事故を起こさせない探偵 ―元刑事・天川の未来視事件録

立花 猛

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第三章

現場の温度 前編

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事件現場には、独特の温度がある。

 それは気温ではない。
 湿度でもない。

 人が何かを失った直後にだけ生まれる、
空気の重さだ。

 天川黎人は、その温度を、まだ知らなかった。



 警察学校の朝は、変わらず始まる。

 号令。
 整列。
 反復。

 だが、天川の中では、確実に何かが変わっていた。

 後藤直次の妻——後藤茜。
 事故死とされた、あの夜。

 あれ以降、天川は「見ない」ことができなくなっていた。

 訓練中、同期生の視線がどこに向いているか。
 教官が、どの言葉を省略したか。
 記録に残らない“空白”。

 すべてが、浮かび上がる。

 ——現場は、ここじゃない。

 だが同時に、
 ——ここを出る資格も、まだない。

 その狭間で、天川は立ち止まっていた。



 呼び出しは、唐突だった。

 訓練終了後、事務室から名前が呼ばれる。

 「天川黎人。至急、外来応接室へ」

 同期たちの視線が、一斉に集まる。

 好奇心。
 警戒。
 そして、距離。

 天川は何も言わず、敬礼してその場を離れた。



 応接室には、斎藤健がいた。

 私服姿。
 だが、表情は明らかに“現場の人間”だ。

 「……久しぶり」

 声が、少し硬い。

 「どうしたんですか」

 斎藤は、一瞬だけ迷ってから言った。

 「来てほしい場所がある」

 「公式ですか」

 「半分だけ」

 その言葉に、天川の喉が鳴る。

 半公式。
 それは、誰かの責任の隙間に入り込むということだ。

 「後藤さんは?」

 「現場にいる」

 それだけで、十分だった。



 車内は、静かだった。

 サイレンは鳴らさない。
 だが、急いでいるのは分かる。

 斎藤は、信号待ちの間に短く説明した。

 「死亡事件だ。
  独居男性。
  死因は、心不全」

 「……でも?」

 「部屋が、変なんだ」

 曖昧な言い方だった。
 だが、斎藤の声には焦りが滲んでいる。

 「後藤さんが、納得してない」

 その一言で、天川は理解した。



 現場は、古いアパートだった。

 階段は狭く、手すりは錆びている。
 住民たちは、遠巻きに様子を窺っていた。

 部屋の前に立った瞬間、
天川は、はっきりと感じた。

 ——温度が違う。

 玄関を開けた瞬間、
空気が、肌にまとわりついた。

 生活臭。
 湿った畳。
 そして——

 違和感。

 後藤直次が、部屋の中央に立っていた。

 「来たか」

 短い一言。
 それだけで、場が締まる。

 「学生だ」

 後藤は、周囲の刑事たちに言った。

 「今日は、見学だけだ」

 その言葉に、数名が眉をひそめる。

 だが、反論は出なかった。

 ——後藤直次という名前の重さ。



 遺体は、布団の上にあった。

 穏やかな顔。
 争った形跡はない。

 医師の見立ても、心不全。

 「事故性は低い」

 斎藤が、小声で言う。

 だが、後藤は動かない。

 視線は、部屋全体を舐めるように巡っている。

 天川は、一歩だけ前に出た。

 ——見るな。

 心の中で、警告が鳴る。

 だが、目はもう捉えていた。

 テーブルの位置。
 椅子の向き。
 ゴミ箱の中身。

 「……帰っていいぞ」

 後藤の声が、背後から落ちる。

 天川は、はっとして振り向いた。

 「今日は、ここまでだ」

 それは、拒絶ではない。
 制止だった。

 ここから先は、踏み込めば戻れない。



 外に出た瞬間、空気が軽くなった。

 だが、天川の胸は、重いままだった。

 「……すみません」

 斎藤が、ぽつりと言う。

 「本当は、見せたかった」

 天川は、首を横に振った。

 「十分です」

 だが、それは嘘だった。

 現場は、呼んでいた。

 ——また来る。

 その確信だけが、はっきりと残った。



 その夜、警察学校のベッドで、天川は眠れなかった。

 天井を見つめながら、思う。

 現場には、答えがある。
 だが、責任もある。

 自分は、まだ学生だ。
 だが、もう無関係ではいられない。

 ——半公式。

 その言葉が、
 これから自分をどこへ連れていくのか。

 天川黎人は、まだ知らない。

 だが、
 現場の温度を知ってしまった人間は、
 二度と安全な場所には戻れない。
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