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☑変身大作戦☑

不法なやり取り

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 その日、
「勝ち試合でございますね」
と言いながら茶亜利伊の目が好奇の色で光るのが分かったけれど、気づかないふりをして、その日の仕事の申し送りを聞く。

 橋本が簡単に言った顔を変えて君塚の会社に潜入する、という一度彰人に却下された案は、一晩にして採用された。茶亜利伊からの申し送りでそう聞いただけなので、彰人の真意は分からない。

 ただ、昨夜の彰人のことは夢か幻なんじゃないか、と思えていた。オレはすっかり寝入ってしまったらしい。目覚めたときに部屋には彰人の姿はなく、オレはひとり自分の部屋へと戻った。
 ひとり残されているっていうのは、割といつものことだ。ヤリ逃げって昔は思っていた。今回は目覚めたときにも皮膚に彰人の皮膚の質感や、身体の重みが感じられていて、寂寥とした感じはない。それに、いい運動をしたあとの爽快感もあった。
 言ってみれば、ヤッただけだ。それはこれまでと何も変わらないわけだけれど、どこか、なにかが違う気がしていた。

 今日は夜からの仕事ではなく、昼間から活動することになる。
 橋本の案にのることを彰人が了承したとのことで、橋本と打ち合わせをすることになったのだ。
 
 今日は気軽な格好で来てくれればいい、と橋本からの指定より、茶亜利伊がカジュアルウェアを用意してくれていたのだ。ジョガーパンツにTシャツ、そしてシャツという本当に適当な格好でエントランスにおりていくのは気が引ける気がした。橋本が今回どういう扱いなのかは分からないが、男娼館ではお客扱いだとするなら、橋本の要望は優先されるものだろう。
 エントランスに行くと、橋本もまた、シャツにパンツといういくぶんかカジュアルな格好をしていつもの特等席で待っていた。昨日会ったばかりだったが、一方的に気まずい別れをしただけあって、少し声をかけるのを躊躇してしまう。

 近づいていくと、橋本は手元のスマートフォンから顔をあげて、やあ、昨日はどうも、とほほ笑む。
 オレは会釈をした。
「よろしくお願いします」というと、こちらに向けられていた橋本の眼差しの質が変わるのが分かる。
 おもむろに立ちあがると、こちらに近づいてきて、顔を寄せてきた。
「昨日の今日で、なにか変わったように思うんだけど、気のせいではないのかな?まるでスランプを抜けたスポーツ選手のような」
「気のせいだと思います」
「彰人が急にOKを出したという連絡ももらったけれど、非常に気にかかるね」
「協力した方が効率的だと思ったのかもしれません」
 彰人の真意を知るわけじゃないから、そう言うしかないけれど、橋本はどうも納得しないらしい。
「ひょっとしたら、俺は見事に噛ませ犬だったのかもしれないね。残念。昨日は最後まで味わっておけばよかったな」
「い、いや、昨日のことは忘れましょう」
 見事な失態も思い出したくなかったし、甘いムードに引きずられてしまった事実も恥かしい。

「いずれにしても、君は昨日よりも今日の方が魅力的に見える。スポーツ感覚でOKなら、ぜひとも今晩相手をお願いしたいね」
 と橋本は言うのだった。
「今は、とにかく君塚さんを探るため、協力しましょう」
 オレは話を本筋に戻すことに専念することにする。
「一喜さんの目的は、もっと高いところにあるはずですよね。彰人に代わって代表取締役になるという目的がありますし。オレはできる限りの部分では協力しますから」
 高いところ、と強調してみる。
「たしかにそうだね」
 と橋本は言った。成功したらしい。それじゃあ、ついてきてと言われてエントランスからホテルを出た。待たせていたタクシーに乗り込む。

「まずは顔の印象を変えよう」というのだった。君塚が記憶しているオレの印象から、変身する必要がある、と言うのだ。
 とはいえ、そんな簡単に顔の印象を変えることができるものだろうか、という疑問が浮かぶ。タクシーが止まったのは、一見美容室のように見える建物だった。
「ここだよ」と言われ、橋本に誘導されるままに建物の中に入る。
「いらっしゃいませ、お待ちしていました」と数名のスタッフが迎えてくれて、それこそ美容室のような椅子と鏡のある部屋へと案内されるのだった。案内された椅子に座るやいなやスタッフに取り囲まれて、ケープをつけられ、顔にあれこれ塗られる。
 何をされているんだろう、と思う間もなく、流れるような手つきでなにかの施術をされているのだ。
「方向性はどうしましょうか?」
 とスタッフのひとりが橋本に尋ねる。「健康的な印象が強いですが、少し変えてみましょうか」と言うのだ。
「そうだね、君塚はいわゆる流行りの顔に弱いらしい。あっさりさっぱりな塩風味の顔に寄せていこうか」
「寄せていこうって」
 そんな簡単に出来るもんだろうか。
「皮膚を傷めない特殊加工技術があるんだよ。玲二くんの顔は分類だけで言えば、それほどコッテリはしていないけれど、目鼻立ちはハッキリしているタイプだと思う。そこを少しあっさり風味にさせてみようと思うんだ」
「そんなことできるんですか?」
「人工皮膚を使って色や形を少し調節するんだ」
 橋本が説明している間にも、顔になにかを塗られている感覚がある。2時間もすれば完成すると思う、その間は眠っていても大丈夫だよ、と橋本は言う。顔にしっとりとしたものが塗られている感覚が気持ちよく、間もなく自然な眠気がやって来てしまうのだった。


 目覚めたときにはオレは仰向けになっていた。
 椅子がリクライニングされていたのかと思ったが、どうも違う部屋にいるようで、気づくと身体にスカスカとした感覚がある。
 心もとなさの原因は、服を着ていないことだ、と分かるまで数分の時間を要した。そばにいた男性スタッフが、身体の特徴も変えておくという指示が出てきまして、といい、オレの身体の写真をタブレット上に表示させてみせる。それこそ丸裸の状態を撮影したものだ。
 タブレットを操作し、身体の各部位を細かく表示していき、この部分を一時的に変えました、と説明してくれる。とはいっても、それほど重要な部分だとは思えない。ほくろだとか、傷だとか、アザやちょっとした痕だとか、そんなものそもそも君塚にとっては知りようもない部分だからだ。

「そんな細かいところまで変える必要ってあるんですか」オレが尋ねると、そのスタッフは言う。「どうやら君塚さんという人は、出会った人、特に好みだと思った人のことを自社開発の透視スコープで撮影するようです。ですから、衣服を着ていたり、君塚さんに直接肌を見せたわけではなかったりしても、実は身体的な特徴を知られている可能性があるとか」
「それって犯罪じゃ」
「とはいえ、現状では証明しようがないですからね。現行犯逮捕じゃないと、どうしようもありません」
 男性スタッフはひととおりの説明を終えてから、今度は衣服のフィッティングです、といい腰にタオルを巻いただけの格好で別室へと案内される。

 まるでどこかのアパレルショップかのように、たくさんの服が陳列されている部屋だ。案内してくれたスタッフとは別のスタッフがやって来て対応する。
「動きやすさ優先のファッションがお好みだと聞きおよんでいます。スポーティな印象の強い服を好んで着用されているようだ、と狩野さんのクローゼットをチェックしに行ったスタッフが言っていました」
「うん?クローゼットをチェックしに行った?」
「はい。自宅アパートのクローゼットには機能性を重視した服が多かったと聞いています」
「いや、なんで家に?」
「その点は、協力要請に応じていただいたからだ、と社長は把握しているようです。鍵は【cour】の関係者からお借りしたそうですよ」
「社長?それに【cour】の関係者って」
「橋本一喜社長と、【cour】のスタッフの方ですね」
「はあ」
 不法侵入だよな、と強く言いたい。
 けれど、さっき君塚の透視スコープなる違法なものの存在を聞かされている手前、発言に困る。
「狩野さんの本来の好みはとりあえず置いておきましょう。現在のお顔でしたら、キレイめなファッションが合うと思います」
「現在のお顔?」
 聞きなれない言葉に首をかしげていると、ご覧になりますか?
 と聞かれ、目の前に姿見が運ばれる。目の前にいたのは、あっさりとした顔立ちの男だった。目が切れ長になり、肌の色も妙に白くなっている。
 フェイスラインも少し変わっているようにも見えた。もともとの顔をしっかりと認識しているわけでもないが、鏡に映るこれはオレじゃない、と本能はいう。
「無地のシンプルな印象の衣装を合わせると、きっといい感じになると思います」
 その男性スタッフはキャスター付きのハンガーラックを運んでくる。モノクロのシャツやパンツ、そしてジャケットが並んでいた。
 ゆったりとした丈感で着てみましょう、と言われて渡された服を着用していく。いつもならあまり選ばない種類の衣装を身につけている、自分じゃない自分の姿に脳が混乱を極める。
フィッティングしたところで、橋本が入ってきて、「わお、なかなかの変化だね」と言う。言うだけに留まらず、顔を寄せてくるのだ。

「これはこれで、とてもいい感じだ。見た目が変わっただけでも、味わいが変わるものか、味わってみたいとこだね」と鼻先がつくくらいまで顔を近づけてくる。橋本はいちいち接触が多い。
「あとは声や話し方を変えるかどうかだけれど。声は1日持続するスプレーで対応すればいいし、話し方は男娼館でのよそ行きの話し方を多少崩していけばいいと思う。パーティでも長時間接触していたわけではないから、気づかれる可能性は低いだろうしね」
 顔を変えて服装を変えて、声を変える。顔を変えて君塚の会社の面接を受けるだなんて、にわかには信じがたかったけれど、実際に別人になろうとしている。
「準備は万全だね。君塚の会社に行こう。紹介するよ」と橋本は言うのだった。
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