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古文書か!

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ミレーユママ若き日の伝言

天国の考案書 no.001


(1)欲と本能と理性の歪みの章

若いうちはインパクトや刺激にこだわる事に悩む事もあるけれど、素直に認められたらそれは照れ臭くても良い事だし、ゆっくり考えてみるのも落ち着けるから大事。焦り気味のわたくしだけど。

なぜなら生きている事は精一杯の楽しみであるからそれで良いと思える。快感は生きものには大事だからそれも良いと思えるし、それゆえに性にもてあそばれる事だって若さゆえの特権だが、荒い仕打ちもそこは必要不可欠であり、そこには試練を克復した感覚によどみが残る事もあれば爽快感が残る場合もある。それは自ずを省みて自分の日常の生活度を記憶から呼び覚ませれば人間の本能と理性と煩悩の側面である事柄から正しい欲や理性は本質的なところから出るものであると分かってくる。

だけれど、歳月を経て思う事は、私の経験上、確かなことはない。欲といっても正しく生きるといった面を考慮する事であるわけだしさ。それは心の支えとして生きる事を大事だと思えたならば自然な気持ちとして必要不可欠だしさ。そう言って誰しもが心の源にある日々の生活の中で、歪ませられた性欲のはけ口になり、社会生活において、けなされたみじめな事情により、ストレスなどから判断力が鈍り、何が正しいかわからなくなる事もあるでしょう。それと理性と本能の区別に気付かなくなる事もあるだろうけれどね。それがきっかけで本能と理性が歪み始める事もあるのだし。その場合愛情や落ち着きが何だか分からなくなり、死の恐怖も分からないくらい性欲に溺れてしまったらいよいよ理性の出番だ。自分の心を体験を受け入れられない治療を受け入れていくような試練も一時的には欲に負けた場合はあり得るしあっている。その時その時やっていることが一番自分の充実していることだと思えたらそこから平和な爽快感を得られることは素晴らしい。


(2)個人の欲と素朴な愛情の卵

生命の身体などは表面上は風土の空気で包み込まれると、いつからか真実の愛らしい心に変化する。だけれどその愛情などの中核を持ちすぎない事が大事になる。なぜならそれは人などはその愛情に触れられ易くなると、心に大海の様な愛情が生じ、その様な成果を出す様を幸せの積み重なった日本では無関心でありながらも健常な愛情時代の社会期間とも感じ取れるからです。

つまり人間などに必要なのは自分の心には優しさを感じ、人の心には愛情を感じる事。
そこに無理矢理、言葉の真意から来る心の中を探る事は他者には発言せず、発言したとしても考慮して、他者には判断の鼻を効かせない様にする事が健常な精神性です。ただしそれが必須なのは幽霊がいた場合です。幽霊とは今まで律する事を苦手としていたのだったら判断力に乏しいからです。
もし幽霊がいるのであればその存在達を消滅させない為に律する精神が大事になるからです。もし、幽霊がいないのであればその所作は必要なくなるのです。
幽霊はもし人に余計になる程、判断力を軽んじて存在していた場合、人に迷惑をかけてしまう恐れがあるからです。

幽霊がいた場合のみに言える事ですが、何故そうしなければいけないかと言いますと、人間が根本的に生まれる以前から生じた、心から生じる愛に、異常さと健全さを見極めなければならないからです。それは人に影響力を与える幽霊がいた場合にのみ言える事です。

それは外界からの幸せを閉ざし易い常態になるだろう。だが、その様な生活感が、より、自分の幸せを認める心の卵の様な期間で、みんな殻に閉じこもり、ほっこりするのである。自己や個人を最優先する、させる感覚でじんわり優しさや心地好さを感じ取り、それを日常の幸せと見なして、人それぞれ、と自分や他者に適度な距離をおき色々な生命に必要不可欠な壁を認め易くなるからです。それが個々の健常な精神性を生むからです。

他人に対する優しさは嬉しい事だし、世界の平和、地域の平和に繋がるが、後々誤解を生んだりストレスを伴うので、優しさとは自分の心の中で育み見せない事が大事になってきます。
自分に優しい言葉や考え方を持つのも、自分への優しさであり、愛情の偽りの無さである。誰かに厳しい発言をするのはストレスの発散でもあるし、相手と自分の判断力を言葉によって交換する事でもある。
判断力を鈍らせる愛情とは本当の愛情では無いのである。そこに判断力がある理由は生命の経験に命としての記憶の仕組みから生じた判断力である。感覚以上、仕組み未満のものである。
それで最後まで納得するのも良し。それが個人だけでは無く、世界平和への優しい気持ちの在り方なのかなと思える。優しさとは他者に認める事ではないのかもしれません。優しさとは自分に対して褒めてあげる為の感情かもしれません。そしてもし他者にあげるものがあるならばそれは愛情でしょう。

それとは対象的に、外界からの刺激を具体的に優しさの形として求め、論拠に拘りすぎると、思考のパターンに陥り易いし、愛情の奈落にはまりやすい。

ーー他者への優しさとは、うっすらとオブラートに包む心と行動力の優しさも大事だが、それもいっときで欲に変わり易い。

優しさはあまり考えすぎないのは元より、与えすぎない、見せすぎない方が良く、何事も決めつける事がいきすぎにならない常態が大事。

それと、愛情とは思考の習慣が付くと異性の軽さ重さを重要視した感情を抱く事などが大事になる。その思考の習慣を軽んじない事が良好な精神状態であるし、その事に理性を感じ易くなれば自分が人として優しいものだと思える。

それは発想の自由さは行動の制限で生じるからである。
そこで本当の理由の無いような愛情が生まれる。

何故ならば、それは愛情といった感情のたかぶりを心と行動力の軽さで誤魔化さない事になるから。
優しさとはたかぶる事だけが優しさじゃない。本当の優しさとはたかぶる事だけではない。
個人を中心として、何事も判断をして、それを意識的にも無意識的にも心の壁を分配するのが本当の優しさであり、愛情の根元である。

優しいとは愛情でもあるが、自分が優しい人と気付くのは割りと難しい様で簡単なのである。

だが若いうちは優しさが相手に行動や発言や心で伝わらない事にもどかしさを感じ、気付きにくいので、攻撃に転嫁し易い。

だから愛情は難しいのである。

心は見えない、見えずらい、聞こえない方が良い、普通の優しさが大事なのである。


(3)自然な愛と作られた愛の分類


 現代社会において、常識ある人間は素朴な愛を心に秘めた人間に憧れるといった、普通の感情の素質、資質に落ち着く事が一番の幸せ。
 だけれど旅行という逃避行に憧れるといった、旅をしない者から考えれば必要以上の願望を持ち合わせてもいるのが今の人間である。それが、普遍的に大事な人としての常識観であるのなら、私は時代の時代錯誤の様な私の考えの価値観を納得できる形にとり、こう考えました。

 提案であるのですが、世界が東京ドームなどのドーム型の特大世界施設、更に特大盤の町、街、港などであり、歴史上の時代時代をモチーフとした世界思想から出来た幾つもの建設ドーム世界であったならば、生活は面白くなるだろうと思います。

 いつの時代も自然な世界で、思考の常識の流れは土地に依存する。その様な世界観が人間として、人としての相応しい世界観かもしれない。人生を旅から判断するものや心の旅から判断するものには腑に落ちるものでもあるかもしれない。その考え方は社会的に治安が安定する愛情のある土地でなければならない。愛情とは普遍的であるものであるし、色々な特大施設ドームがあっても秩序の安定する時代錯誤世界がなければならない。
 人、国、領域、団体、などで捉え方が多少変わってくるのであるのかな? と思われる。その愛情の本質を国々や自分の価値観に照らし合わせ、コンタクトレンズのようにフィットした価値観をいずれ自分の目で観る時代がやってくるだろう。

 今までの世界の歴史を史実だとして観ながらも、ドーム世界のこれからの歴史を峠とみなしながらも。

 その色々な歴史のレプリカドームなどを観ていながらも、その人その人が、その時代、その領域の演出された物語の世界観で居そうな人格の種を持ち合わせ、その性格も持ち合わせた人物でもあり、その時代その時代の四大苦というあえて足かせを着けている。

 それぞれの領域内のルールに則した種を得て重厚な音楽の掛かるその世界で、皆が皆、いそうな人物になり始め、その発想で、至極理論的に納得がいくものであれば良い。

 それは書物からアイディアを貰い、世に生みでた世界かもしれない。現実的その不思議な完成世界を描いた人物も沢山いるだろう。それがいつかできる日も近い。
 常識からの登場人物と存在する人物の精神性の平等にはドームの集団の中に愛情の意味や望遠鏡にてコンタクトの星を観るレンズの様に、光を集められて広い世界を悠然と観る小集団の愛情の意味が、いつからか人格として備えられたのが、これからも続く世界であり、発展していく世界でもある。

 そこの土地は人物や知的生命体の社会でもある。そこから派生したものは個人に属するものや団体に属するものの社会常識のルールといった制限があるにも関わらず、個性とし独特なものを生み出している。その独特さとは人数に比例して薄まるものでもある。そこは触れずに感じ取るものでもあるから、分かりづらく色々なことを思ったりするから、考えあぐねたり、疲れて考えるのを止める、そこで漫然とした気持ちからゆとりにいくか不安にいくかその人の思考パターンに終始する。

 そこから派生したものは、自然の愛情としてゆっくりと常識の中で一般的感覚に溶け込んで行くのである。

 そういった思考の趣が色々な性格やその人のいる世界観の由来に結び付くのである。
 それ以降の時代背景により、養殖の愛情に取って代わるまで自然には何かと魅力があったし、そういった愛情には未来永劫触れすぎに注意しなくては愛情の愛情たる所以に価値がなくなってしまう。

 そういった事柄は、心地の良し悪しに関係なく、自然な愛である。対してそれに欠点があるならば、脅かす形が、一般的知識である。自然な愛由来の欠点は、型にはまることを嫌う傾向があることである。それは情報過多で本来の天然素質が歪んだ時、直せる価値、自分に溶け込ませられる知識なら仕組みとして尊重出来るが、それが出来ても出来なくても、努力してきた自然な愛を育む人生観で物事は決めたりもするものであるから、本来の素質、資質に重きをおくべきで、尊重したい情報や愛の価値観でもある。愛とは与えられたものに傲慢になるでもなく、卑下するでもなく、自分の本質や本音やしっかりと努力していくものが本当の自他共に認める人間愛と世界観だろうね。
 ドーム上の国々の愛を明確にしておかない美徳もどこかで感じたりする事はあるとしよう。それは健康的な考え方を律する心ではあるが、愛や情けの育まれた生活で、そこに混沌とした感覚を入れて仕舞うより、常識的固定観念の想像力を入れることこそが相応しいからである。
 そのドーム世界で自然な発想としての永久な正しさをどう貫いていけるか? 人々などは優しさを含んだ心でその世界を見守っていられるのか? それに思いを馳せるのが知的生命体としての本当の楽しみだろうね。そこで溺愛に埋まってしまうものは自分が欲深いとして、その立場は重んじ生きる事。一般的には常識を重んじ傷付き易くなる時があっても、強く優しい人になれる時も、それならばあるのだろうよ。昔ながらの世界観ではなく、自然の中でドーム上の不思議な世界観あり。

 そこに新しく世界を摸倣するなら、愛と天然由来の、大自然以上の愛と養殖のように強い世界観があれば良い。

 という心を膨らませつつ、けれど個別だけではない世界になれば良いね。

 そこに日常的な判断悪しき愛の実りの過多なマイペースをぶち込む欲の塊にならないには、ドーム上でマイペースの情操教育期間に緊張を意識させない立場からの、そのドームの世界の心持ちを大事にすること。
 だから外の世界に余計な鼻を効かせない事も大事になってくる。心と心には触れるに触れられない、触れちゃならない、暖かな心や自然体への憧れと自分の中にある資質と素質を大事にする事が世界を大事にするマイペースの良いところだろうね。知識や知恵のあるものの心に愛としての心の天然と養殖はあるのだろうか? 
 あくまでも煮えきらない安定感からの憧れの夢にまで見た真実の愛は世間一般で必須である。ドーム世界が構築された後は旅をしないのも必須である。

 日常に生活の平凡さを普通に感じられる生き方とは、常日頃から健康な精神を感じられる生活習慣にあるでしょう。一般の人々は、日常の快感や爽快感からくる落ち着いた気持ちの良い日々に、色々な心の自由度を広げられる生活があるし、その健康的生活に気付かせてくれる一般常識の感覚力もある。

 だから誰しも欲により世論が歪んだ時はドーム事の一般人の常識の心が重宝するのである。



(4)大人と子供のルール

 勝つ事とは自分等なりのグループの正しさも貫こうとした土地に住まう人物達のルールである。
 だから勝つ事を持って律する気持ちも大事だろう。その勝敗に拘る事と負けた事を認め貫く意志を意思の丸みに変えて、健康的に気持ちを抱く事が勝負する結果に対しての判断力の本能とも思われるし、日常に自分なりの勝負を設定して心のルールを理性とも持ちながら、多種多様の勝負の勝敗に分かれる人間や物事の柔軟な姿勢に重きを置き、勝負そのものをもっとバランス良く育ませていく事に楽しみを見いだせる価値観が何処かにはあるのだろう。それは個別に生じた1つ1つの国々の文化にあらゆる固定された価値をつぎこむ事になり、迷いだした迷走する彷徨う精神(幽霊)をしまうといった原点回帰を持つ事は本能的ではあるけれど、理性の心は育まれる基礎的な観念になるし、人間やその他の存在も育てていく。が、それは大きく分けて二通りの考え方がある。子供としての点から点の飛躍的な発想も瞬発力はあるのだが、それは思い付きであるので、大人としては感覚に誤魔化されない過ぎない、隙のなさも程々に持った方が安定感がある。点から点の間には、経験に裏打ちされた進歩と退きの互換性を求める事が無闇に答えや応じる事を求め過ぎない健康な世界に通じる。

(5)普遍の思想と荒療治からの天国の草案

 悪しき欲とは地球の発展する事ばかりに思いが行く事への、図りかねる喜びである。本来は温故知新に礼儀を軽んじてしまった為に、荒れた学問全般の狂ってしまう様な厳しい現実の末路である。本来なら本の力とは本当に心が傷付いたもの、生死の恐怖の境を彷徨っている時に克復する信念の治療法だ。

 悪しき昔ながらの風習とは本来、本の力の治療法に知的好奇心や性的好奇心などの欲を本に重んじてしまった結果、それに興じたものは置き去りにされてしまう事を考えなかった、活字離れの時代を仕舞う事である。だから個人の価値観と時間は荒療治よりも本の修了した後は認め大事にしなくてはならない。私が言うのも何だが物事は爽やかに良い見方をしなけばならないし、正しい見方を大好きになる事が一番である。自由度を保ちつつも、一番は生きる上で、もしくは亡くなった後でさえも、意識があるならば、と仮定するような突飛した気持ちは、本来ならその病的な発想の常態から正しさを取り戻す事である。そう言った正しい行いが心の普遍性あるものに進歩していく、心や身体を健康的に促すのである気がする。その一時的に病的な発想を改めて健常者に提唱し、そこからの指針で企業やスポンサー方々に草案の在り方を改めて構成していただき、天国とは建設的であり、広い判断力でもあれば、突飛だがそれ相応の天国などの草案も健全なのである。

 仮説と想定案だが、生命本来の生きている新鮮さを感じられる事は天国の凛界都市を中心にしての都市建設の重要性を指し示している。律する事を重んじた天国という街の中心の都市では天国の区々やその風土らしい建築物、神のいそうな塔があって、そこは死んだものの憩いの草花の生える小川の流れる世界でもあれば穏やかな世界だろう。ドーム型やドームレンズ型のテーマタウンが世界に誕生するならば、一番には大地に根ざした物理的に建築物でなければならないかもしれない。

 これから出来るであろう世界。

それは建設物である天国や地獄の創造的空間であり、生きているものが死んでいるものへの一端の世界への区切りになりますが、想い出づくりの出来る空間でもありますので、死後は見たり感じたりは、ほぼ想像でしか出来ないかな、といった場合もある。それはなぜ想像でしか見られない事が多いのかというと、死者は身体がなく霊感といった能力が高いと憶測がたつ為である。身体がない理由は人間側からみれば霊感に似た類いの超能力などや、それに属する日本独特の察しの意気すぎた能力などではいずれ表に現れてくるかもしれない本の力にある。そういった意気すぎた能力は無用の長物であり、それらを成長や進歩と捉えても、未知の世界に行くステップとしては不満が残る領域が、日本のみならず世界の領域でも必ず出てくる。
 だから、能力系に属した幽霊側からみれば霊感を退化の類いとして捉えられなければ、幽霊界(あった場合)の異端児達の様々の能力によって、臆病な人間の性質を軽んじてしまう世界が出来てしまうだろう。結局のところ大事なのは健康的に霊感を落とし、そういった事情を進歩する退化と呼ばなくては、幽霊は人間と接点を持つのは奇怪な現象の手段でしかなく、意表を突いて幻の存在でなくてはならない時代を人間は知らなくてはならない。それは生きているものへの天国への扉の通過儀礼が物語を読んだ日に必ず体験しているからである。一生のうちに何度もある人が大半だ。

 それは人間や幽霊は、会った時に過去の想い出にシュミレーションしすぎない事で哀れみの愛情が育まれる。幽霊達はシュミレーションなくては長い歳月のうちに、優しさや哀れみの感情を、心を失くしてしまうし、友好関係は普通の生活では共通する対話手段無くては、それまでの宗教の意味は跡形もなく無くなるし、本能からの性欲などに自分の存在意義を見失ってしまうし、人同士が男女の壁をいとも簡単に混同して個性や団体などから生まれる多様な価値を潰してしまう。日常の楽しさを知っているもの達にとっては、ある意味、つまらない世界になりかねない。死に直面するという大きな辛さを、優しさからの易しさに変える計画が天国と地獄とテーマタウンなのである。

 幽霊との対話。それは固定された未来と、これからの自由だけれど、霊感を伴わない事の体質の者たちは、幽霊がいた場合、未知との対話になるし、その場合、科学に重きを置き、文明に新たな改革を見いだした時が、世界の精神文化の発展を更に促す時期である。それ以降、物理的に建物などの建設文化が社会で構築される事で、天国のタウンパーク内では幽霊(が、いた場合)は話ができる世界が発生する時代が来るだろう。それは科学の始まりからの建設文化が出来あがった時である。それは建築文化に精神文化が幽霊と適応出来た場合の価値観の世界である。

 幽霊とは別の地球や知的生命体のいる惑星や衛生に、似た生命が他から来た場合、生きた別個の似た故人の価値観を失わずにいる為でもある。生きる事で亡くなる事は、心の持ちようや、全ての生命のからだの形ではあるので安定感の無いものではある。が、考え始めたら存在はそれらにて自由な発想でいいし、そこには一般的に全ての愛情で包まれた日常的な感覚としての存在が必須である。その自由な信念の発想、幽霊の所在は気持ち良いこと柄にこだわりすぎると判断力が鈍り普遍的な意味を見失ってしまう。新しい時代の憩いの天国である凛界都市。そこらに存在するそのもの達は感覚分野で日々の生活に則して判断材料にしなくてはならない者達もいるが、得てして死者たち等の憩いの場なので、性格や人格まで無理矢理変える必要は無いのである。

(6)未完成と完成の現実と天国への判断材料

自由としての正しさには、完成と未完成を感じられる事に価値がある。なので現実と足して天国があるならば、その関連性は未完成で欠けた点には溝や付け足しはあるかもしれないが、その欠けているかもしれない点を無暗に軽んじない気持ちは大きな事。正しさと共に必須である事は、天国であっても日常生活が大事だと思える心であり、死の意味を決して軽んじない事。天国があるならばそこにいく前に努力を怠らないで、そこに対応出来る心を持てば良いのだろう。もしもその天国が無ければ、誰かが建設的に創れば良い。それを大きな事に思いながら、他の惑星にいられる場所がある事は、ある意味幸せものである。天国の良し悪しの設定計画の草案になりそうなアイディアは人それぞれの世界の体験や気持ちの交流や、心の旅がその最初の機転のイメージになる。そのイメージは経験として色々と積んでいくものでもありますし、経過としてそれは必要不可欠なものでもある。天国、それは健全でなければ本当に成し得てはならないものであります。

愛情が本末転倒になってしまうようではいけないのです。惑星や衛生には本来の優しい形の世界の天国があり、本当の楽園の思想である天国は日常の尊重があり健康的な精神やからだも必要なのかもしれないのですーー
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