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第3章

芋虫奮闘記

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ある日、私は庭で最も恐れていた敵と対峙した。名を芋虫という。彼らは小さな体で大きな存在感を放ち、私の庭を占領しようとしていたのだ。

「今日こそは!」と意気込んで戦いに挑んだものの、彼らの数に圧倒され、私の心は折れかけた。しかし私は、あと25年のローンを抱えて買った一軒家の主婦だ。
プロの主婦なら、毅然とした態度を崩してはならない。そう、私には秘密兵器があるのだ。

長袖に手袋、そして箸とスコップを武器に、私は芋虫との壮絶な戦いを繰り広げた。一匹、また一匹と勇敢に戦い始めた。
しかしあいつらって、倒せば倒すほど数が増えるし、動きが気持ち悪いし、触りたくないから、いちいち箸でつまむが、ふにゃふにゃもぞもぞ動き回るし、何で丸まるの?何でぐにゃぐにゃキモい動きするの?大人しく挟まれてりゃいいのにと思う。

その生理的嫌悪感に、心拍数が上がり、両手は震え、嫌な汗が噴き出て来た。
それでも私は平静を装い、通りかかった近所の奥さんに、「こんにちはー。」と笑顔で挨拶をし、「庭掃除ですか?精が出ますね。」と言われ、「はい。」と元気よく返事をするが、その実、心の中はギャン泣き状態だ。
とは言え、いい大人がご近所さんに、こんな事では頼れない。女は灰になるまで女。本当は女性なら誰だって、こんな物に平気でいられるはずなどないのだ。
ぶっちゃけ幾つになっても、苦手なものは苦手なのだが、立ち向かう勇気を持とう。昔、好きだったアニメの主人公に心を馳せた。

「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ・・・。」心は完全に、何とかゲリ〇ンの主人公状態で、臨戦態勢に入った。

それにしてもあいつらって、何で次々とわらわら出て来るの?何で数で勝負するの?1人対大勢って、卑怯だと思わない?と、たかがか弱い子虫でありながら、擬人化し始めている私よ、落ち着こう・・・。
私の事、舐めてかかってるんでしょう?あんたが一人なら、秒殺される事を本能的に理解してるから、数の暴力で来るんだよね。と、たかが小虫相手に一人称を使ってしまう程、本心ではビビりまくりながら、それでも確実に退治していくのだった。

本当を言えば、芋虫にとって最悪の天敵は人間なのかもしれないが、人間だって怖いのだ。だって、人間だもの。
それにしても、数の暴力って、本当に卑怯極まりなくて、超ムカつく。大嫌い!消えてなくなれ!と、大人げない心の声はまるでギャル状態かもしれないが、マジで神よ許し給えとしか言いようがない。

敢えて殺虫剤は使わない。小規模ながら家庭菜園もしているし、殺虫剤など掛ければ、もっと沢山の芋虫達が湧いて出て来るのだ。芋虫達も運良く、私の目に留まる事なく生還すれば、綺麗な蝶々に成長するんだという希望もまた、与えてあげたいのだ。

そんな風に、芋虫憎いが蝶々は綺麗という相反した気持ちを抱きつつ、芋虫対私の、仁義なき戦いが峠を越えた後、私は奇妙な痒みを感じ始めた。これは芋虫の呪いか?いや、それは精神的な嫌悪感から来るものだった。芋虫に触れていないのに、なぜか体中が痒いのだ。
「若い子なら、彼氏に甘える大チャンスだけど、おばさんは…」とつぶやきながら、私は一人で痒みと戦った。そして気づいた。おばさんだって、時には甘えたい。そう思っていたら、雨が降って来たので一旦休憩する事にした。

チョコレートケーキの甘さに甘えながら、ハーブティをすする。何も知らない働く主婦から見れば、何とも優雅なティータイムに映るだろうが、内実はボクサーのインターバル状態である。
PCや電話や人間は、あんな風にもぞもぞと、生理的に気持ち悪い動きはしない。まあ、そんなOA機器や上司・同僚・後輩ましてや取引先の人間が、いたら嫌だの世界ではあるが。

そして、更に記憶をさかのぼり、結婚する前の若き時の、二人の関係を思い返した。私に襲って来たGを、ゴルゴ13のように殺虫剤で仕留め、守ってくれた私の夫。虫が出て来て怯えている私の事を、いつだって責任を持って守ってくれた。
雷が怖いと言えば、彼が買い物に行ってくれたし、ジェットコースターは苦手と言えば、コーヒーカップで我慢してくれた。「君の事は僕が守るよ。」という、今時古いプロポーズの言葉かもしれないけど、そんな古風な彼の事を、私は愛と尊敬の気持ちで受け入れた。
そして、彼と一緒にいる事で、私も自然と強くなっていった。子供がいる今では、一軒家のローンの支払いの為に、頑張ってくれている夫。形は変わっても、私達母子の生活を守ってくれているのは、彼の変わらぬ強い責任感だ。
責任感の強さの形が変わっただけで、彼の家族を守ろうとする強い責任感は、今も全く変わっていないのだから、せめて、プロの専業主婦として、私も強くなろうと心に誓った。

「私は負けない!プロ主婦の名に賭けても!」と、心の中で力強く叫んだ。今だって本当は滅茶苦茶怖いけれど、芋虫退治くらい頑張るぞ。そして、ラインに「芋虫退治中。家に帰って来たら、子供達に内緒で頭ポンポンしてね。」と書いて、芋虫のスタンプを押した。
「リアル芋虫も、これ位可愛ければいいのに。」と心の中でつぶやいた。そうやって、夫にラインを送る事で、心の中が落ち着いた。
今夜のレシピは野菜入り牛肉の甘辛炒めだ。甘辛いたれで漬け込んである肉と野菜を、夫が帰ってきた後に、ささっと炒めるだけにしてある。これの完成品がまだフォトに残っているから、これもラインにUPしておいた。
炊き立てのご飯にも合うし、キンキンに冷やしたビールのつまみにもなる、みんなの大好物だ。夫の喜ぶ顔を思い浮かべると、何だか勇気が出て来たし、夕食の事を考えるだけで、テンションも上がって来た。
そんな風に、楽しい夕食と、家族の笑顔と、一旦休憩して食べている、甘いチョコレートケーキが思い出させる、若き日の甘い日々とをシンクロさせながら、心を癒した。

そうやって私自身を立て直した後、戦いの第二ラウンドが始まった。
まだしぶとく生きていた芋虫の残党を退治したが、ちょっと可哀想になって、「来世は人間に生まれて来て、幸せになるんだよ。」と何故か優しい気持ちも芽生えて、弔いの心を持って最後まで全滅させた。
今日はちょっとヘビーな一日ではあったが、達成感のある一日でもあった。
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