずくまっていた。
 
 泣きつかれた遠夜がベッドへと倒れ込むようにして寝落ちた後。部屋の空間がじわりと滲む。小さな水玉がするりと人形となり、翠のかたちを作った。
 視線の先にはベッドの上で寝落ちた遠夜。泣きはらした目も、頬に残る涙の痕もそのままに。時折、小さなしゃっくりのような呼吸をしながらも、目を覚ます気配はない。
 顔に落ちた前髪を払おうとしてやめる。僅かな刺激でも起こすことになるかもしれない。
「……なぜ、泣く」
 あの影を祓った自分に恐怖を覚えるのは理解出来る。山の獣たちが自分を見てこうべを垂れるのと同じように。生物として理解出来ないものに対しての畏怖を覚えるのは当然のことだ。
 だが。その後の感情の波が、翠には理解が及ばなかった。
 ──自分を見て怯え、震え、なおも謝るこの人間の心は、どうしてこうも掴めないのか。
 翠はしばらく目を閉じたまま動かない。
「人の心は……水よりも形を持たぬ」
 そう呟きながら、視線を遠夜に戻す。泣き疲れて眠るその姿は、あまりにも脆く、あまりにも優しい。

 どう接すればいいのか、答えは出ない。けれど、答えが出ないままでも──目の前から消すことだけはできない。

「主様の……残滓が消えるまで。今の世を学ぶまで」
 その声は、水の底から浮かんでは消える泡のように。形を持たぬ心と同じく、掴まぬまま、静かに溶けていった。
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