舞子とハルヒトの年末年始

宮滝吾朗

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舞子とハルヒトの年末年始

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12月27日を過ぎると、京都は一気に年の瀬の顔になる。
テレビのニュースは毎晩のように「宮内庁発表」で始まり、新聞の一面は天皇陛下の容態の記事で埋め尽くされていたけれど、そんな重苦しいムードとは別に、街は正月を迎える準備に忙しい。

細い西洞院通や新町通を歩けば、「今日は破っていい」と言われて嬉しそうに障子紙をビリビリ破る子ども、その跡の桟をぬれ雑巾でていねいに拭き上げるおばあちゃん、横では、お父さんがノリを刷毛で塗り、新しい紙をピンと貼っている。

隣の家では、竹を立てて松飾をくくりつけている。路地に漂う糊の匂い、木槌の音、子どもの笑い声。年の瀬の慌ただしさと温かさが、街全体を包んでいた。

渋滞の烏丸通を埋める車のフロントには、しめ縄がぶら下がり、その真ん中に小さなみかんが鎮座している。信号待ちで並ぶと、どの車もオレンジ色の実を付けていて、冬の街に果実がいっせいに実ったように見えた。

大晦日の錦市場は、まるで年の瀬そのものが形を持って押し寄せてきたかのような熱気に包まれていた。
通りを埋め尽くす人の波は、普段の週末の比ではない。肩が触れ合い、荷物がぶつかり合い、時折「すんまへん」と笑い声がこぼれる。その雑踏のざわめきと、魚の焼ける匂い、白味噌の甘い香り、昆布出汁の湯気がないまぜになって、まるでひとつの大きな台所になったようだった。

普段ならば、こんな混雑はごめんだと遠回りしてしまう。けれど、年の瀬だけは違う。
この人いきれの中に身を投じてこそ、「ああ、今年も終わるんやなあ」と実感できる。
頭上を行き交う掛け声、「おおきに!」「はいはい、お次どすえ!」といった威勢のいい声。
そのたびに胸の奥が少しだけあたたかくなる。京都の人がみんなで同じ時を刻んでいるような、そんな一体感がある。

ニシンの甘露煮を手に取り、つやつやと光る煮汁の色に、幼いころの正月の味がよみがえる。
次にかまぼこの紅白を選びながら、「これがあるだけでお膳が明るくなるな」と心の中でつぶやく。
蕎麦屋の店先では、出汁の香りが立ちのぼり、ふと立ち止まって湯気の向こうに行列を見つめる。金時人参の赤が鮮やかで、雑煮大根は透き通るほど白く、丸餅はまだやわらかい。
買い物かごの中に少しずつ品が増えるたびに、白味噌の香りと正月の朝の情景が浮かんできた。

障子越しの冬の日差し、こたつの上の湯気、母の手元で削られる鰹節の音。
あの静かな元日の朝を思い出しながら、僕は雑踏の中で少し足を止めた。
人の波にもまれながらも、どこか懐かしく、温かく、心の奥がしんとする。
――年の瀬の錦市場は、単なる買い物の場ではなく、京都の人間にとっての「一年の締めくくりの儀式」なのだと、改めて思った。

◇    ◇    ◇    ◇

「舞子、明日の元旦は朝早くからバイトやんな?」

僕はお蕎麦のおつゆ用に濾した鰹節の香りに包まれながら訊いた。

「うん。三が日は毎日朝からバイト。年始の京都のホテルだもんね」

「そか。ほな、大晦日の夜から車で出かけて年越し初詣とかは無理やな」

「早く寝ないとね」

前々からその予定は聞いていたんだけれど、やはりちょっと残念だ。
前に滋賀県ドライブで舞子が厳島神社と間違えた白髭神社に初詣に行きたかった。

「ハルくんも、明日は滋賀県の実家帰るんでしょ?」

「うん。夕方には帰ってくるけどな。」

錦市場で買ってきた生蕎麦を手でそっとほぐす。
白い粉が指先にうっすらと付き、ふと鼻先に蕎麦の香ばしい匂いが立つ。
大鍋の湯がふつふつと沸き、湯気が立ちのぼる。そこへ蕎麦を一気に放つと、たちまち湯面が踊り、湯気が立ちこめる。
立ちのぼる香りは、まるで冬の台所の幸せそのものだった。

菜箸でやさしくほぐしながら茹で加減を見極める。
ほんの数十秒の差で、腰の強さも舌触りも変わってしまう。
「この瞬間を逃したら、もったいない」――そんな緊張感の中で、湯の中の蕎麦がふっとやわらかくなった瞬間、火を止め、手際よくざるに上げる。
湯を切る音がシャッと小気味よく響き、鍋の湯気が白く舞う。
冷水で軽く締めてぬめりを落としたら、再び湯にさっと通し、丼へと静かに移す。

そして、いよいよ仕上げ。
錦市場で買ったニシンの甘露煮を、艶やかな煮汁ごと温め直す。
箸を入れると、身がほろりと崩れる。
琥珀色のたれがとろりと流れ、照りのある皮がきらめく。
その一切れを、そっと蕎麦の上に乗せると、丼の中にふわりと甘辛い香りが広がった。
金色の出汁を張ると、湯気とともに昆布と鰹の香りが立ち上り、寒い台所の空気をやさしく満たしていく。

紅白のカマボコと刻んだ九条ネギを散らし、仕上げに包丁で薄く削り取った柚子の皮をひとひら。


「はい、年越し蕎麦。まだお昼やけどな」

「わ!ありがとう!美味しそう!」

舞子はそう言ってまずおつゆを一口飲み、お蕎麦を箸でつまんで口に運んだ。
僕は祇園で買ってきた原了郭の黒七味をぱっぱっと振りかけ、同じくまずおつゆを一口。

「「はぁぁ~!」」

2人同時に、ため息とも感嘆ともつかない声が思わず出た。
箸で蕎麦をすくえば、湯気の向こうに艶のある麺がのぞき、出汁の表面には金の輪がいくつも浮かんでいる。
ひと口すすれば、熱い出汁が舌に触れると同時に、ニシンの甘露がほどけ、蕎麦の香ばしさと一体になる。
噛むほどに魚の旨みが染み出して、ほんのりとした甘さと出汁の塩気が重なり合い、胸の奥まであたたかくなっていく。

「……んっ!お魚がふわっとしてるのに、甘辛い味がしみてて……お蕎麦と合うんだね」

目を丸くして小さく頷く姿に、僕は思わず笑ってしまう。
僕にとっては馴染みの味だけれど、舞子にとってはきっと新鮮なんだろう。

「せやろ? ニシンの脂と甘さが、おつゆに染み出しててな。これが年越しって感じなんよ」

「お魚が、ほろほろって崩れるの。すごいね」

「三日ぐらい炊いてあるらしいで。骨までやわらかい」

舞子は次のひと口を待ちきれないように、今度は少し大きく蕎麦をすする。
柚子の香りがふわっと鼻に抜け、昆布と鰹の風味が後から追いかけてくる。

「はぁ……ほんと、しあわせ……」

舞子は頬をほころばせながら、湯気越しに僕を見た。
僕もまた、同じように蕎麦をすする。
舞子は夢中で食べながら、時折顔を上げて笑った。
ふたりして黙りこみ、湯気の中で箸の音だけが響く。
外は冬の午後の光。
窓からに差し込むその光が、つゆの表面を金色に照らしている。

やがて、舞子が丼を手に取って、最後の一滴まで飲み干した。
器の底が見えるころ、柚子の皮がふわりと浮かび上がる。
小さく息をついて、両手を合わせた。

「ごちそうさま。美味しかった~」

ホクホク顔とはこういう顔を言うのだろう、という顔で舞子が箸を置く。
その声は、年の瀬の静かな空気の中に澄んで響いた。
僕も笑いながら箸を置く。
ただの年越し蕎麦なのに、舞子と並んで食べるだけで、どこか特別なご馳走になっていた。たった一杯の蕎麦なのに、
まるで一年分の温もりを、ゆっくりと味わい尽くしたような気がした。

石油ストーブの上のヤカンがシュンシュンいっていた。
コーヒーを淹れよう。

テレビからは落語や演歌の番組が流れていたが、時折アナウンサーの低い声で「天皇陛下のご容体について」というニュースが割り込んでくる。
笑いとしめやかさが交互に訪れる、奇妙な大晦日の午後だった。
窓の外から子どもの笑い声が聞こえた。

「さ、舞子。3時なったし、錢湯納め行こか」

「うん。帰りにアイス買って、食べながら散歩して帰ってこようよ」

「めっちゃ寒そうやけど、なんかええな。下鴨神社から鴨川デルタコースやな」

開店したばかりの錢湯では、大晦日もポールとジョンが出迎えてくれた。
1年の汚れを、なんて大層なものじゃないけれど、僕は念入りに髪と体を洗い、ヒゲを剃った。
湯船に浸かると、ジョンが国境のない世界を想像してごらん?と歌いかけてきた。
ラブ・アンド・ピース。

ほとんど毎日一緒に来ているもんだから、舞子の出てくるタイミングもすっかり分かっていて、
小さな石鹸カタカタ鳴らしながら待つこともなくなった。

僕達はアイスを食べながら糺の森の参道を南に歩いた。
葵公園に入ると両側からだんだんと賀茂川と高野川が迫ってきて、三角州の天辺になる。
さすがにこの季節に川に入っている子供はいなかった。

僕達はゆっくり歩いてアパートに戻った。
お風呂上がりとはいえ、体が冷えている。

「さむ!さむ!」

そう言ってストーブの火を点け、こたつのスイッチを入れて潜り込む。
テレビを付けると、光GENJIが「パラダイス銀河」を歌っていた。

「この曲がレコード大賞ねえ…」

「円山公園の酔っぱらいのイメージしかなくなっちゃったよ、私」

どう考えても最優秀歌唱賞の島倉千代子の方が大賞に相応しかったが、まあ事務所の力とかテレビ局の都合とか色々あるのだろう。
コーヒーを温め直していると、また低い声のアナウンサーに画面が切り替わった。
昭和が終わるんだろうか?

ぐだぐだしている内に、窓の外はすっかり暗くなっていた。

「晩ごはんどうする?」

舞子が訊く。

「せやなあ…もう1回、今度はお店の年越し蕎麦食べに行こか?」

「いいねえ。京都の大晦日のお蕎麦!どこか良いとこありますかい、ニイさん?」

「まあ、アテはあると言えばある」

「じゃ、遅くなる前に行こう!」

今年、舞子と何度も並んでペダルを踏んだ川端通りを、また走っている。
冷たい風が頬を刺すのに、不思議と心の中はあたたかかった。
大晦日の空気はどこか澄みきっていて、鴨川の水面には、街の灯が冬の星のように瞬いている。
この一年、春の桜も、夏の夕立も、秋の風も、何度もこの道で感じてきた。
何往復したんだろう、と笑いながら思う。
そして同時に、来年もまた同じように、この道を一緒に走れるだろうかと、静かに心の中で問いかける。

八坂さんの前を右折すると、祇園の街はすでに年越しのざわめきに包まれていた。
観光客の笑い声、屋台の呼び込み、線香の匂い、風に乗ってどこからか聞こえる読経の声。
どこからか、鐘の音がひとつだけ響いた。
まだ夜には早いのに、その低い余韻が、年の終わりを告げる合図のように街の空気を震わせた。
石畳の上を人々の足音が絶え間なく響き、提灯の灯りがゆらゆらと赤く揺れる。
歩道の隅に停めた自転車のハンドルが、風にかすかに鳴った。
まるで「またここに来たね」とでも言うように。

高瀬川沿いまで来ると、川面に映る光が波に揺れて、まるで京都の街が呼吸しているみたいだった。
阪急百貨店の方へ近づくほどに、人の密度は増し、すれ違う肩が何度も触れた。
誰もが笑っていて、どこか急いでいて、それでいて優しい。
この時期だけは、京都中の人々が「年を越す」という同じ目的に向かって動いている気がした。
まるで街全体が一つの家族になったような、そんな不思議な温もり。

僕らは人混みを抜けるように裏寺町へと入った。
通りに入った途端、さっきまでの喧騒が嘘のように遠のく。
細い路地の奥からは、おでんの湯気の匂いが漂い、どこかの店のラジオが天皇陛下のご容態のニュース中継を小さく流していた。

新京極公園の方へ抜けると、子どもたちの笑い声。
年の瀬の京都――ざわめきと静けさ、喧騒と安らぎがせめぎ合いながら、
すべてがゆっくりと「新しい年」へと流れ込んでいく。

舞子がマフラーの中でつぶやいた。

「なんか、今日の風、違うね」

僕はうなずいて笑う。

「うん。年越しの風や」

その瞬間、街の灯が少し強く瞬いた気がした。

「ねえ、大晦日なのにこんな寂しい通りに、お蕎麦の名店があるの?」

舞子が不安そうに訊く。

「ほら、あそこ」

僕の指差す先には、ビルの半地下になったところに、毎度おなじみのあの看板、進入禁止の道路標識みたいな赤い丸に白の一文字のマークがあった。

「え!?お蕎麦屋さんって、これ、テンイチじゃん!?」

「いやな、今年最後にどうしても食べときたくて…」

「ハルくん、年越し蕎麦って」

「いや、ホラ!看板よく見て!『中華そば専門店』て書いてるやん!」

「確かに書いてるけど…ぷ」

舞子が吹き出した。
僕の勝ちだ。

中途半端な階段を降りてドアを開ける。
本店と違ってここはいつ来ても空いていて、割りと好きな店だ。
味もいいと思う。

「こんな小さなテンイチあるんだね」

「あ、舞子、床滑るから気ぃつけてな」

「滑るって…うわ!本当に滑る!」

「ヌルッヌルやねん、ここ」

窓際のテーブルに座ると、目の高さに道行く人の脚が見える。

「なんか変な感じするね、この位置」

舞子が笑う。
注文はいつもの、チャー定餃子ラーメン大盛りこってりニンニク抜き麺硬めネギ多め。
舞子もすっかり慣れた様子でこってり並を注文した。

「うんま!」

「な!?1年のシメにやっぱりこれいっとかなアカンやろ?」

「う~ん…『他にもあるやろ~』って気はしないでもないけど、これはこれでやっぱり美味しいね」

舞子の『他にもあるやろ~』は、さすが大阪泉州出身だけあって、東京モンの役者が喋るエセ関西弁とは違って、実にネイティブな発音とアクセントだ。
そういやどうして普段は大阪弁を喋らないのかまだ聞いてなかった。
まあいいけど。
来年の終わり頃には理解してるかも知れない。

「ごちそうさま!」

シメのテンイチ、すっかり満喫した。
時間は7時半。

「ほな、八坂さん行こか」

「八坂神社?何かあるの?」

「うん。大晦日は八坂さんで"をけら火"もらわんとな」

「をけら火?」

僕達は四条通の人混みに揉まれながら、ゆっくりと八坂さんの方に歩いていった。

八坂神社の大晦日は、「をけら詣り」だ。

境内には大きな火が焚かれ、その火を「をけら火」と呼ぶ。
参拝した人々は縄の先についた芯に火を移し、それを消えないようにくるくると回しながら家に持ち帰る。
火を回すのは消さないためでもあり、厄を祓う意味もあるのだという。
家に帰ったら神棚の灯明や雑煮の火種にして、新しい年を清らかな火で迎えるのが古くからの習わしだ。

境内は人でごった返し、あちこちからざわざわと声が重なり合っていた。
参道の脇には屋台が並び、焼きそばや甘酒の匂いが冷たい空気の中に漂っている。
火に照らされた白い息が、みんなの頭上にもうもうと立ちのぼる。

暗闇に浮かぶをけら火のオレンジ色の輪が、四条通から境内へ、境内からまた町へと流れていく。
ゆらめく焔がくるくると回されるたび、火の粉がぱちりと散って、子どもが「わっ」と声を上げた。
ざわめきと、焔と、冷たい空気。年が暮れていく瞬間を、まるごとその場に閉じ込めたような夜だった。

境内の奥へ進むと、吉兆縄を売る屋台がずらりと並んでいた。
縄の先には白い紙垂や、縁起物の小さな飾りが結びつけられていて、見ているだけでも新しい年を迎える気分が高まってくる。

「わ、これ買おうよ!」

舞子が目を輝かせて吉兆縄を指さした。
僕も一緒に並んで、一本を受け取る。縄の手触りはざらざらしていて、どこか温かい。

大きな火床に近づくと、炎の熱気が顔にじんと伝わってきた。
行列の人々が順番に縄の先を火にかざし、種火を移している。
舞子も両手で縄を大事そうに持ち、真剣な顔つきで火を移した。

「ついた!…ほら、ハルくん!」

ぱっと火が灯った瞬間、舞子は嬉しそうに僕に見せる。
揺れる橙の光が、彼女の頬を赤く染めていた。

「火が点いたら、縄をクルクル回して火が消えへんようにするねん。」

人混みのざわめき、屋台の匂い、焔のちらちらする明かり。
その中で舞子は、小さな火を抱え込むように持ち、クルクルと縄を回した。
その姿は、年の瀬のざわめきに混じって、ひときわ鮮やかに輝いて見えた。

「さ、ほなこの火ぃ消さんようにして、そろそろ帰ろか。明日早いし」

「そうだね」

舞子はそう言って、自転車を置いた高瀬川のあたりまで嬉しそうに縄をクルクルと回して歩いた。

「これ、考えてみたら戦国時代の火縄銃持った鉄砲兵が行軍してるときとおんなじやな…」

「そうなの?」

「うん。ドラマとかではそこちゃんとやってるの見たことないけど、前に図書館で調べた時に、挿絵付きで書いてあった」

「へー。でもなんでそんな、火縄銃のことなんか調べてるの?」

「『知的好奇心』てやつやな」

笑いながら自転車の場所に着き、火縄、いや、吉兆縄を持って走り出す。
自転車で走っていると前から来る風で火はちゃんと燃え続けている。
たまに火種が弱まるから時々クルクルしながら出町柳へと走った。
結構途中で消えてしまう人も多いらしいけど、舞子と僕の火はアパートまで消えずに守りきれた。

「ほな舞子、明日早いからもう寝。その縄こっちもらうわ」

「その火、どうするの?」

「内緒。おやすみ」

「はーい」

そう言って舞子は歯を磨くとベッドに潜り込んだ。
僕は火が飛び散らないように、台所の流しの上で2本の縄をクルクルと回していた。

コンロの上に火種の着いた吉兆縄を持っていく。
「ふー」と息を吹きかけて少し火を元気にしてからコンロの栓をひねると、「ボッ」という音がして火が付く。
役目を終えた火縄は灰皿に入れておいて、自然に火が消えたら台所の隅っこに貼って、火事よけのお守りにするのが習わしだ。

無駄にコンロの火が点いているのが気にはなるが、仕方がない。
をけら火から移した火で雑煮を炊く。これが大事なのだ。

昆布を洗って水を張った手鍋に入れ、その間に金時人参と雑煮大根を切っていく。
鍋を火にかけ、沸騰する寸前で火を止めて昆布を取り出し、再び弱火にしたらそこにどっさりの鰹節を掴んで入れる。
グラグラ沸かしてはいけない。

お出汁を別鍋に濾し入れたら、そこに人参と大根を投入。
柔らかくなった頃合いで火を止めて、白味噌を溶き入れる。
ちょっと甘いかな~?位がちょうどいい。

これで雑煮の準備は完成。
僕はコタツに入り、裏の白いチラシにマジックでメモを書いた。

────
あけましておめでとう!
雑煮の用意あるから食べて。
1.鍋温める
2.冷蔵庫にあるお餅入れる
3.柔らかくなったら完成
4.最後にこの糸カツオ乗っけて食べる
────

メモの上に糸カツオの袋を乗っけたら、僕も歯を磨いてもう寝ないと。

◇    ◇    ◇    ◇

元旦、起きるともう舞子はバイトに出かけて居なかった。
台所の水切り棚にお椀が伏せてある。
鍋を見ると、白いお汁が少し減っていた。

コタツの上に、舞子の字でメモが残っていた。

────
あけましておめでとう
お雑煮美味しかった
ごちそうさま
行ってきます!
P.S.きなこどこ?
────

昭和64年の正月だった。

◇    ◇    ◇    ◇

「夕方には帰ってくるけどな。」

と言っていたのに、親戚の集まりで飲まされた酒と、翌日は地元の悪友連中との朝まで続くビリヤード大会で、僕が出町柳のアパートに戻れたのは3日の朝になった。

──元日の夜、

「あ、舞子、ちょっとお酒飲まされて運転できなくなったから、明日の朝に帰る」

と電話すると、舞子は

「大丈夫だよー。私は明日も午前中バイトだし、お雑煮もまだあるし、ゆっくりしてきて」

と言った。
電話の向こうで「信長様!」という真田広之の声が聞こえた。

──2日の夕方は、悪友たちに

「なんやなんや、女かぁ?」

と冷やかされながら唐崎のテンイチのピンク電話から出町柳のアパートの電話番号を回した。
2回鳴らして1回切ってかけ直す。

「あ、ハルくん、どうしたの?」

舞子の声だ。ホッとする。

「ああ、それがな、ごめんけど…」

僕が事情を話すと、舞子は

「そっかー。分かった。じゃあ私も遊びに行こうかな。バイト先のお姉さんのトコ泊まりに行って、明日はそのままバイト行くことにするよ」

という。
最近良く話に出るお姉さんだ。

「ほな、昼までには帰るから、そっから初詣どっか行こ」

「分かったー。楽しみー。じゃハルくん、お友達と楽しんでねー」

そう言って電話は切れた。
席に戻ると案の定詮索でうるさかったが、全部無視した。
朝までビリヤード。久しぶりに、それはそれで楽しみかった。

◇    ◇    ◇    ◇

「ただいまー」

舞子が帰ってきた時、僕は爆睡していた。
昨夜は結局朝5時までビリヤードをやって、全員が同じ回数ずつ9を落として勝負つかずで解散し、僕はそのまま1号線から山科、三条通経由で6時に部屋に帰り着き、ベッドに飛び込んだのだ。

「あ、ん?舞子?あ、もう昼か…おかえりー。」

「あけましておめでとうございます」

「こちらこそ、あけましておめでとうございます。本年もよろしく」

かしこまって新年の挨拶をして思わず顔を見合わせて笑う。

「あ、これモーニングの残りのパン貰ってきたやつ。一緒に食べよ」

そう言って舞子はリュックから美味しそうなパンを取り出した。
正月も3日ともなると客も減ってきたようだ。

僕はコーヒーとミルクティを淹れ、バターたっぷりのスクランブルド・エッグを作り、冷蔵庫のシャウエッセンを茹で焼きにして皿に盛り付けた。
冷蔵庫に年越しをしたトマトがあったので、それもくし切りにして乗っける。

「ほな、これ食べたら初詣行こか」

「うん!どこ行くの?」

「う~ん…下鴨神社、は、すぐそこ過ぎてなんか愛想ないし、平安神宮でもええけど、舞子がまだ行ったことないとこ…あ!伏見稲荷どう?」

「伏見稲荷!聞いたことある!すっごいたくさん赤い鳥居があるトコだよね!行きたい!」

「おっけー。ほな決定!」

「伏見だよね?車で行くの?」

「いや、まだ三が日やし、車は絶対にあかん。大渋滞で近づくこともでけへん」

京都に住んで初めての正月の一昨年、無謀にも車で伏見稲荷を目指して、結局たどり着けずに帰ってきた。
去年はそれに懲りて、タツヤ達と大晦日から車を飛ばして串本まで初日の出を迎えに行ったんだっけ。
帰りに寄った那智本宮大社は、もちろん結構な混雑だったけど、京都の神社に比べたら全然可愛いものだった。

「三条まで自転車で行って、そこから京阪やな。そしたら伏見稲荷の駅まで10分で着く」

「そんなに近いの?もし車で行ったら?」

「12時間くらいかな…」

「日付変わっちゃう!」

2人で大笑いしてアパートの駐輪場から自転車に乗って川端通りを三条へ。
昼下がりの三条の街は、初売り帰りの紙袋を下げた人や、晴れ着姿の家族連れで賑わっていた。
自転車を押して京阪三条駅に向かうと、ホームはすでに人で溢れていて、僕達はその波に押し込まれるように電車に乗り込んだ。

「うわ、ぎゅーぎゅーだね」

舞子は少し息を弾ませながら吊り革に手を伸ばす。

「正月やしなあ。けど、伏見稲荷はもっとすごいで」

言葉どおり、伏見稲荷駅に降り立った瞬間、さらに濃い混雑が広がっていた。
改札を出ると、すでに参道へと押し流されるように人の波が続いている。
焼きとうもろこしや甘酒の匂いが漂い、狐のお面や狐の置物を並べる店先に呼び込みの声が響く。

「わぁ、狐のお面かわいい!ちょっと見てもいい?」

「帰りにゆっくり見よ。まずはお参り」

「はーい」

朱塗りの楼門にたどり着くのも一苦労だった。
本殿前ときたらもう、押すな押すなの人混みで、やっとの思いで賽銭を投げ入れる。
二礼二拍手一礼。
僕が顔を上げても、舞子はまだずっと手を合わせて目を瞑ったままだ。

「エラい長い間、何お願いしてたん?」

やっと顔を上げた舞子に訊く。

「内緒」

とはぐらかされた。

「あ!おみくじ!」

舞子はおみくじ売り場に走っていった。
神妙な顔でおみくじを開く。

「吉だって!よかったー」

続いて千本鳥居へ。朱色の鳥居のトンネルは人の肩と背中で埋まり、ゆっくりとしか進めない。

「結構きついな」

「そうだねー」

「舞子、上まで行くんなら今日は付き合うで。金毘羅さんの名誉挽回や」

「今日は適当なところで折り返しでいいよー」

確かに人だらけで、登るというより押し歩きの行軍に近い。
僕達はもうしばらく登ったところで、折り返すことにした。

参道に戻ると、屋台の匂いにまた腹が鳴る。

「あ、すずめの丸焼きやって!そういえば高校の時、伏見工業との練習試合で伏見来て、ここにそんな店あるって聞いたわ」

店の前では、竹串に刺さったすずめが炭火でじゅうじゅうと音を立てている。

「ご、ごめん、これは無理!」

姿そのままの焼き物を前にして、舞子は思わず顔をしかめた。

「はは、確かにインパクト強すぎるな。僕もやめとこ」

そのまま少し歩き、赤い暖簾の老舗「日野家」へ。
大正五年創業の食事処は、赤い絨毯の階段と木のテーブルが年季を感じさせる。

運ばれてきたきつねうどんは、大きなお揚げが一枚どんと乗り、優しい出汁の香りが湯気とともに広がった。
セットのいなり寿司を頬張った舞子は、頬を緩ませて言った。

「んー、すごく美味しい!やっぱり稲荷は“きつね”だね」

「せやな。やっぱりここに落ち着くわ」

窓の外にはまだ参道の賑わいが続いている。
舞子がいなり寿司をもう一つ頬張って、嬉しそうに目を細めた。
僕はその横顔を見ながら、やっぱり正月はこうでなくてはと思った。

参道のざわめきと、朱の鳥居の残像と、目の前のあたたかな出汁の香り。
どれもが混じり合って、これぞ正月の京都やな、としみじみ思った。

────昭和が終わったのは、その4日後だった。
テレビの中でメガネを掛けた四角い顔のおじさんが、「平成」と書かれた額を掲げていた。
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 高校一年生の女の子である『私』はアルバイト先が同じだった事から同じ高校に通う別のクラスの男の子、杉本と話をするようになった。杉本は『私』の親友である加奈子に惚れているらしい。「協力してくれ」と杉本に言われた『私』は「応援ならしても良い」と答える。加奈子にはもうすでに別の恋人がいたのだ。『私』はそれを知っていながら杉本にはその事を伝えなかった。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

私の守護霊さん『ラクロス編』

Masa&G
キャラ文芸
本作は、本編『私の守護霊さん』の番外編です。 本編では描ききれなかった「ラクロス編」を、単独でも読める形でお届けします。番外編だけでも内容はわかりますが、本編を先に読んでいただくと、より物語に入り込みやすくなると思います。 「絶対にレギュラーを取って、東京代表に行きたい――」 そんな想いを胸に、宮司彩音は日々ラクロスの練習に明け暮れている。 同じポジションには、絶対的エースアタッカー・梶原真夏。埋まらない実力差に折れそうになる彩音のそばには、今日も無言の相棒・守護霊さんがいた。 守護霊さんの全力バックアップのもと、彩音の“レギュラー奪取&東京代表への挑戦”が始まる──。

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