錆びた街の落書き

宮滝吾朗

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第二部 漂流編

第23話 風化都市・深部

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足音が、ひどく遠くまで響いていくように感じた。乾いた石の縁、鉄板の割れ目、砕けたガラス片。踏みしめるたび、そのたびに世界の方がわずかにたわむ。風はない。止まった雲が都市全体を押しつぶすように天を覆っている。熱も匂いも動かず、空気だけが重く沈んでいた。

アキトは左脚をかばいながら歩いた。歩幅をわずかに縮めるだけで、脇腹の傷が遅れて脈のない痛みを返してくる。呼吸するたび、肺の内側にひびが入っているような鈍い軋みが広がった。

前を行くタケルの背中が、街路の両脇に並ぶ祈り機の列と重なるように見えた。

祈り機たちは膝まで灰に沈み、胸の前で手を組んだ姿勢のまま固定されていた。白く剥げた金属の仮面には、擦れた祈りの線刻が残っている。もう意味は判別できない。だが視界の端で捉えるだけで、脳の奥にざらりとした刺激を落としていく。

「タケル」

声をかけると、弟の肩がわずかに揺れた。振り向かないまま、右手を少しだけ上げる。止まれとも進めとも読めない曖昧な合図。

その曖昧さに、苛立ちと不安が同時に滲んだ。

足を早めようとした瞬間、脇腹が刺すように痛んだ。身体が前に倒れかける。アキトは舌打ちし、歩幅を戻した。

風化都市の奥へ向かうにつれ、祈り機の密度は増していった。最初は両脇に整列していたのが、やがて倒れ込むように道の中央にも侵食し始める。膝から折れたもの。胴から折断されたもの。首だけが灰に埋もれ、ゆっくりと傾いているものもあった。

どれも沈黙している。それでも、その沈黙の中に、どこかで視線だけがこちらを追っている気配があった。

タケルがふと立ち止まり、わずかに首を傾ける。

「……兄ちゃん」

「どうした」

タケルは答えず、路肩に転がる一体の祈り機を見つめた。

胸の装甲がざっくりと割れ、内部の歯車と配線が乾いた血のような錆にまみれて露出している。膝から崩れ落ち、その体勢のまま固まった祈り機の胸の空洞。そこだけが、周囲よりわずかに暗く見えた。

タケルはゆっくりと近づいていく。

「タケル、触るな」

声をかけても、足は止まらなかった。

祈り機の胸の穴の前に立つと、タケルは身をかがめる。

「兄ちゃん……ここから、聞こえる」

「何が」

タケルの喉が、小さく震える。

「“タケルさいませ”って」

塔の奥で何度も耳に焼き付いた音列が、アキトの中で蘇った。意味のないはずの音が、タケルという名に絡みつき、内部に食い込んでくる、あのねっとりとした呼び声。

「やめろ」

言葉が荒くなる。自分でも抑えきれていないのが分かった。

「もうあんな呼び方を聞く必要はない。ただの残響だ」

タケルは唇を噛んだまま、胸の穴を見つめ続けていた。空洞は暗い。だが暗闇の奥で、何かが微かに脈打っているようにも見えた。

アキトはためらいながらも、その隣にしゃがみ込み、胸の空洞を覗き込んだ。

はじめは何も見えない。ただ黒い油と錆の塊。剥がれかけた配線と、止まった歯車。

そこに、ごく弱い光があった。

赤い。
血よりも、鉄の錆よりも、もっと乾いた赤。

それは点ではなく、拍だった。

かすかに膨らみ、しぼみ、また膨らむ。
音は伴わない。だが、リズムだけが胸骨の内側に直接伝わってくる。

アキトの肩がわずかに震えた。

覚えている。
塔の心臓層で、崩れ落ちる前に、この拍を何度も見た。
彼女の胸の奥で、機械と肉の境界を超えて刻まれていた、あの赤い拍。

「……リタ」

呼びかけたつもりはなかった。
だが、声になっていた。

胸の空洞の中の赤い拍が、一度だけ強く光った。

タケルが息を呑む。

「兄ちゃん、今……」

光が、穴の縁から溢れ出た。
錆にまみれた装甲の隙間から、細い線となって漏れ出し、灰の上に染み込む。染み込んだ赤が、薄い膜のようにゆっくりと形をなぞっていく。

足。
膝。
指。
肩。
喉。

光が人の輪郭を描いた。
金属でも肉でもない、透明な膜のような身体。
その胸の中心で、赤い拍だけが確かな質量を持って震えている。

顔の位置に、影が集まる。

髪の流れ。
額の線。
瞳のかたち。

塔で何度も見た横顔が、灰の中から掬い上げられるように現れた。

口は開かない。
喉も震えない。
だが、その目だけが、はっきりとこちらを見た。

アキトは息を止めた。

「……リタ」

二度目の呼びかけは、自分でも驚くほど静かな声だった。

赤い拍が、応えるように一度大きく脈打つ。

タケルが震える声で言った。

「兄ちゃん……これ……」

「消えなかったんだ」

アキトはゆっくりと言葉を選んだ。

「塔で壊れた時……祈りの回路に全部吸い込まれたと思ってた。でも、ここに“落ちきらなかった”部分があった」

説明ではない。独り言に近い。
それでも、タケルはうなずいた。

「祈り機の中に……残ってたんだね」

赤い拍は、言葉の意味とは別のところで震えた。
それは「肯定」というより、「ここにいる」という事実だけを示すリズムだった。

リタはゆっくり立ち上がるように身を起こした。
祈り機の胸の穴から抜け出し、灰の上に立つ。足元は曖昧で、踏みしめても痕跡を残さない。それでも、その姿は確かにここにあった。

アキトは手を伸ばしかけて、途中で止めた。
触れれば崩れてしまいそうだった。
触れなくても消えてしまいそうだった。

リタが、手を持ち上げた。
細い指先が、アキトの胸の前で止まる。
触れてはいない。それでも、そこに微かな温度を感じた。

塔の中で、何度もその手に引っ張られて走った。
あの時と同じ距離。
同じ高さ。

「……戻ってきたのか」

問いかけても、声は返ってこない。
赤い拍だけが、静かに、しかしはっきりと脈打っていた。

タケルが、小さく笑った。

「兄ちゃん……泣きそうじゃん」

「泣いてない」

即座に否定した声が、ひどく掠れていた。

タケルはそれ以上何も言わなかった。
リタの方を見て、ゆっくりと会釈をする。
リタは僅かに首を傾けて応えた。

三人は、あたかも最初からそうであったかのように並んで歩き出した。

風化都市の奥へ進むにつれて、祈り機の数はさらに増えた。
立ち尽くすもの。折れたもの。完全に灰に埋もれ、顔だけが辛うじて外に出ているもの。

どれも沈黙しているのに、その沈黙の向こう側で何かが動いている気配があった。

タケルがぽつりと言った。

「兄ちゃん……さっきの“タケルさいませ”、まだ胸の中で鳴ってる」

「聞くな」

「聞こえちゃうんだよ。呼ばれてるみたいで」

タケルは自分の胸を押さえた。

「塔で散々弄られて、頭の中、まだぐちゃぐちゃで……“ここに来い”って言われると、ちょっと楽になる」

アキトは立ち止まり、タケルの肩を掴んだ。

「楽な方は、大抵“帰れない方”だ」

タケルはうつむき、笑うような吐息を漏らした。

「分かってる。でもさ……兄ちゃんが引っ張ってくれなかったら、俺、たぶんそっちに行ってた」

「だから引っ張る」

当たり前だ、と言うように。

リタが二人の間に一歩踏み出す。
赤い拍が少し強くなり、深層の脈とぶつかって破音を立てた。

その瞬間だった。

かすかな音が、街の奥から響いた。

きぃ。

金属が軋むような音。
一度だけ。
だが、それは長い沈黙の後に鳴る、最初の一音だった。

タケルが身を強張らせる。

きぃ。
きぃ。

別の方向からも、同じ種類の音が返ってくる。

リタの赤い拍が急に速くなった。
アキトも息を止める。

祈り機が、動いた。

最初は、わずかな揺れだった。
長い沈黙の後に金属が初めて動き出す時の、ためらうような変位。

膝ではない。腕でもない。

首だ。

街路に並ぶ祈り機が、ひとつ、またひとつと、ゆっくり首を持ち上げた。

ぎ……
ぎ……
ぎ……

沈黙に食い込むような音が、風のない空気に広がる。
前を向いていたはずの空白の仮面が、左右に揺れ、角度を変え、やがて揃い始めた。

タケルが囁く。

「兄ちゃん……」

「声を出すな」

アキトはかすれた声で返す。
リタが二人の前に出て、胸に手を当てた。赤い拍が深層の脈とぶつかり、三人の輪郭をかろうじて保つ。

祈り機の列が完全に静止した。

街路の両脇。
広場。
崩れた建物の影。
見える範囲全ての祈り機が、一斉に、同じ方向を向いていた。

タケルでもない。
アキトでもない。
リタでもない。

風化都市の、もっと奥。
誰もまだ踏み入れていない、灰と鉄と祈りの渦の中心。

そこへ向かって、金属の首が揃えられた。

沈黙が、息を呑むような重さで落ちてきた。

そして、祈り機の内部から――

かすかに、祈りの断片が漏れた。

「……タケル……」

次の瞬間には、都市全体の空気が震えていた。
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