井戸端会議

鏡子 (きょうこ)

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メルマガが来て、突然思い出したこと。

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タイトルが何とも、強烈でした。



「天皇を潰したかった組織」


// 編集部からのお知らせ //

10月26日、ついに結婚を迎える、
小室圭さんと眞子様。

世間を大きく騒がせた
この皇室問題ですが、、

実は、同じような話が
100年前にもありました...

100年前の皇室問題は
どんな末路を辿ったのか...?

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野坂参三と共産党
from西鋭夫

世論を読み間違えた共産党

共産党は容赦なく、
天皇に激しい非難を浴びせ続けた。

共産党の攻撃は、エマーソンによると、
「逆に日本人の心を傷つけ、
 天皇擁護の気持を強めさせた」

陸軍省軍事情報局も、
秘密報告書の中で同じような分析をしている。

当時行なわれた世論調査によると、
言論を抑圧されていた知識階級ですら、
天皇制反対は僅かに10パーセントにすぎなかった。

マッカーサーも
「日本国民の95パーセント以上は
 明らかに天皇制を存続しようとしている」と認めている。

天皇は、日本国民にとって
余りにも神聖な存在だった。

天皇を侮辱することは、
国民の強い反感をかった。

国民には既に別の「悪者」がいた。
戦争に敗けた軍国主義者たちだ。

日本共産党はこうした国民の感情を読めなかった。

読み違った。

共産党の読み違いは、
マッカーサーの「勝ち」となる。

というのも、共産主義者たちは、
マッカーサーの「民主主義」で合法化されたが、
依然として国民には嫌われた。
マッカーサーの思う壷であった。


手品師・野坂参三

野坂参三が、
1946年1月12日、
中国の延安から釜山(プサン)経由で、
帰国した。引揚船「黄金丸」で博多港に上陸した。

野坂の父が付けた名は
「参弎(さんぞう)」であったが、
帰国2日後の1月14日、自ら「参三」と改めた。

野坂参三


野坂は、慶応義塾を卒業し、
1919(大正8)年にイギリスに渡り、
イギリス共産党に入党した。

そのため、イギリスから追放され、ソ連に入る。

1922年、帰国し、慶応の講師となり、
日本共産党結成に参加する。

1931(昭和6)年、
神戸から夫人とともにソ連に逃亡し、
モスクワでコミンテルンの中央委員に選出された。

アメリカ陸軍省軍事情報局の秘密報告書
『インテリジェンス・レビュー』誌(1946年4月11日)によれば、

野坂は、1935年、密かに帰国し、
地下工作を43年まで続けたあと、
また、中国に戻り、日本軍に対する抵抗戦線に従事した。

日本軍を敵として戦ったので、
マッカーサーから帰国を許されたのだろう。

野坂は、博多に上陸した2日後、
1月14日、マッカーサー司令部に表敬訪問をしている。

卓越した政治的「手品師」である野坂は、

「共産党は大衆と国民の党であらねばならない。
 それには人民から愛される党であり、
 共産党と聞いて国民が逃出すような印象をあたえてはならない。
 もしそのような事があればそれは吾々党員の罪だ」と宣言した。

スタンフォード大学
フーヴァー研究所教授
西鋭夫

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