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2020.08.21
知られざる「創共協定」の舞台裏とは――『池田大作と宮本顕治』の著者・佐高信さん寄稿


 信じることから出発する創価学会、資本主義体制を疑い、変革を望む日本共産党。対立関係にあった両者が手を結んだ「創共協定」は一九七五年の公表時、日本中に衝撃を与えました。

この協定は発表直後から死文化の道をたどったが、その裏ではどんな思惑と策謀が渦巻いていたのでしょうか。池田大作と宮本顕治に焦点を当てながら、「創共協定」誕生と破綻の舞台裏をさぐる平凡社新書『池田大作と宮本顕治』の著者である評論家の佐高信さんに、本書を執筆するきっかけを寄稿していただきました。

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裏切られたのはどちらだったのか?

 1975年に創価学会と日本共産党が「創共協定」を結んだことはほとんど忘れられている。

創価学会のドンの池田大作と共産党のトップの宮本顕治が松本清張の仲介で会い、それぞれの立場を尊重しながら強調し合うことを誓った。

 池田と宮本の対談は『毎日新聞』に連載され、この年の暮れに『人生対談』(毎日新聞社)として刊行されたが、友好的な雰囲気で進められている。

「私があなたと初めてお会いしたのは、実は20年ぐらい前なんですよ、1対1で」
 池田にこう話しかけられて宮本は驚く。

 1955年の衆議院議員選挙に東京1区から出た宮本の選挙演説を池田が聞いていたというのである。国電市ヶ谷駅近くの食堂の前だった。当時、25、6歳だった池田が友人と通りかかり、「道を求める青年として、社会主義の指導者の話にも関心を持っていた」池田は友人と別れて、1人で宮本の前に立った。聴衆は結局、最後まで池田だけだったとか。
 対談はほのぼのとしたものだったが、池田が創共協定を結ぼうと思ったのは、藤原弘達の『創価学会を斬る』(日新報道)の出版妨害問題で、特に共産党から激しく批判されたのをかわすねらいからだった。

 だから、公明党の矢野絢也などには、共産党批判は構わずにやれとけしかけていた。

 「自分から協定を結ばせておいて、この二枚舌。ひどい話である」と矢野は呆れているが、結果的にこれは成功した。共産党は学会批判を控えたからである。のちに池田は「創共協定がなかったら公明党は存在していない」と語っている。







1975年


創共協定⁈



そんなの知らないよ。
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