上 下
9 / 35
☑夜とぎの手習い☑

軽快だが要警戒

しおりを挟む


 指定されていた時間になると茶亜莉伊が迎えに来て、オレはエントランスへと連れていかれた。
 エレベーターを降りて、ホールをひと通り見わたすと、右手に広がる大窓の際にある四つ一組の椅子に、男が腰を降ろしているのが見えた。
 茶亜莉伊が声をかけると、男はこちらに気づいて、笑いかけてきた。オレは目を丸くして、しばらく男を見つめていた。
 想像とまったく違った男だったのだ。オヤジじゃなかったのか……。

 そこにいたのは栗色の髪をしたまだ若い男だった。目算だとオレと大して変わらない感じに見える。程よく日に焼けた面と白い歯の対比が眩しい。
 そういえば年齢だけは書類に書かれていなかったのだ。オレが慌てて頭を下げると、男は立ち上がって、手を差し出してくる。
「すごいな。俺のタイプど真ん中」
 軽い。
 非常に、口調が軽かった。
「一喜さん、よろしくお願いします」
 オレは顔の筋肉をなんとか引っぱって、満面の笑みをつくる。そして橋本の手を握った。
 橋本一喜。
 好みのタイプは、笑顔がかわいい男。できるなら、少し慎ましい男がいいが、かといって従順すぎるのは好みじゃない。キレイ系よりもかわいい系が好き。
 橋本の快活そうな雰囲気から、書類に書かれていたそういう好みも理解できるような気がした。
「さん付けはいらない。余所余所しいのは苦手なんだ」
「でも、そういう慎みは必要だと思います」
「そっか。そう言うなら別にいいよ。一線越えたら、一喜って呼んでくれれば十分」

 橋本はからっと笑う。
 わりといい印象を与えられたみたいだ。 
 へぇ、案外ちょろいもんだ。彰人みたいなクセのある男だったらどうしようかと思ったが、こういうサッパリとした気性の男なら案外簡単に手玉に取ることができるかもしれない。そう思ったのも束の間、
「それはそうと。俺、君のこと、すごく気に入っちゃったみたいだ。今日にでも持ち帰りたいな」
 ただ事ではない単語が男の口からとび出した。
 待て。
 持ち帰りだ?何だその話?オレは聞いていない。
 オレが訝しげにしたのに茶亜莉伊は気づいたらしく、橋本に説明する。
「今日入ったばかりの者ですから、詳しい話はしておりません。買い取りは明日以降となります。申し訳ありません」
「そう。まあいいや。中々手に入らないものを追い求めるのも結構好きだし。でも、今夜のパーティにはこの子を付けてくれるんだろ?」
「はい。勿論でございます」
 そう返答する茶亜莉伊をオレは睨み飛ばす。
 茶亜莉伊はそ知らぬ顔をして、それでは、と言って去っていった。
 クソっ、逃げられたっ。

 持ち帰りって、どう聞いても、オレをこの男が家に持ち帰るという風にしか解釈できそうもない。
「じゃあ、えーと何君だっけ?」
「怜二です」
「それじゃ、呼ぶとしたら、玲二、かな?」
 玲二。耳元でそうささめき、耳朶を齧る、彰人の声が脳に浮かぶ。
「勿論です。一喜さんのお好きなように」
 オレはなるたけ柔和に笑った。
「そう。でも呼び捨てはちょっとね。オレのガラじゃないっていうか。玲二君と呼ばせてもらうよ」
「はい」

 彰人のことなんて忘れろよ、オレ。こんな状況に追い込んだのは、あいつなんだ。
 そのくせ、オレがどうなろうと、きっとあいつは、涼しい顔をして、これは因果ってやつだ、とか言ってうそぶくに違いない。
 考えるだけで、腹が立つし立つ瀬ないのだった。
 彰人のことを頭から払うために、不本意だが、オレは橋本の腕に抱きつく。

「あの、パーティまでは時間があるみたいですし、どこかに出かけませんか?」
「そうだな。君はどこに行きたい?」
「おれは、一喜さんとなら何処でもいいです」
「本心なのか口が上手いのか、分からないな。でも、そう言われて悪い気はしないよ。じゃあ、君への贈り物を買いに行こうか」
「でも、それじゃフェアじゃありません。オレはまだなにも」
「いいんだよ。君みたいに可愛い子は、いるだけで価値がある。今のところは」
 今のところもこの先もなにも無いんだって。オレは男に好き勝手されてやる気はないから。どんなもので釣ろうとしても、オレは絶対になびかない。と思っていたが。
 男の言う、贈り物とかいうものは、半端じゃなかった。工事中の、鉄筋で囲まれた高層マンションに連れて行かれ、
「このマンションを君にプレゼントしようか?」だの。
 オレにはよく分からないが、なんだか高そうな宝飾店に連れて行かれ、
「店を買い取るから君の好きなように利用するといいよ」だの言われるとは、誰が予想するだろう?そもそも生きている時代が違うような気がした。
 オレは面食らってしまい、丁重に断わる。そんなものをもらっても、オレにはどうにもこうにも使いようが分からない。

 そうして幾度も断わり、ようやく、割とまともなものに辿り着いた。チョーカーだった。それでもオレにとっては失神しそうなほど値の張るものだが、最終的に何かを受け取らなくては収拾が着かない気がしたので、もらうことにした。
 そして、今に至る。
「付けてみてくれないかな?」
 橋本はこだわり無くそう言った。
「い、今ですか?」
 オレは躊躇する。
「そうだよ。きっと似合うと思うんだ」
 今、オレの首にはドックタグがさがっている。単なるタグなら、ファッションで済むだろうが、具体的に名前が彫られたタグなら、話は別だ。しかもそれが2枚で一対のタグなら尚更、橋本は完全に興を削がれてしまうに違いない。
「どうしたの?」
「い、いえ。一喜さん、向こうがわ向いていてください」
「なんで?」
「楽しみにして欲しいから。ダメですか?」
 イチかバチか、オレは上目づかいで、橋本に目を合わせる。橋本は笑う。
「いいよ。君がそう言うなら」
 そう言って、後ろを向いた。
 オレはいそいそとタグを取り出して、外すためにチェーンの接合部を探す。けれど無い。指でチェーンを辿るけれど、引っかかりはどこにも無かった。

 まさか、嘘だろ?
 何度も指で探るが、やっぱり無い。そういえば、オレは一度もこのタグを外そうとしたことが無かったんだ。だから困る事はなかったが、端からこのタグには外す方法なんて無かったのかもしれない。もっともそういうのは、彰人のやりそうなことだけど。
 今はそんなことに呆れてる暇も、感心してる暇も無い。
 とりあえずは、ヘッドの部分を背中の方にまわして、ワイシャツの下に隠した。その上からチョーカーをするしかないようだ。幸いチョーカーの方がチェーンは少し太いし、なんとか気づかれずに済まないだろうか。
 オレは急いでチョーカーをつけた。
「一喜さん、出来ました」
 橋本は振り返って、頬を緩ませた。
「やっぱり君の奇麗な首には、銀がよく映える。本当に美しいよ」
「ありがとうございます」
 むず痒い台詞をよくもまあスラスラ言えるものだ。
「もっとよく見せて」
 橋本は顔を寄せて、片手でオレの首を触った。あ、と思うまもなく、橋本は二重になっていたチェーンの下の方を、見つけ出した。

「これは?」
「あ」
 橋本は手繰って、それを上に引き出してゆく。
 橋本は無言で、しばしタグを見つめていた。オレはいい言い訳はないものかと、考えを巡らせていた。
「これは、あの」
「2、3年前に流行したドッグタグだろ?これはオリジナルのものみたいだし、八俣英子のデザインだ。その上、アキヒト、とはね」
 橋本は苦々しい顔をする。
「そうか、君は」
「なにを?」
「やっぱり変更だ。すぐにでも、君が欲しい」
「え」

 ぐいと、手で顔を固定されたかと思うと、橋本は強引に顔を寄せ、そしてキスしてきた。
 間をおかずに、舌を入れてくる。背中をショーケースに押し付けられて、オレは身動きができない。
 それをいいことに、橋本はオレの一番触れられたくない場所にも手を伸ばす。
 何考えてんだ、この男は!こんなトコで発情してんじゃねぇよ!
 そう悪態をつく口も塞がれている。
 やばい。
 下からも、上からも、攻められているからだ。
 触り慣れているかのようなツボを押さえた手の動きと、オレの舌を絡めとるいやらしい舌の動きとが、オレを限りなく沸点近くへと連れてゆく。
 こいつ、口だけじゃねぇ。
 実際、上手い。
 体から力が抜けて、誘惑に負けそうになる。
 もうなんでも良いやとか、思いはじめている。
 もう、無理かも。

「段取りはきっちり守って頂かないと」
「……え?」
 急に横に体が引きずられて、誰かの腕の中に丸め込まれる。
「ずいぶんと融通が利かないんだな」
 橋本は、こちらを睨みつける。オレを抱え込んでいる主に向けた視線のようだ。
「嗜みというものは、ある程度の規則があってこそだという、館主の信念がありますから。獣欲の場ではないのでね」
「ふん。なんでもいいよ。でもその子は返してくれないかな?俺の指名なんだから」
 険悪かつ、剣呑。そんなやり取りがオレの上でくり返されている。
「パーティの時になったらお返ししますよ。そんなに焦らなくては、この者を落札する自信がないのですか?」
「焦ってないよ。いいさ、久々の好みの子だ。気長に待っても、損はない」 
 橋本が不機嫌そうに顔をそむける。
「そうですか。では失礼します」
 ふわっと体が浮いて、オレは抱き抱えられた。そして初めて、その主が誰だか分かった。
「彰人」
 肩の力が、ふっと抜ける。
 本当なら、もっとも安心してはいけない相手のハズなのだが。
「怜二。お前はいつから俺の電話を一方的に切っていい身分になったんだ?」
 彰人は漆黒の瞳で、オレを一瞥して言う。あいかわらず温度の低い態度だ。
「心配して来てくれたのか?」
「心配?違うな。その言葉は正しくない。腹が立ってやって来た」
 彰人は店の前に止めておいた車に、オレを放り込む。自分も乗り込んで運転手に行くように言った。
「スケジュールを一時間ほど繰り下げてくれ。後で埋め合わせる」
 助手席に乗っているマネージャーらしき人に、彰人は声をかける。
「しかし。今のスケジュールでもかなり切迫しています」
 手帳をパラパラと捲る音がする。
「平気だ。18時からの打ち合わせへは直接行くことにする。それに残りの雑務は夜会社に帰ってから対応するつもりだ。安心してくれ」
「分かりました。とりあえず、ミーティングの時間を繰り下げておきます。何か変更があったら連絡を入れてください」
「分かった」
 彰人がそう言うと、ちょうど車が止まる。
「行くぞ怜二」
「えっ?ああ」

 オレは気後れした。
 彰人が代表取締役を勤めていると昨日知ったものの、実感はなかった。けれど、今スケジュール云々を確認する彰人は、その役職を全うしているように思う。
 ただの印章マニアな変態、ってわけじゃないんだなと、少しだけ見直した。
しおりを挟む

処理中です...