鷹は東風と大地を駆ける

隆駆

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そのまま何事もなく峠を越え、そこから少し歩いた後。
街へ続く道と、都へと続く山道との分かれ道の前で馬を止めた張居。

「ここから街まではもういくらもありません。
先を急ぐというのであれば、もうここでお二人とは別れたほうが良いでしょう」

世話になった礼だと、懐から幾ばくかの金銭を取り出した張居は、やはり気は変わらぬのかといった様子でちらり東風の様子を伺い、その頑固な姿勢に「はぁ」とひっそり溜息を吐く。

別れは惜しいが、このまま引き止めたところで思うような結果は得られまい。
何事も引き際が肝心だ。

「この先は先程も言ったとおり、人食い虎の出る山道。
もし道中で身の危険を感じたならば、いつでも道を引き返して、我が家へ訪ねてきてくださいね。
街のものに、『張居の屋敷はどこか』と尋ねれば、大抵のものが我が家へと案内してくれることでしょう」

うぬぼれではないが、商人として一代で身を立てた張居は、あの小さな町ではなかなかの有名人だ。

「お二人共まだお若いのですから、くれぐれも命は大切に。
無理はなさらず、どうかお気をつけて」

そう言って名残を惜しみつつ丁寧に頭を下げた張居に、どことなくそわそわとしながらも、「うむ…」とかしこまって返事を返す東風。

流石に峠を越えたところで北鷹の背中からは下ろされていたが、それでも体力がすぐに回復するはずもなく、けろりとした様子の北鷹とは違い、随分と疲れた顔をしている。

北鷹の背中の上で散々「降ろせ降ろせ!」と騒いでいたくせに、実際に下ろされるとなると今度は名残惜しそうにその背中をちらちら見上げているのだから、本当に子供のような男だ。
我が儘なくせになんとも憎めない愛嬌があるのだから、張居としては微笑ましいやら呆れるやら。

田舎に残してきたという両親は、この息子のことをよほど可愛がって育てたに違いない。
だからこそ東風もまた、その両親の期待に答えようと、こうして努力を惜しまぬ姿勢を見せているのだろうが、果たしてこんな調子で、本当に科挙に合格できるのか。

科挙とは実に狭き門であり、その倍率はおよそ300倍とも言われる難関。

試験を監査する役人への賄賂が横行し、東風のように田舎から科挙を受けに来たものの中には、思う結果を出すことができず、失意のあまり、自ら死を選ぶものも決して珍しくはない。

試験会場では、科挙を受けるために郷里へと残された妻や恋人が、鬼となって受験者を祟るという噂まである始末。

張居としては、そのような無理をさせることなく、叶うならば、ここで彼らを引き止め、真っ当な職を斡旋してやりたいところ。

だが、夢に目がくらんだ若者に、そのような道理が通用するはずもないこともまた、彼は十分理解していた。

「たとえ夢敗れたとしても、人生の終わりではありません。
郷里で待つご両親のことを忘れることなく、どうぞご無事でお戻りください」

最後にそう告げるに止め、張居はもう一度丁寧に頭を下げると、分かれ道を一人、馬を引きながら歩いて行った。


                          ※

「張居殿の世話にならず、本当に良かったのか?東風殿」

二人が山のの登り口に差し掛かる頃、とうとう日は完全隠れ、あたりは真っ暗に。
人食い虎の話を聞いたせいか、先程からずっと物音に怯え、ビクビクと辺りを伺う東風に、北鷹もすっかり呆れ気味だ。
それほど恐れるのなら、今宵無理に山を越えず、一晩張居の世話になって朝方再び出発すればよかったものを。

「む、無論、男に二言はない!!」
「ふむ……」

震えた声で叫ぶくらいなら、いっそ前言を撤回してくれた方がよほどましなのだが、そこは東風を立てあえて見て見ぬふりをする北鷹。

「だ、だがそなたがもし、も、もしも危険を感じたというのならば、戻ってもやっても良いのだぞ?
張居殿もおっしゃっていたが、何事も命あっての物種だからな!」
「ーーーーーでは先を急ぐとしようか、東風殿。
これ以上暗くなれば、なれぬ山道で道に迷う危険性も高い」
「!?」

東風としては、北鷹の口から「街へ戻る」という言葉が出るのを期待したのだろうが、戻るにしてもここまで来ては既に手遅れ。
むしろ一刻も早く山を越えてしまったほうが安全だ。

「これ以上歩けぬというのならまた背中を貸すが、どうする?東風殿」


これまでは東風に合わせゆっくりと歩いていたが、それでは到底間に合いそうもない。
青ざめていた顔を今度は赤らめさせ、「け、結構だ!」と叫ぶ東風には悪いが、ここはまた無理にでも背にーーーーー。

しれっとした顔で北鷹がそう考えた、その時だった。


ガサッツ………!!!

明らかに風の音ではない。
そう判断した瞬間、北鷹は懐に忍ばせた刃物を引き寄せ、無意識のように東風をその背に庇う。

「と、虎か…!?」
「いや……」

恐らく、違う。

張居の想像したとおり、飛び上がって北鷹の背中に張り付いた東風が、その肩口から物音が方向を見つめるが、一見そこにはなんの姿もない。

「そこに誰かいるのか?」
「お、おい!!」

ためらいなくその方角へ向かって声をかけた北鷹に、東風の顔色は真っ青だ。

「虎だったならばどうするのだ!!声を掛けるなど、ここに餌がいると教えているようなものだろう!」
「生憎だが、相手が虎ならばこの距離では既に手遅れ。東風殿ならば、とっくに喉元を引き裂かれている頃であろうな」
「なに!?」

なんということを申すのだ、と気色ばむ東風。
だがそれはまごうことなき真実。
相手が人食いの獣であれば、とっくにこちらに気づいているはず。

ガサガサガサガサッツ……。

「ヒ、ヒィ…!!」

すぐ近くから聞こえた物音に今度こそ悲鳴を上げる東風。
咄嗟に木々に覆われた草むらの一部をすっと睨んだ北鷹だったが、そこからぴょこんと飛び出したを見て、その緊張が一気ににほぐれた。

あれは。

「東風殿、あれをご覧」

相変わらず目をつむったまま、自身の背中に縋り付いている東風の頭をぽんと叩き、前を見ろと促す。

「虎ではない。あれは、人だ」

物音がした草陰から微かに見えたのは、揺れる大きな竹かご。
斜めに揺れているところを見るに、恐らく誰かがかごを背中にしょっているのだろう。
当然ながら、虎がかごなど背負うはずがない。

「お、驚かせおって!!おい、そこのお前、さっさと出てこぬか!!」

虎ではないとわかり、すっかり安心した東風が勢いのままに大声でかごの主を誰何すれば、ガサガサという物音と共に、「うるさいな、こんなところで大きな声を出すなんて馬鹿かよ」という、こちらを小馬鹿にしたような高い声が。

「な、何をぉ!?」
「東風殿、こらえよ。確かにこれはこちらが悪い」
「だろ?そこのあんたならわかるよな。バカをバカと呼んで何が悪いんだ、この大馬鹿野郎」

そう悪態を吐きながら、ようやく姿を現した、かごの主。

それは。

「……子供、か?」
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