満月に導かれて…

鏡子 (きょうこ)

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伽耶

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=== アヨーディヤーとの関連 ===
『[[三国遺事]]』をはじめとする朝鮮史書では、金官国の初代[[首露王]]の妃は、[[阿踰陀国]]([[サータヴァーハナ朝]])人の[[許黄玉]]であり、第2代[[居登王]]の妃も許黄玉についてきた泉府卿[[申輔]]の娘の[[慕貞]]であり、第3代[[麻品王]]の妃も許黄玉についてきた宗正監[[趙匡 (金官伽倻)|趙匡]]の孫娘の[[好仇]]である。[[1892年]]に[[林泰輔]]が執筆した『朝鮮史』では、[[首露王]]と夫人の許皇后がインド人で、インドから朝鮮南部にきたことを論述したが<ref name="李 2005 228">{{Harvnb|李|2005|p=228}}</ref>、これは「考証がかなり煩雑しているので、他日を期してこれを詳論する」と述べ<ref>『朝鮮史』巻2第3編第6章、p24-p25</ref>、後日論文「加羅の起源」と「加羅の起源続考」において詳論した。「加羅の起源」では、仏書に散見される同様の事実を例に挙げることから論じ始め、『[[駕洛国記]]』に記された[[天竺]]阿踰陀国の王女許氏を根拠にして、加羅はインド人が切り開いたとする<ref name="李 2005 228"/>。「加羅の起源続考」では、朝鮮古代卵の史籍([[赫居世居西干]]・[[東明聖王|鄒牟王]]・[[首露王]]・五伽耶王・[[脱解尼師今]])と、インド古代の卵の史籍(『賢愚因緑経』・『[[法苑珠林]]』・『[[唐書]]南蛮伝』・『[[大越史記全書]]』・『[[山海経]]大荒南経』・『[[大明一統志]]』・『{{日本語版にない記事リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』・『[[後漢書]]』 )を比較して、その類似性を取り上げ、「古代にインド人が[[マラッカ海峡|馬刺剌加海峡]]を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」とする<ref>「加羅の起源続考」『史学雑誌』5編3号、p68</ref>。また、『朝鮮史』では、「これからすると、駕洛地方はつまり朝鮮南部の開地で、かつてインドの風化に浴した者であり、高句麗地方はつまり朝鮮北部の偏地で支那文明の余光を依頼する者である。......此説は前人のまだ道破していないところである。」とする<ref>『朝鮮史』巻2第3編、p24-p25</ref>。そして、朝鮮は開国の初めから中国を含む日本・インドなどに支配され、特に加羅はインドから影響を受けたとする<ref>{{Harvnb|李|2005|p=234}}</ref>。
 
加羅がインド人によって建てられたとする[[林泰輔]]に対して、[[白鳥庫吉]]は「氏は僧侶輩が捏造した仮作的な物語を真正の[[口碑]]と誤認」しているとして、[[モンゴル]]の説話にも似たようなものが見られ、[[林泰輔]]の論理だと、モンゴルもインド人が開拓したと言わなければならないとする<ref>「朝鮮の古伝説考」『史学雑誌』5編12号、p15-p16</ref>。
1990年代になると加羅研究の対象が従来の金官国・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、[[田中俊明 (歴史学者)|田中俊明]]の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大加羅を中心とする加羅そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見<ref name="zenpou"/> を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されている。
 
[[井上秀雄]]は、任那日本府は『[[日本書紀]]』が引用する[[逸書]]『百済本記』における呼称であり、『百済本記』とは百済王朝が倭国([[ヤマト王権]])に迎合的に書いた史書だとの主張した。これ基づき、井上は日本の従来研究を否定しようと試みている<ref name="inoue1067">井上2004 pp.106-107.</ref>。任那日本府について近代での[[朝鮮総督府]]のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団だとした<ref name="inoue1067"/>。[[三国志 (歴史書)|三国志『魏志』]]韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする<ref name="inoue1067"/>。逸書『百済本記』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国([[(ヤマト王権]]))とを結びつけたのであり、任那日本府とヤマト王権は直接的には何の関係も持たないとする仮説を打ち出した<ref name="inoue1067"/>。
 
高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある。[[吉田孝]]によれば、「任那」とは、[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために[[百済]]・倭国([[ヤマト王権]])と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、[[532年]]の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、[[562年]]の大加羅の滅亡で拠点を失ったという(→吉田1997 pp.74-78.)。
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