満月に導かれて…

鏡子 (きょうこ)

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謎のプロジェクト

日本人には馴染みのない、禅僧、詩人だ。

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寒山・拾得(かんざん・じっとく):


中国唐代の禅僧、詩人(7世紀ごろ)。二人は浙江省天台(テイエンタイ)山近くにともに住んだという。
奇行が多く、神秘化され、さまざまな伝説が加わった。
禅画の画題とされ、森鴎外に同名の小説がある。
《新世紀ビジュアル大辞典より》

寒山は、中国・唐代に浙江省の天台山に住んでいた平民詩人。
寒山には、拾得(じっとく)という友人がいた。

拾得は、天台山国清寺で、食事の労務に従事していた行者(まだ度牒を得ていないため、剃髪の僧となっていない修行者)であった。
両人ともに、氏姓も郷里も明らかでない。

拾得は、国清寺の豊干(ぶかん)禅師が路傍から拾ってきて寺に住まわせたという。

寒山は、始豊県(天台県)の西70里の山中にある寒巌の幽洞に住んでいたので、寒山(子)と号した。

やせこけて、樺皮の冠をつけ、破れ衣に大きな木靴をひきずり、貧窮零落した風狂人のような寒山は、ときどき国清寺に来て食事係の拾得から竹筒に入れておいた残飯を貰っていくが、寺の廊下で大声で騒いだりするので、寺僧が追い払うと、大笑して警句などをはいたりして去った、という。

拾得も、寺の護伽藍神廟に供えた食物が、鳥にあらされるのを見て、食物さえ守れないお前に伽藍が守れるか、と神像を殴り倒したりする奇行で衆僧を驚かせ、「非常の人」と思われ、賢士と称されるに至った。

たまたま、台州刺吏・閭丘胤(りょ・きゅういん)が、頭痛に苦しみ、豊干の治療を受けた時に、豊干から「天台山に寒山文殊、拾得晋賢なる賢者あり」と聞き、みずから登山して国清寺に至り、寺の台所でかまどの火に向って大笑している二人を見て礼拝した。
寒山・拾得は手をとりあって「豊干のしゃべり」と笑い叫びながら走り去り、寒巌の隙間穴に入ってしまったという。
閭丘胤は、僧・道翹(どうぎょう)とともに、寒山が竹木や石壁に書きつけておいた詩200余首を編纂し<寒山子詩集>と名づけた。

この詩集は唐末宋代にかけて、風格の高い隠士の詩として盛んに伝えられ、禅僧の間にも、これを通じて禅の悟境を味わうものが少なくなかった。

北宋時代、天台山では、三賢院があり、虎を従えた豊干と、俗形の寒山・拾得が祭られ、それぞれ阿弥陀仏、文殊菩薩、普賢菩薩の三聖の化現だ、とされていたもので、日本の入宋僧・奝然(ちょうぜん)、成尋(せいじん)もこれに詣でている。
三賢は水墨画の画題ともなって名品を残している。
三賢の事績を伝えるものに、<寒山詩集>を始め、<宋高僧伝><景徳伝統録><仏祖統紀><天台山国清禅寺三隠集記>など少なくないが、どこまでが史実であるかは分からない。
《アジア歴史事典より》
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