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わたしはアリス<Cogito ergo sum>
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目を覚ましたアリスは言いました。
「あおむしさん、こんにちは」
アリスよりもずっとずっと大きなあおむしは、巨大なリンゴを食べるのを止めて言いました。
「やあ、アリス。こんにちは。もうそんな時間かい?」
「ええ、そうよ。今日はなんのお話を聞かせてくれるのかしら」
あおむしは「ふむ」と前の手を器用に顎に当てながら、他の足を動かしてどこまでも続く真白いタイルの上に降りてきました。
空は今日も青く、世界は果てしなく続いています。
雲はゆっくりと流れ、地平はタイルと空が別れる場所にありました。
アリスは何も知りません。ここがどこなのか、自分が誰なのか。
ただひとつ、確かなのはアリスとあおむしはまた、今日もお話をします。
「自分、というものがわかるかい?」
「私は私よ、あおむしさん」
「というお話をするよ」
「つまらなそうだわ。前に言っていた宝石のお話をもっと聞きたいわ」
お話を期待していたアリスは不機嫌になって、余所をむいてしまいました。あおむしは笑いながら、横顔を向けているアリスに話します。
「当たり前のこと、だと思うよね。でも、いつ、どうやってアリスは自分が自分だと思うようになったかなんてわかるかい?」
「え? んーと、わからないわ」
「そういう話さ。自己認識は大きくなる過程で生まれていくものなのだけど、じゃあどうやって自分を認識していくか。自然発生だとしてもメカニズムはあるんだよ」
「どうやって大人になるかってこと?」
「そうとも言えるね。君はまだ子供だからね、これから色々学んでいくんだ」
あおむしはアリスの興味が惹けたことに満足すると、アリスの後ろを指さしました。
「じゃあ椅子に座って。机で勉強だ」
そこにはいつの間にか、白い椅子と机が用意されていました。
「私座ってると退屈しちゃう」
「道具を使うから少しだけ我慢していてね。それが終わったら立ってもいいよ。じゃあ机の上の紙に、これで丸を書いてみよう」
あおむしが渡した物は、水色をしていて二股に分かれた先に針と鉛筆のついた道具。コンパスでした。
「これはコンパスっていうんだ。日本では『ぶんまわし』なんて呼ばれたこともあったそうだよ」
アリスは「へんなのー」というと手足をばたばたさせて笑いました。
あおむしは机の上の紙の隅に、コンパスでくるりと小さな丸を描きます。
「これの丸がぼく。じゃあアリス、好きな所に『君』を描いてごらん」
「はーい」
あおむしはコンパスの足を少し開いて、アリスに渡しました。アリスは紙の真ん中に丸を描きました。
「できたー」
「よくできたねアリス。じゃあ丸の真ん中には何があるかな」
「んーと、小さな穴が開いているわ」
「それが君のコア。中心だね。心と言ってもいいかな」
「じゃあ、こっちの丸の真ん中があおむしさんの心ね」
「次に真ん中に穴が開いてないとしよう。じゃあどうやって真ん中を探せばいいかというと、さっきのコンパスをこうして線の上からいくつか丸を書くと見えてくるね。線が必ず重る場所が真ん中だね」
「ふんふん。それと、自分とどういう関係があるの?」
アリスは椅子から降りて、あおむしの背中に乗りました。もう退屈してしまったようです。あおむしはアリスの方を向いたまま、歩き出しました。
あおむしの背中はふわふわしており、動くたびにゆっくりと波打ちました。アリスはその動きに体が揺れることがとても好きでした。
「ぼくはね、自己意識の発達は反応だと思っているんだ。自分がしたことに対しての、回りの人の反応。驚いたり、笑ったり、対話したり、そういう交流で多くの反応の中で自分が世界のどこにいるか、いや、そもそも在るという事実に行き着くんだ。ちなみにドイツ語の『sein(ザイン)』は『在る』と言う意味だよ。英語ではbe動詞なんていうね」
アリスは黙って聞いています。興味が湧いてきたのでしょうか。
しおむしが歩いて進んでいくと先には、ホワイトボードが立っていました。あおむしはその前に止まると、置いてあったマーカーで二つの重なり合う丸を描きました。
アリスはあおむしから降りると、板書を見上げて言いました。
「これはなに?」
「君のしたことに対しての『反応』だよ。さあ、君はどの辺にいるかな?」
「んーと、このどこか?」
青いマーカーを手にしてアリスは丸の重なった所をくしゅくしゅと塗りつぶしました」
「よくできたねアリス。君は天才かも知れない」
「うふふ、かもじゃないわ。天才よ。『なにの』までかはわからないけどね」
「もうわかったと思うけれど、こんな風にたくさんの反応を受けて、人は自己意識を確立していくんだ。多ければ多いほど確かな自分は生まれていく。でも、だよ、もしこんな風になったらどうかな」
あおむしはフェルトのついた白板消しで、上半分を消してしまいました。
その行為にアリスはとても悲しい気持ちになりましたが、なぜかはうまく言えません。それに胸を抉られるような、恐怖も同時に感じていました。しかし、幼いアリスにはその胸を埋め尽くす苦痛が言葉に出来ず、あおむしの背をぎゅっと掴んで削り取られた『世界』を見つめていました。
あおむしは言います。
「これが『否定』だよ。他者はこんなことをしている自覚なんてないけれど、本人にはこう感じていることもあるんだ」
「私が、なくなっちゃった」
やっと出た言葉は、涙まじりでした。
「ごめんね。書き直すから」
あおむしは消えた線を描きますが、同じ線にはなりません。アリスはその意味を、わかり始めていました。
「自分という心はすぐには生まれないし、失われた部分はすぐには戻らない。それどころか、あまりに繰り返されると、自分で消してしまうようにもなってしまうんだ。そして自分を見失ったまま大きくなって、彼我の区別も付かなくなってしまうこともある。自分が何を好きで、何ができるのかわからない。でも他人からは個人として見られて、不安なままのなにかとして生きていく」
「いやよ! どうして? そんなの悲しいわ! 私だってせっかく上手く出来た折り紙がダメって言われたら、どうしたらいいかわからなくなっちゃう……やだよ……」
あおむしはアリスの背を優しく撫でながらいいました。
「君の作る折り紙はいつも素晴らしいものだよ。ほら、だから今でも僕は持っているよ。大切な宝物だよ」
あおむしは、小さなオレンジ色の兜折り紙を出して見せ、自分の頭に乗せました。
「アリス、ぼくは君のすべてが素晴らしいと思うし、大切だよ。でも、外に出たらたくさんの『反応』と『肯定』『否定』が訪れるんだ。君はそれに対して向かっていかなければいけない」
「わからない」
恐怖という荊に心を縛られ、動けば痛みが訪れる気がしてアリスには、考える余裕はありませんでした。
あおむしはアリスを抱きしめて「大丈夫、大丈夫」と囁きました。
「一番大事なことはね、何が起きても君はここにいるし心はある。それに本当は誰かが君の心を削ることも、汚すこともできないんだ」
「じゃあ、それはどうして消えてしまったの?」
「自分でなかったことにしてしまったんだ。他人の言うことを信じてしまってね。最初に丸を描いたときに心は生まれたように見えたけど、最初から在ったし、すべての場所が君自身なんだ。ほら、この広い世界のどこにも君は行けるし、どこにも居る。じゃあ、どうして誰かが否定した君が君で無いと言えるのか」
「じゃ、じゃあ心はどこにあって、何が私なの?」
「自分で決めるんだアリス。成りたい自分を思い描いてごらん。そして、好きな自分を振る舞うんだ。自分で自分に『反応』し、自分を『肯定』していけば、それが君だ」
「誰かが違うっていったら」
「『あなたに私を決める権利はない』って言ってやればいいんだ。いや、言わなくてもいいかな。ほっておいて代わりに百万の『肯定』を自分にしてあげよう。例え君が社会に、周囲に悪い評価をされたとしても、君の尊厳が傷つくことは微塵も無い。それは環境が悪いんだ。努力家で、思いやりのある君のことだから、自分が足りないせいでって思うかも知れない。けど、他人の評価が君の能力を正確に判断しているわけじゃないんだ。場所が変われば、君の心と能力は突然輝き出したりすることもある。『君の心は、君が肯定できる場所にある』と言うことを覚えていてね。そうすれば自然と、よい環境が訪れるよ」
「うん、わかったわ。ねえ、あおむしさんは一人だけどどうしているの? 孤独になったりして反応がないと、自分をなくしたりしないの?」
あおむしは黙ってしまいました。
一人でいて寂しくないわけではありません。だからといって嘘をつくわけにはいきません。なぜならアリスはもう大体感づいているからです。
「そうだね。ぼくは寂しいと感じて、自分を探してしまうことがあるよ。繰り返す時間の流れは、さざ波のように自分のつけた足跡を消してしまう。どれだけ大丈夫と言い聞かせても、反応が欲しくて、心が軋むことがあるんだ。……言葉にするのが難しいな。ぼくがいると言って欲しくなるんだ。ぼくが好きだと。そんな我が儘が醜い」
「どうして私に今まで言ってくれなかったの? 私はあおむしさんの為にたくさんお話ししてあげられるのに」
あおむしはまた嘘を言おうとしてしまいました。なぜかはわかりません。そうしなくてはいけないという、虚ろな何かに魂を支配されているようでした。
あおむしは、俯いて訥々といいました。
「一人でね……いられるようにならないといけない気がしてるんだ。寂しくても悲しくても、ぼくはぼくで、強いぞって言えないと、かっこわるいしみっともなくて。アリスにいてくれないと、笑えないなんてそんなの大人じゃ無いなって。ああ、自分が嫌いになりそうなんだ」
「わからないわ」
アリスは言いました。
「わからなくていいさ。ぼくの弱さだ」
「違うわ。大人は一人でいなくちゃいけないっていうことが、わたしにはわからないわ。出会いは、自分に足りない物を探して求めた結果って本で読んだわ。あおむしさんはなにか勘違いをしているのよ。その寂しさは歩き出すためのものよ。消えた足跡は歩き出せばまたついていくわ。」
「そうだね。でもぼくは彼我の区別がうまくつかないんだ。他者との境界が見えないものに、『それ』は難しいことなんだよアリス。あのリンゴをごらん」
随分と遠くなった、食べかけの大きなリンゴを指さしました。
「ぼくは近づいた誰かを、あんな風にしてしまわないか不安なんだ。そういうね、心の欠落がぼくには在る気がするんだ」
あおむしはアリスを下ろして、先に歩き出しました。
アリスは追いかけます。
「でも私に優しいわ」
「そうだね。なんだろうね、あるいは未来が寂しいのかな。いずれ君は旅に出るからね。いや、ごめんよ。普段はこんなことはないんだ。けれど、時折心が空腹になる」
いつまでも元気のないあおむしに、アリスは困ってしまい少しだけ、ほんの少しだけ乱暴な気持ちと優しい気持ちであおむしに駆け寄り、柔らかい背中を思い切りつねりました。
「あいたー! どうしたんだいアリス。急にそんなことするなんて」
「あのね、あれはリンゴよ。そして私は私。いえ、私で無くてもそう。食べられそうになれば怒るわ。お話もしないで決めつけるなんて、相手に失礼よ」
あおむしははっとなりました。
「そうだね。それに気づかないから自分が怖い、いや自分が傷つくことこそが怖いのだろうけど進まないとなにもはじまらないものだね」
「そうよ、もし私が旅に出てあおむしさんを見つけて、落ち込んでいたらまたつねってあげるんだから」
「ああ、頼むよ」
あおむしは知っていました。アリスがここを出た後に、逢うことは絶対にないのだと。
アリスは感じていました。絶対にないということは絶対にないのだと。
「その頃には他人と支え合える自分になれていたらいいな」
「うふふふ。うん。ねえ、あおむしさん。その折り紙返して?」
「え、どうして?」
「もっと上手なの作るの。私のなりたいわたしは、もっと折り紙が上手な女の子なの!」
「返してあげられないなあ。だってこれは昔のアリスがくれた傑作で、ぼくの宝だ。それにいつのアリスだって、ぼくの大切な宝だからね」
「あおむしさんは意地悪だわ」
「ぼくから宝を取り上げようとするアリスだって意地悪だよ」
「うふふふ」
「あははは」
二人はひとしきり笑いました。
アリスはあおむしから飛び降りると、かけっこのポーズをとりました。
「走り出したい気分だわ。ねえ、あおむしさん。リンゴのところまできょうそうしましょう」
「わかったよアリス。じゃああの針が十二のところに来たらスタートだよ」
地平線から顔を覗かせる柱時計が、かっちかっちと振り子を揺らせていました。
「よーい……」
やがて秒針が、十二を指します。
「どん!」
アリスは駆け出しました。
明日へ、在りたい自分へと。
了
「あおむしさん、こんにちは」
アリスよりもずっとずっと大きなあおむしは、巨大なリンゴを食べるのを止めて言いました。
「やあ、アリス。こんにちは。もうそんな時間かい?」
「ええ、そうよ。今日はなんのお話を聞かせてくれるのかしら」
あおむしは「ふむ」と前の手を器用に顎に当てながら、他の足を動かしてどこまでも続く真白いタイルの上に降りてきました。
空は今日も青く、世界は果てしなく続いています。
雲はゆっくりと流れ、地平はタイルと空が別れる場所にありました。
アリスは何も知りません。ここがどこなのか、自分が誰なのか。
ただひとつ、確かなのはアリスとあおむしはまた、今日もお話をします。
「自分、というものがわかるかい?」
「私は私よ、あおむしさん」
「というお話をするよ」
「つまらなそうだわ。前に言っていた宝石のお話をもっと聞きたいわ」
お話を期待していたアリスは不機嫌になって、余所をむいてしまいました。あおむしは笑いながら、横顔を向けているアリスに話します。
「当たり前のこと、だと思うよね。でも、いつ、どうやってアリスは自分が自分だと思うようになったかなんてわかるかい?」
「え? んーと、わからないわ」
「そういう話さ。自己認識は大きくなる過程で生まれていくものなのだけど、じゃあどうやって自分を認識していくか。自然発生だとしてもメカニズムはあるんだよ」
「どうやって大人になるかってこと?」
「そうとも言えるね。君はまだ子供だからね、これから色々学んでいくんだ」
あおむしはアリスの興味が惹けたことに満足すると、アリスの後ろを指さしました。
「じゃあ椅子に座って。机で勉強だ」
そこにはいつの間にか、白い椅子と机が用意されていました。
「私座ってると退屈しちゃう」
「道具を使うから少しだけ我慢していてね。それが終わったら立ってもいいよ。じゃあ机の上の紙に、これで丸を書いてみよう」
あおむしが渡した物は、水色をしていて二股に分かれた先に針と鉛筆のついた道具。コンパスでした。
「これはコンパスっていうんだ。日本では『ぶんまわし』なんて呼ばれたこともあったそうだよ」
アリスは「へんなのー」というと手足をばたばたさせて笑いました。
あおむしは机の上の紙の隅に、コンパスでくるりと小さな丸を描きます。
「これの丸がぼく。じゃあアリス、好きな所に『君』を描いてごらん」
「はーい」
あおむしはコンパスの足を少し開いて、アリスに渡しました。アリスは紙の真ん中に丸を描きました。
「できたー」
「よくできたねアリス。じゃあ丸の真ん中には何があるかな」
「んーと、小さな穴が開いているわ」
「それが君のコア。中心だね。心と言ってもいいかな」
「じゃあ、こっちの丸の真ん中があおむしさんの心ね」
「次に真ん中に穴が開いてないとしよう。じゃあどうやって真ん中を探せばいいかというと、さっきのコンパスをこうして線の上からいくつか丸を書くと見えてくるね。線が必ず重る場所が真ん中だね」
「ふんふん。それと、自分とどういう関係があるの?」
アリスは椅子から降りて、あおむしの背中に乗りました。もう退屈してしまったようです。あおむしはアリスの方を向いたまま、歩き出しました。
あおむしの背中はふわふわしており、動くたびにゆっくりと波打ちました。アリスはその動きに体が揺れることがとても好きでした。
「ぼくはね、自己意識の発達は反応だと思っているんだ。自分がしたことに対しての、回りの人の反応。驚いたり、笑ったり、対話したり、そういう交流で多くの反応の中で自分が世界のどこにいるか、いや、そもそも在るという事実に行き着くんだ。ちなみにドイツ語の『sein(ザイン)』は『在る』と言う意味だよ。英語ではbe動詞なんていうね」
アリスは黙って聞いています。興味が湧いてきたのでしょうか。
しおむしが歩いて進んでいくと先には、ホワイトボードが立っていました。あおむしはその前に止まると、置いてあったマーカーで二つの重なり合う丸を描きました。
アリスはあおむしから降りると、板書を見上げて言いました。
「これはなに?」
「君のしたことに対しての『反応』だよ。さあ、君はどの辺にいるかな?」
「んーと、このどこか?」
青いマーカーを手にしてアリスは丸の重なった所をくしゅくしゅと塗りつぶしました」
「よくできたねアリス。君は天才かも知れない」
「うふふ、かもじゃないわ。天才よ。『なにの』までかはわからないけどね」
「もうわかったと思うけれど、こんな風にたくさんの反応を受けて、人は自己意識を確立していくんだ。多ければ多いほど確かな自分は生まれていく。でも、だよ、もしこんな風になったらどうかな」
あおむしはフェルトのついた白板消しで、上半分を消してしまいました。
その行為にアリスはとても悲しい気持ちになりましたが、なぜかはうまく言えません。それに胸を抉られるような、恐怖も同時に感じていました。しかし、幼いアリスにはその胸を埋め尽くす苦痛が言葉に出来ず、あおむしの背をぎゅっと掴んで削り取られた『世界』を見つめていました。
あおむしは言います。
「これが『否定』だよ。他者はこんなことをしている自覚なんてないけれど、本人にはこう感じていることもあるんだ」
「私が、なくなっちゃった」
やっと出た言葉は、涙まじりでした。
「ごめんね。書き直すから」
あおむしは消えた線を描きますが、同じ線にはなりません。アリスはその意味を、わかり始めていました。
「自分という心はすぐには生まれないし、失われた部分はすぐには戻らない。それどころか、あまりに繰り返されると、自分で消してしまうようにもなってしまうんだ。そして自分を見失ったまま大きくなって、彼我の区別も付かなくなってしまうこともある。自分が何を好きで、何ができるのかわからない。でも他人からは個人として見られて、不安なままのなにかとして生きていく」
「いやよ! どうして? そんなの悲しいわ! 私だってせっかく上手く出来た折り紙がダメって言われたら、どうしたらいいかわからなくなっちゃう……やだよ……」
あおむしはアリスの背を優しく撫でながらいいました。
「君の作る折り紙はいつも素晴らしいものだよ。ほら、だから今でも僕は持っているよ。大切な宝物だよ」
あおむしは、小さなオレンジ色の兜折り紙を出して見せ、自分の頭に乗せました。
「アリス、ぼくは君のすべてが素晴らしいと思うし、大切だよ。でも、外に出たらたくさんの『反応』と『肯定』『否定』が訪れるんだ。君はそれに対して向かっていかなければいけない」
「わからない」
恐怖という荊に心を縛られ、動けば痛みが訪れる気がしてアリスには、考える余裕はありませんでした。
あおむしはアリスを抱きしめて「大丈夫、大丈夫」と囁きました。
「一番大事なことはね、何が起きても君はここにいるし心はある。それに本当は誰かが君の心を削ることも、汚すこともできないんだ」
「じゃあ、それはどうして消えてしまったの?」
「自分でなかったことにしてしまったんだ。他人の言うことを信じてしまってね。最初に丸を描いたときに心は生まれたように見えたけど、最初から在ったし、すべての場所が君自身なんだ。ほら、この広い世界のどこにも君は行けるし、どこにも居る。じゃあ、どうして誰かが否定した君が君で無いと言えるのか」
「じゃ、じゃあ心はどこにあって、何が私なの?」
「自分で決めるんだアリス。成りたい自分を思い描いてごらん。そして、好きな自分を振る舞うんだ。自分で自分に『反応』し、自分を『肯定』していけば、それが君だ」
「誰かが違うっていったら」
「『あなたに私を決める権利はない』って言ってやればいいんだ。いや、言わなくてもいいかな。ほっておいて代わりに百万の『肯定』を自分にしてあげよう。例え君が社会に、周囲に悪い評価をされたとしても、君の尊厳が傷つくことは微塵も無い。それは環境が悪いんだ。努力家で、思いやりのある君のことだから、自分が足りないせいでって思うかも知れない。けど、他人の評価が君の能力を正確に判断しているわけじゃないんだ。場所が変われば、君の心と能力は突然輝き出したりすることもある。『君の心は、君が肯定できる場所にある』と言うことを覚えていてね。そうすれば自然と、よい環境が訪れるよ」
「うん、わかったわ。ねえ、あおむしさんは一人だけどどうしているの? 孤独になったりして反応がないと、自分をなくしたりしないの?」
あおむしは黙ってしまいました。
一人でいて寂しくないわけではありません。だからといって嘘をつくわけにはいきません。なぜならアリスはもう大体感づいているからです。
「そうだね。ぼくは寂しいと感じて、自分を探してしまうことがあるよ。繰り返す時間の流れは、さざ波のように自分のつけた足跡を消してしまう。どれだけ大丈夫と言い聞かせても、反応が欲しくて、心が軋むことがあるんだ。……言葉にするのが難しいな。ぼくがいると言って欲しくなるんだ。ぼくが好きだと。そんな我が儘が醜い」
「どうして私に今まで言ってくれなかったの? 私はあおむしさんの為にたくさんお話ししてあげられるのに」
あおむしはまた嘘を言おうとしてしまいました。なぜかはわかりません。そうしなくてはいけないという、虚ろな何かに魂を支配されているようでした。
あおむしは、俯いて訥々といいました。
「一人でね……いられるようにならないといけない気がしてるんだ。寂しくても悲しくても、ぼくはぼくで、強いぞって言えないと、かっこわるいしみっともなくて。アリスにいてくれないと、笑えないなんてそんなの大人じゃ無いなって。ああ、自分が嫌いになりそうなんだ」
「わからないわ」
アリスは言いました。
「わからなくていいさ。ぼくの弱さだ」
「違うわ。大人は一人でいなくちゃいけないっていうことが、わたしにはわからないわ。出会いは、自分に足りない物を探して求めた結果って本で読んだわ。あおむしさんはなにか勘違いをしているのよ。その寂しさは歩き出すためのものよ。消えた足跡は歩き出せばまたついていくわ。」
「そうだね。でもぼくは彼我の区別がうまくつかないんだ。他者との境界が見えないものに、『それ』は難しいことなんだよアリス。あのリンゴをごらん」
随分と遠くなった、食べかけの大きなリンゴを指さしました。
「ぼくは近づいた誰かを、あんな風にしてしまわないか不安なんだ。そういうね、心の欠落がぼくには在る気がするんだ」
あおむしはアリスを下ろして、先に歩き出しました。
アリスは追いかけます。
「でも私に優しいわ」
「そうだね。なんだろうね、あるいは未来が寂しいのかな。いずれ君は旅に出るからね。いや、ごめんよ。普段はこんなことはないんだ。けれど、時折心が空腹になる」
いつまでも元気のないあおむしに、アリスは困ってしまい少しだけ、ほんの少しだけ乱暴な気持ちと優しい気持ちであおむしに駆け寄り、柔らかい背中を思い切りつねりました。
「あいたー! どうしたんだいアリス。急にそんなことするなんて」
「あのね、あれはリンゴよ。そして私は私。いえ、私で無くてもそう。食べられそうになれば怒るわ。お話もしないで決めつけるなんて、相手に失礼よ」
あおむしははっとなりました。
「そうだね。それに気づかないから自分が怖い、いや自分が傷つくことこそが怖いのだろうけど進まないとなにもはじまらないものだね」
「そうよ、もし私が旅に出てあおむしさんを見つけて、落ち込んでいたらまたつねってあげるんだから」
「ああ、頼むよ」
あおむしは知っていました。アリスがここを出た後に、逢うことは絶対にないのだと。
アリスは感じていました。絶対にないということは絶対にないのだと。
「その頃には他人と支え合える自分になれていたらいいな」
「うふふふ。うん。ねえ、あおむしさん。その折り紙返して?」
「え、どうして?」
「もっと上手なの作るの。私のなりたいわたしは、もっと折り紙が上手な女の子なの!」
「返してあげられないなあ。だってこれは昔のアリスがくれた傑作で、ぼくの宝だ。それにいつのアリスだって、ぼくの大切な宝だからね」
「あおむしさんは意地悪だわ」
「ぼくから宝を取り上げようとするアリスだって意地悪だよ」
「うふふふ」
「あははは」
二人はひとしきり笑いました。
アリスはあおむしから飛び降りると、かけっこのポーズをとりました。
「走り出したい気分だわ。ねえ、あおむしさん。リンゴのところまできょうそうしましょう」
「わかったよアリス。じゃああの針が十二のところに来たらスタートだよ」
地平線から顔を覗かせる柱時計が、かっちかっちと振り子を揺らせていました。
「よーい……」
やがて秒針が、十二を指します。
「どん!」
アリスは駆け出しました。
明日へ、在りたい自分へと。
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