抱きしめて

麻実

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抱きしめて

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その朝、逹郎が出勤して行った後、居間の床に何か落ちていることに麻実は気が付いた。

「何かしら?」

膝を着いてまじまじと見つめ息を呑む。
「コンドーム・・」


逹郎が落として行ったのは間違いない。


今この家には、麻実と逹郎しか暮らしていないのだから。


「浮気? 不倫だわね」
麻実は呟く。

逹郎は五十をとうに過ぎている。麻実は四十半ばだが 、逹郎は息子が産まれてからずっと冷たかった。麻実の顔を見ることもなくいつも不機嫌な顔をしてる。

子供の頃、喘息の発作で苦しんだ麻実は結婚する頃にはすっかり元気になっていた。
けれども息子を産んでから、再び喘息に悩まされていた。その為、逹郎がどんどん麻実を構わなくなっても、家事と子育てでいっぱいいっぱいで何の手を打つことも出来なかった。
そんな思いをして育てた息子も、成人してこの家を出て行った。

なんとなく解っていたような気もするし、青天の霹靂のような気もする。

麻実はどう動いたらいいのかと思いながら、床に落ちているそれを見つめた。


しばらくして麻実は、逹郎の部屋に入った。
逹郎は同じような黒色の鞄を十も二十も持っている。どうしてこんなに必要なのかさっばりわからない。
そのうちのひとつを麻実は探った。

四年前、逹郎は一人で旅に行くと行って長野に出掛けた。鞄のひとつからその時の旅行の明細書が出てきた。
お二人様となっていた。道理で写真を撮らなかったといっていたわけだ。
別の鞄からは水色の封筒が出てきた。震える指で便箋を引き出す。

「たっちゃん、いつもいつも美味しい旅をありがとう。また、連れて行ってね。
                                                              智子」

女の名前は、智子、というのか。この文面からはもう何度も旅行に行っていることが読み取れた。ということは 二人の付き合いは5年か6年か・・。
「そんなに長い間・・」騙されていたの、という思いは声にならない。

あっさりと不倫の証拠を見つけた麻実は青ざめた顔で
逹郎の部屋を後にした。


その夜、麻実は躊躇いながらも
「不倫しているの?」
と聞いた。

「何の話? 君の顔、お義母さんそっくりだね」
と昨年亡くなった逹郎と折り合いの悪かった母のことを持ち出した。
おかしな事を言う逹郎に面食らいながらも麻実は言う。
「どうして母のことをいうの?私はあなたの話をしているんだけど?」
「鏡を視てみろよ。ほんとにそっくりでぞっとするよ!」
逹郎は延々と母のことを言い続けた。

不倫のことをすぐ認めて謝ってくれたら
夫婦としてやり直そう、と思っていた。
が、逹郎の思っても見なかった態度に 気持ちがす~~っと冷めていくのを感じた。
この人は誰? 
私を憎々しげに見つめる肥った初老の小男は誰?

麻実はこんな態度を取る男と結婚したことを心底後悔していた。



結局、何も聞き出せなかったが、智子という女が逹郎のことを逹ちゃんと呼び、二人が旅行に何度も行く程の間柄なことが解っている麻実は、もう逹郎の為に何もしたくなかった。

⭐⭐

逹郎には
麻実が
何故大騒ぎするのかわからない。

何も悪いことなんてしていないのに。

麻実に興味が無くなったのだから
好きにして何が悪いのだろう?

生活費は渡している。


気になるのは、智子の夫に知られて
会社に乗り込まれたらどうしようか、
それだけだったから。                                    

⭐⭐⭐

逹郎の長い年月の裏切りと
罪悪感の欠片もない対応に
打ちのめされた麻実だったが
女への対向心から頻繁に美容院へいったり、初めてエステへいったりと、自身を磨き始めた。

今まで家族を最優先して 
自分を後回しにしていたことが、なんの役にもたっていなかったことを思い知らされたのだから。


少しは鏡を見ることが楽しくなってきた
ある朝、右頬にぷっくりとした赤色の発疹を2つ見付けた。

「せっかく 綺麗になってきたのに顔におできなんて!」
麻実はひとりごちる。


麻実が住んでいる処は田舎なので 
皮膚科といってもたかが湿疹ひとつで
行くのは躊躇われるような大病院しかない。

そこで、麻実はネットで都心の皮膚科を探し、東京の個人クリニックを予約した。

「便利になったものね」
麻実はまたもやひとりごちるが
言葉をかえすものはいない。
達郎は 東京の会社に出勤しているし、
成人した息子はとっくに家を出ている。


あまり都心に出掛けない麻実は
自分がずっと田舎にいたばかりに
都会の洗練された女に達郎を奪われたとどうしても考えてしまう。

「たまには気晴らしに出掛けるわ」

クリニックに行く為だが、インドア派の麻実は 
きっかけがないと遠い東京に出掛けられない。

翌日、麻実は達郎が出勤した後、自分も東京に向かった。
駅までバスに乗り、一時間電車に揺られた。


都会の雑踏にくらくらしながらも
麻実は今 
南條クリニックの待合室にいた。
患者は誰もいない。


「帯状疱疹ですね」

「え?」

南條医師の言葉に、麻実は間の抜けた声を挙げた。

「帯状疱疹は片側だけに発疹が出来るんですよ」

そう言って南條医師は微笑んだ。


 30代後半だろうか? 引き締まった体躯が Yシャツの上からも判る。背も170以上ありそうだ。

160㎝ 80㎏の太鼓腹の逹郎を見馴れていた麻実は 
内心ドキドキする。

もう何十年もときめいていない自分に気づく。


「では1週間後にまた来てくださいね」
と言われ、クリニックを後にした。



⭐⭐⭐⭐


再び
南條クリニックにきた麻実だったが
夕方なのに今日も待合室に患者の姿はなかった。

受付の20代そこそこに見える女性に尋ねると
最近、近所に新しいクリニックが出来て、美人の女医さんなので患者をとられてしまったらしい。

「皮膚科は女医さんの方が人気があるの。予約すれば エステも出来るのよ。
実は私も通ってるの」
と、とんでもないことまで聞いてしまった。


若い彼女には
ハンサムな南條医師より自分が美しくなることの方が大事らしい。
当たり前だけど。

次いでに南條医師がバツイチであること迄 教えてくれた。


アプローチしたのは麻実の方からだった。

「あまり顔を観られないで食事の出来るお店を知りませんか?」

麻実の帯状疱疹は顔なのだ。
発疹は幸い2つ出来ただけだがやはり気後れする。


逹郎の不倫発覚以来、
食事を作らなくなった麻実は夕食をとって帰るつもりだった。

もう家政婦は卒業だ。



「それでしたらいい店を知っていますよ」
とトントン拍子に南條医師と一緒に食事をすることになる。
外に出ると雨だった。
長身の南條医師と小柄な麻実は相合い傘で歩きだした。

南條に案内された店でビールを飲み焼き鳥をつまむ。最近の居酒屋はビルの中にあって洒落ている。
逹郎が下戸なので、 結婚してからこういう店にきたことがなかった麻実には、なにもかもが珍しい。

「先生。不躾ですが クリニックは大丈夫なんですか?」

麻実の問いかけに南條は微笑んで言う。
「親父が産婦人科をやっていて、繁盛しているので大丈夫ですよ」

東京の繁華街でずっと開業してきた父親は、都会の夜の蝶の救世主らしい。


今更ながら昼に患者がいないはずだ。
この街は、不夜城と呼ばれていたはず。


患者がこない昼に開院している南條を
不思議に思い見つめると

「僕は今、あまり勤労意欲がないんです」

と麻実の心を読んだかのように答えた南條は 
「行きつけのバーがあるんです。付き合っていただけませんか?」


⭐⭐⭐⭐⭐


南條は、ネットで調べて来院したという
自分より九つも歳上の女性のことが
気になっていた。
自分より大分背が低くやせ形で、今どき珍しい黒髪だ。


1週間後に現れた彼女は
最初に来た時より何か吹っ切れたように見えた。

けれど 南條は、彼女が何かに飢えているような気がする。



何かとは優しさ?
それとも・・・



⭐⭐⭐⭐⭐⭐


達郎は思う。

麻実が東京の皮膚科に通い始めた。
この辺りには良い医者がないから、という理由だ。

皮膚科に通い始めた頃だったか、麻実が飯を作らなくなった。
文句を言いかけたが

「貴方は 智子とホテルへ行った後に私に夕食を作らせていた訳ね。楽しいことは智子として、汚れ仕事は私と使い分けていたのよね」

という麻実の言葉に口をつぐんだ。
一体何故、智子のことがばれたのか皆目見当がつかなかったが、やぶ蛇になるのを恐れたのだ。


それにしても、麻実の身体のどこが悪いのか皆目わからなかった。
もう十年以上も麻実の身体も 
ましてや顔も視たことがなかったから。

麻実は皮膚科に行くと言って、頻繁に東京へ出掛けて行き、遅く帰ってくるようになった。


仕方ないので、自分の飯は自分で調達するようにした。

一人の飯は味気なかったので、智子を誘うのだが、彼女にも夫が、それも公務員の夫がいるので、夕飯を毎日一緒に食うのは無理だった。判を押したように、6時には帰ってくると付き合い始めた当初から言っていた。

不倫が麻実にばれる前も
時折 贅沢なディナ―を智子にせがまれ
銀座でオイスターバーに行ったり、有名なアフリカ料理店に行ったりしたが
流石に毎日そうは行かない。

結局、不倫の話はうやむやになったようにみえながら、麻実はほとんど家事をしなくなった。

今まで  東京での電車の乗り方もわからず、何やかやと訊いてきた麻実を嗤ったこともあったのに、今は 何も云わずさっさと一人で何処へでも行くようになった。


不満はあるが、不倫のことをこれ以上追及されないので安堵を覚えた。


⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐


ビルの5階にある居酒屋を出て、南條は麻実を馴染みのバーへ連れていってくれたが、生憎こじんまりしたバーはいっぱいで入れなかった。
しばらくふたりはネオンの灯りに照らされた通りを歩いていた。

「麻実さん、僕はもう我慢できないよ。いいかな?」
「南條さん・・・」

そのままふたりは暗い路地に入って行った。

部屋に入ると南條はすぐに麻実を求めた・・・
南條の腕の中で麻実は胸がいっぱいだった。

逹郎の長年の不倫に 
女としてのプライドを粉々にされていた麻実は、今、自分に欲情し満足している南條によって
かつてない幸福感を感じていた。


                                    了








 



 



 























 





 





















 
 
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