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第6章 政略結婚と死の連鎖について

12.ナバラ王の地位を奪われた者、奪った者

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フェルナンド2世が亡くなったのは、フアン3世の死の9日後で、
王の称号を持つ2人の死が接近しているのが、非常に気になります。


復習を兼ねて、フェルナンド2世の経歴を記述しますね。


1461年、フェルナンドが9歳のときに異母兄カルロスが死去し、アラゴンの王太子となった彼は、
1468年、父からシチリア王位を継承し、シチリア王フェルディナンド2世が誕生しました。


1469年10月19日、カスティーリャ王女イサベルと結婚しました。

この婚姻関係の効力として、1474年にイサベルが、女王に即位したのに伴い、フェルナンドは、カスティーリャ共治王として君臨するようになります。

(※カスティーリャ王としては、フェルナンド5世)


結婚以前の彼は、アラゴン王である父を補佐し、対フランス王国戦に従事していましたが、結婚後は、イサベルと共にカスティーリャ国内の統一に努め、イスラム教国グラナダ王国との決戦を最優先とする方針を固めたそうです。


1511年10月、ローマ教皇ユリウス2世の提唱する対フランス戦同盟(神聖同盟)に参加しました。


その一方で1512年には、ピレネー山脈の西部にあったナバラ王国を占拠してカスティーリャへ併合しました。


その結果、イベリア半島はスペイン(カスティーリャ=アラゴン)とポルトガル王国の2国だけとなりました。


ナバラ王フアン3世と女王カタリナは、一時的にフランスへ逃れ、その後もたびたび領地を奪還しようとして出兵が繰り返されたそうです。


フェルナンド2世は、
1512年に、ナバラ王国を占拠し、カスティーリャへ併合…
フェルナンド2世は、ナバラ王にも、なりました。


元々、ナバラ王国の王であったファン3世が、4年後の1516年の6月に、亡くなり、新たな王となったフェルナンド2世は、ファン3世の死の9日後に、亡くなりました。



歴史書には、王の称号を持つこの2人の大物の死因は、記されていません。



ナバラ王の地位を奪った者と奪われた者、因縁を持つ2人の死について、2人の死には、何らかの関わりがあるのではないか?というのは、推測されるところです。


2人は、争っていたのですから。


ファン3世は、ナバラ王国を取り戻そうとし、また、フェルナンド2世は、せっかくカスティーリャ王国に併合したナバラ王国を取り返されたくないと思うのは、お互いの心情でしょう。

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