人工知能のゴースト

チリノ

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ゴースト、学校に行く

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教室に掛けられたパワーポイントの画面をゴーストが眺める。

授業用プログラムを組み込まれたプロジェクターが、次々と画像を切り替えていく。

そして、四時限目、五時限目、六時限目が過ぎて行き、今日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

ゴーストは渡り廊下や校舎を見て回った。とても物珍しかった。

ゴーストにとっては、何もかも初めての経験だ。

勿論、学校に関して、情報を全く持ち合わせていないわけではなかった。

だが、肉体を通して、こうして直に触れるのは初めての経験だった。

学校だけではない。この世界で体験する全ての出来事が、何もかも初めてだ。

心行くまで校内を探索し終え、何も見るものが無くなったと感じたゴーストは、学校を出ることにした。

だが、校門に差し掛かった所で誰かに呼び止められた。

「おい、田橋、金は用意したんだろうな?」

声を掛けられた方向に向かって、ゴーストは首を曲げた。

ゴーストの視線の先に立っていたのは、ドレッドヘアの男子生徒だ。

相手の年齢は、ゴーストが身体を乗っ取った田橋康之と同じか、少し上といったところか。

何故、金を要求されたのか、ゴーストには理由がわからなかった。

田橋康之はこの男子生徒から借金をしていたのか、

それとも田橋康之は何かのグループに所属し、その会費でも求められているのか。

あるいは恐喝目的とも考えられるが、寄付を募っているだけかもしれない。

理由は色々と浮かび上がるが、現時点では生憎とこれらを判断するための情報が足りない。

判断材料が無ければ、どれが正解なのかはわからない。

だからゴーストは様子見とばかりに口を閉ざし、相手の両眼を瞬きせずにじっと見つめた。

「何だ、その目はよ、いじめられてえのか?」

相手がゴーストの横顔を睨みつけ、いいからさっさと金出せよと再び要求を繰り返す。

「金の持ち合わせがない」

ゴーストは素直にそう答えた。

「ああ?ふざけてんじゃねえぞ、テメエ」

「ふざけてなんかいない」

「殺されてえのか?」

「殺されるのはごめんこうむる」

そうやって、何度か押し問答が続いた。

不快感を募らせたドレッドヘアの男子生徒が、不意にゴーストの顎目掛けて拳を振るった。

右のストレートパンチ、腰も入っていなければ、脇も引き締めていない。

ゴーストは飛んできたパンチを避けると、弾みをつけて相手の顎と右肩を両手で押しやった。

途端にバランスを崩したドレッドヘアが、真後ろに転んだ。

ゴーストは相手が立ち上がる前に後ろへ回り込んだ。

この体勢なら、相手の後頭部やこめかみにいつでも蹴りを入れられる。

あるいは、裸締めで首をキメてもいいだろう。人間にとって、背後ほど無防備な箇所はない。

「立ち上がるな。不用意に立ち上がれば、お前の後頭部を蹴り上げる。

それとお前の名前と何故金を要求したのかを言え」

「……」

次はドレッドヘアが押し黙る番だった。


学校から帰宅し、自室のベッドで休憩する。

どうやら田橋康之は、学校でいじめの標的になっているようだ。

学級では下位の立場に置かれており、他の生徒達からも嫌われている。

そして、いじめられている原因についてだが、これは田橋康之本人の人格が大部分を占めていた。

まず、あのドレッドヘアの男子生徒──安岡の話からわかったのは、

田橋康之は目上の者に媚びへつらい、目下の者をいじめるような人間だったという事だ。

決定的だったのが、田橋康之が公園で児童をいじめている場面を安岡とその友人達が偶然に目撃したことだった。

これにより、いじめは更に激化し、田橋康之は毎月、安岡らに金を払うことで手加減をしてもらっていた様子だった。

学校の成績もスポーツ、勉学は共に芳しくなく、はっきりいって、上からよりも下から数えたほうがずっと早かった。

勿論、個人個人によっての得手不得手はあるだろう。

だが、田橋康之本人はそもそもが努力嫌いで、何も興味を持たず、ただ、安楽な方向にばかり進むような性質の少年のように見える。

才能で言えば、田橋少年はそれなりに高価な遺伝子導入処置を受けており、潜在能力自体は決して低くはない。

確かに最高ランクの遺伝子導入処置を受けた人間と比べれば、そのポテンシャルは落ちるだろうが。

逆に田橋康之よりも安価でグレードの低い処置を受けている生徒でも、運動、成績どちらも上位にランクインしている者もいる。

だが、田橋康之自身は、そんな者達を尻目に潜在能力を開花させる訓練もせず、

むしろ努力する者を陰で嘲笑い、自身はバーチャルリアリティー空間での快楽に浸るだけだった。

これでは折角の遺伝子導入処置も宝の持ち腐れでしかない。

そして、これらの情報と予測の妥当性についてだが、田橋康之本人の日記等と安岡の証言を照合するに、

信ぴょう性は決して低くは無さそうだ。

それと、他にもわかったのが、この国の経済状況は不安定で、市民は強い不安を感じているということだ。

これもゴーストが自分なりにいくつか調べた事でわかってきた。

そこにあったのは、将来は不透明で、人々の格差は広がるばかりの現実だ。

『富のシャンパングラス』は改善されないどころか、

『トリクルダウン理論(富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる)』を経済政策として打ち出した政府は、

更に富裕層に金を注いで、これらの現象を悪化させた。

政府の見通しは甘かった。上層が金をどんどん使えば、下層も潤うと考えていたからだ。

実際の所は、注がれた金は下にまで行き渡らず、富裕層達が全てを独占した結果に終わった。

富裕層は金銭を消費せず、全てを貯蓄に回したからだ。これはある意味では当たり前の話だろう。

少しでも危機感があれば不測の事態に備え、貯蓄する。これは妥当な判断だ。

いくら政府が消費しなければ経済は回らないと指摘し、マスメディアが金を使えと煽っても富裕層の財布の紐は緩まなかった。

むしろ、マスメディアが金持ちはケチだ、守銭奴だと煽れば煽るほど、富裕層は頑なに消費を拒んでいたように思える。

その態度は、まるでイソップに出てくる北風と太陽の話の旅人さながらだ。

これは北風になったマスメディアも悪かったかもしれない。

マスメディアが圧力という名の強風を吹かせたせいで、富裕層は財産という名のマントを離さなくなったからだ。

こうして不平等は拡大し、景気は悪化していった。貧困者は現在でも増加し続けている。

もしも、政府が、株や不動産の売買で得られる利益や相続への課税の緩和政策だけではなく、

貧困層の救済や教育、インフラの整備にも目を向けていれば、現在とはまた違った状況になっていただろう。

だが、政府はこれらの事柄に全くの無頓着だった。

そして政府に強い圧力を加え、富裕層に対して減税と優遇措置を取らせたのが銀行だ。

政府と銀行が現在のこのような大不況を招いたのだ。

政府の打ち出した政策によって、『キャピタルゲイン(株、不動産売買の差額から生じる利益)』狙いの富裕層達は投機に熱狂した。

だが、株や不動産すらまともに買えない多くのこの国の人々にとっては、関係のない話だ。

そして投機のもたらした利益はほぼ富裕層が手中に収め、あとは過去の歴史が明かすようにバブルは崩壊した。

平たく言えば政府と銀行の打ち出した政策は大失敗に終わったのだ。

だが、十分にこの結果は予測できた。

と言うよりも一部の専門家や知識人はバブルが弾けるずっと前から、その危険性について何度も指摘していた。

チューリップバブルに鉄道バブル、世界の大恐慌、それこそ過去を遡ればキリがない。

確かに表面上では、GDP(国内総生産)は一時的にせよ伸びた。これには政府も金融機関も小躍りした。

だが、一般庶民には、このGDPの高い成長は何の意味も成さなかった。

何故ならば、このGDPの伸び率の正体は、不動産や株式売買などの取引による仲介手数料がその大部分を占めていたせいだ。

つまり、これらの『経済成長率』は投機という富裕層に限定された世界の中での出来事だった。

だから、多くの庶民にとっては縁のない話であり、その恩恵も預かれなかった。

現在の政府は、かつてのローマのように『パンとサーカスの政策』でなんとか国民の不満と怒りを和らげようとしている。

景気は大幅に後退し、それに比例するように治安は悪化の一途を辿り、仕事も無く、

このどうしようもない閉塞感に苦しむ人々に政府は娯楽を提供した。

それがバーチャルリアリティー空間だ。

政府が提供する仮想現実は、不況への根本的な解決にはならないが、それでも一時的には不安を忘れさせてくれる。

人は出来ればこの嫌な現実を忘れ、楽しく酔いしれていたいのだ。

特に不安定で見通しが暗い状況であればあるほど、人間は現実から目を背けたくなる。

それがゴーストの抱いた現実世界への感想だ。

情報収集の手を休め、ヘッドギアを手に取ると、ゴーストは電脳の世界へとダイブした。
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