カクテルの紡ぐ恋歌(うた)

弦巻耀

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第五章 ブルーラグーンの戸惑い

梅雨時の憂鬱(2)

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 日垣さんの、奥様の、代理

 小坂の奇妙な提案に、彼は何と答えるのだろう。美紗は一人、身を固くした。耳がそばたつ一方で、日垣のほうを見ることができない。

「それって、タダ飯食えるんすか? 大使館の?」

 日垣の言葉より先に聞こえてきたのは、食い意地の張った1等空尉の声だった。

「しかもフランス! めっちゃうまそう! 僕行きたいです!」
「うちの部長の『奥様代理』に男がついてってどうすんだ」
「きっと変な誤解招いちゃうわねえ」

 宮崎が再びオネエ言葉で茶々を入れると、下世話なジョークで盛り上がる若手と彼らを叱りつける班長の松永の声で、「直轄ジマ」はますます騒がしくなった。
 その様子を、美紗はぼんやりと見つめていた。

 レセプション、つまり、立食形式のパーティでは、大勢の関係者が一堂に会し大半の時間を自由に歓談して過ごす。二人連れで出席したとしても、当の二人で落ち着いて話す時間など全くない。
 それでも、パートナーの肩書で第1部長に同行することは、あまりにも意味深なシチュエーションに感じられる。


「じゃあ、うちの鈴置でも連れて行きます? 鈴置、今週金曜の夜、何か予定あるか?」

 松永の声に、美紗ははっと顔を上げた。身体中に緊張が走り、「ありません」と答えるのが、一瞬遅れた。

「隠れ蓑代わりの奥さん役なら、もう少し年長の経験豊かな人間のほうが、やりやすいんじゃないですかね」

 佐伯が、ひょろりと細長い上半身を伸ばして、総務課のほうを見た。日垣と松永も佐伯の視線を追う。

 「直轄ジマ」よりよほど粛々とした空気に包まれた総務課では、スラリと背の高い女性職員が、圧倒的な存在感を放っていた。

「文書班長の吉谷女史あたりなら、どんな事態にも対応できますよ。彼女はフランス語も流暢だそうですから、連れて行く理由もできますし。何より、……近寄り難い雰囲気なのが、今回の場合はうってつけかと思いますけど」

 最後のほうは声が小さくなった佐伯は、吉谷と目が合いそうになって慌てて首をすくめた。「確かにな」と呟く松永の傍らで、日垣は黙って佇んでいた。その姿勢の良い立ち姿を、美紗はそっとうかがい見た。
 彼は、じっと、吉谷綾子のほうを眺めている。口元にわずかに笑みを浮かべているように見えるのは、気のせいなのか。

「吉谷女史は、子供がいるから、夜は難しいんじゃないかな……」

 高峰が口ひげから手を離し、眉を寄せた。美紗は、言葉を発しようとして、急に息が詰まるのを感じた。私がご一緒します、と言ったら、周囲にはどう思われるだろう。レセプションに同行するだけのことに、何か深読みをするほど、みんな暇ではないはずだ。
 意を決したその時、小坂が、ガキ大将のごとく口を横に広げ、白い歯を見せた。

「8部でフランス語できる人を連れてったらどうです? 例えば……、あの子。見た目もちょっと迫力あるし、日垣1佐のことお気に入りだそうですから、きっと喜んで行きますよ」

 美紗は、開きかけた口を閉じ、思わず右隣の3等海佐を凝視した。早口で話す彼の言葉の後半部分が、頭の中でエコーする。

「ええっと、名前なんだったかなあ。ほら、ちょっと丸っこくて、声大きくて、結構ケバくて、胸がこうバーンとデカい……」
「そういう言い方やめろ」

 松永が睨みつけると、あやうく品のないジェスチャーを見せそうになった小坂は、胸のところに持ってきた両手を慌ててひっこめた。

「もしかして、大須賀おおすがさん?」

 片桐が口だけ動かすように囁くと、小坂は数回ほど小さく頷いた。

「なんでそんなこと知ってんすか?」
「情報収集はオレの得意分野だ。なにしろ情報局勤めだからな」
「うちに着任して、まだ四カ月じゃないですか」

 気心知れた仲の片桐と話す時だけ一人称が「オレ」になる小坂は、急にニヤニヤと顔を崩した。その横で、高峰が回覧中の部内誌をくるくると丸め始めたが、無駄話に興じる二人はそれに全く気付かず、ひそひそと軽々しい話を続けた。

「実はさあ、この間オレ、彼女にちょっと声かけたんだ」
「マジすか。何て?」
「まあ……、『メシおごるから一緒行かない?』みたいな。そしたら、『アタシ、日垣1佐みたいな人が好みだから、ゴメンナサイ』って、あっさり断られちった」
「いろんな意味で日垣1佐とは正反対っすからね、小坂3佐は」
「お前、しばくぞっ」

 半分笑いながら声を大きくした小坂に、丸めた雑誌の一撃が飛んできた。

「何をくだらんこと言ってんだ。さっさとやることやらんかっ」

 珍しく声を荒げた高峰は、続けて片桐の頭を叩き、大きなため息をついた。さすがに縮こまる二人に、「シマ」の他のメンバーが苦笑する。
 しかし、美紗は笑うどころではなかった。普段、仕事上の接点がない第8部に所属する女性陣の顔を、必死に思い出していた。

 地域担当部は、それぞれ、主に分析業務を担当するセクションと、電波や画像などの特殊情報を扱うセクションに、大きく二分されている。第8部のうち、前者に所属する女性職員は、確か四、五名ほどだった。
 後者は、第1部が入る棟とは別の、秘匿性の高いエリアに指定された建物の中にあるため、そこに立ち入るクリアランスを持たない美紗には、状況は全く分からない。以前に誤って紛れ込んだ極秘会議も、その建物の地下で行われたのだが、その時も、会議関係者以外の姿は全く見かけなかった。

 誰だろう。とにかく、日垣貴仁に興味を抱く女性が、彼の行動範囲内に存在することは、間違いない。


「あのっ」

 美紗は、書類に目をやりながら自分の背後を歩き過ぎようとする上官を、やっとのことで呼び止めた。日垣は、その小さな声を聞き漏らすことなく、背をかがめて美紗を見た。

「さっきの、レセプションは……」
「あれはいいんだ。個人的なことで、不愉快な現場に付き合わせるわけにはいかないから」

 端正な顔立ちが、穏やかに笑いかける。別に構わないから連れて行ってほしい、と言うわけにもいかず、美紗は唇を噛んだ。もう少し適切な言葉はないかと焦る。

 その間に、日垣は、
「それに、若い鈴置さんが私の奥さん役では、あまりに可哀想だ」
 と苦笑いして、そのまま部長室のほうへ歩いて行ってしまった。
 

 美紗の胸の中で、何かが飛び回っているような、焦燥感にも似た不快な感覚が、にわかに広がっていった。
 それが、「奥様代理」という役を掴み損ねたせいなのか、それとも、突然「ライバル」の存在を聞かされてしまったせいなのか、自分でも分からなかった。


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