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メタバース関連

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メタバース倫理的問題の設定資料


(1)【地球内から発生した超自然能力を人為的に律することを怠った感情を誘発してしまう事からくるメタバース由来の人間の危険性】


 現実世界が過去から既にメタバースといった形で存在していたとしたら。もしも大自然といったものが、自然に社会と融け込んだメタバースであるならばといったところから今回は切り込んでみよう。


 そこに『叡智(えいち)』が『テレパシー』と共に繁栄していき拡大した場合、叡智の可能性よりもテレパシーの欲の悦楽などが優先されて感覚器官が感覚テレパシーで汚染されてしまう。その反動で自分や相手の心を閉じ込めたり、その閉じこもった視野の狭い愛情で個々や全体の本来の健康な恋愛や愛情を汚してしまう。心は言葉を大事にすることで健康を保てるのである。会話の言葉とは人をけなすために用意されているものでは本来無い。テレパシー有意の共存性は心と心を感覚的に念の願掛けで不用意にくっつけたり、またそれら全般の個人個人の感情や気持ちを大事に出来ない軽率な行動に出始める。恋愛の誤魔化しだけでなく愛情さえもお金や悦楽などの欲で誤魔化されてしまう。誤魔化しある空っぽの愛情から、愛情の絡みの不順な心になったりすることは本当の落ち着く世界とはかけ離れてしまう。それは日常の安心した生活が危機を迎えるのも時間の問題である。だから叡智からの共存性からいつか生じる共有テレパシーをそう簡単にSEX感覚に繋げるのは不健康なのである。それによって世界を強引に展開させると、人類皆兄弟愛からなる悦楽と共存性からの究極快楽天国テレパシー世界が出来てしまう。だから叡智といったものはテレパシーとは極力、距離を置いた方が良い。相手が結婚してるかしてないかも叡智の自然に属したメタバース空間ではバレてしまう。バレることに特に問題が無い様こともあるでしょうが、そこには危惧する倫理観が関係してくる。叡智とは詰まるところ試すよりその人を調べる事。試すといった行為はその人の器を知ることになるが、その人の本質を知るのであれば、その人の本質が例えみみっちい本質であれ、調べるといったことはその人の器以上の情報や知恵や知識を素で知ることになる。けれど、調べるのも大半終わったらそれ以上はプライベートを考慮してその質問自体を辞めるべきである。


(2)【実在するならばメタバース天国の根拠=】


空間的にテレパシーとして世界が天国のようになってしまうので隠し事が出来ず、上手く隠してもストレスなどがその行為によって溜まり、全体のバランスを保つために多くの八つ当たり専用の人柱といった人物がかならず作為的にも無作為的にもでてきてしまう。つまりテレパシーを求めると現実での意識のはけ口の肥溜めが必ず必用になってきて、いじめの起因にさえなる危険度も備えているのがテレパシーの備わった叡智メタバースなのである。それを人様の心の繋がりとして求めすぎると危険因子の人格障害テレパシーの誕生である。叡智とは過去のアボリジニなどの超自然能力とも関連があるので危険なのである。科学で超自然能力が徹底的に解明されて完全に制御できたら話しは別だが。科学で完全に制御できないならばテレパシーの肥溜めである人柱は必須になってくるのでそれが嫌なら聖人の様に心の悟りを迎えなければ未来では単なる思考妨害なのである。


(3)【頭の中の擬似的メタバース】


幻聴が作り出す人間の頭脳の中の仮想空間は擬似的な音声と映像の世界で擬人化された人々や人の声が聞える事もあるという。それは脳の中で生じた存在達が次々と超能力に属した感覚的テレパシーを持ち始めた場合、そこには全体の統率がとれていないから何処からか勘に頼る脳の部位が出来てしまう。その部位が擬似的な超能力やテレパシーを生じさせているのである。それは社会全体のメタバースでは無く、個人間の擬似的メタバース空間としての論拠なのである。つまり、そこに人物などを認められてしまう恐れがあるのである。脳の部位の一部なのか、脳の部位の全体なのか? それは表裏一体であり、自然の中のメタバース空間とは隔たりがあるのである。脳の部位の全体だった場合、全員が超能力を使える。脳の部位の一部だった場合一部の人が超能力者になる。超能力者は自分と対等なパワーを良い意味でも悪い意味でも永遠に与える仕組みが素質にある。その理由は超能力とは時間さえも越えることが出来てしまう可能性があるからである。

理由は幻聴を流したものはそれを聞いた本人と同じ幻聴の苦しみを過去現在未来において感じる事を超能力を使えてしまう時空時間において出来るからである。だから、超能力で快感を感じたりしたものはそれと同等のつらい不快感や苦しみを地獄よりましだとおもえるくらい、または思えないくらい苦しむことが超能力者の必然的罰である。だから一般人には心まで影響を与えてはならない。快感、悦楽関連は超能力では相反する苦しみを同等に与え感じなければ違犯である。超能力者とは宇宙の歴史上いつ出来たか謎であるメタバース由来である。そのメタバース由来の超能力とは苦しむことなくして快感などは得られないし、それ以上にそれら超能力者は一般人に戻った方が、健康的な日常の常識を伴った上でも快感や悦楽や爽快感やそれ以上に可能性に満ちた気持ち良い生きた心地を得られるのである。


ここで言いたいのは、脳の中のメタバースと地球からなるメタバースの違いである。


仮にメタバース地球、その上で数人の一般人の脳の一部を覚醒させてから超能力者を数人出してみるとする。ちやほやされたり怖がられる。

そこでもし、脳内に同じことが起きていた場合、地球上でのメタバース世界との共通項のある、環境が整うであろうか? 答えはNoに限り無く近い。それは脳内のメタバース意識空間と、地球上でのメタバース空間とでは人々の価値観や会話に接点はあっても、どちらも違う会話をしているから。一方では社会常識の会話。片方では夢の中の様な会話。


つまり空間が擬似的であるか、空間が本物であるかによって会話に常識があるかが問われるのが本物の世界だ。


まとめで言うと、あらゆる事の議論のテーマに幻聴からの選択の歯止めが極端にあると時代に隔たりがある。あってもそこは現実空間なのか疑う余地があるのである。


そういった幻世界に入ってしまった場合、そこが現実なのか疑ってみよう。社会常識が既に構築されていて、その世の中の秩序を守ろうとしている人が多い社会が本物の世界なのである。例えマイホームのプライベートだとしても。罰は時間の観念と共に区分けを時代ごとにする方が賢明である。


超能力とはメタバース由来であり、正しさを子供の視点で使うとその先の未来は超能力の暴走した世界になるのである。

    
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