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1942年にタイムスリップ
私は、太平洋側、太平洋クラブ、太平洋セメント、太平洋フェリー、太平洋海運、太平洋金属、太平洋興発、太平洋クラブライオンズではなく…
しおりを挟む太平洋戦争に、こんな大義があるなんて知らなかったです。
日本軍政下の活動
太平洋戦争の開戦前後、三浦は日本に帰国。しかし、1942年(昭和17年)に召集を受け、同年2月、陸軍第48師団今村隊の随員として、再びバリ島サヌール海岸に上陸した(バリ島沖海戦)。三浦は、現地の王族たちを集めて、太平洋戦争の意義を通訳し、また自らも演説するなど宣撫工作に従事した。この頃の三浦は、太平洋戦争の大義を信じており、次のように語ったという。
この戦争は、バリ島はもちろん、アジア10億の解放運動であり、それぞれの所を得せしめる戦いである。インドネシアは必ず日本軍の力で独立させるのだ。日本は決して嘘をいわない。[3]
まもなくバリ島の治安は回復。当時の軍政にあたった堀内豊秋は、三浦に全幅の信頼を置き、住民統治の仕事を委ねた結果であると記している[4]。
また、1942年5月に、バリから他の軍政地域への牛豚の移出が計画されると、三浦はこれに参画し、バリ畜産会を設立。さらに、食品加工後の残骸から歯ブラシや釦の製造を行なう三浦商会を立ち上げた。これらの業務は、具体的実務のいっさいがバリ人に委ねられ、三浦はそれを監督し、軍に対して責任を負う方式が採られた[5]。 これらのほかにも、三浦は、通訳や民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役として活躍するようになった。たとえば、三浦は、日本軍人がバリ人をぞんざいに扱った事件を憤慨の気持ちとともに数多く日記に書き留めており、バリ島の陸軍慰安所に拘引された女性を自らの力で取り返したこともあった[6]。 現地バリ人との交流については、とりわけ後にインドネシア独立後の初代バリ州(小スンダ州)知事となったイ・グスティ・クトット・プジャと親しく交わった。
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