2 / 52
シュレディンガーの隣人
しおりを挟む
『いやあ、今日も仏頂面ですね、先輩は』
彼女は失礼なことを言わないとダメな性分なのだろうか。指導係が私じゃなかったらすでに何度も怒られているだろう。
「そうかもしれませんね。それで報告事項というのは?」
雑談することも大事だし、否定するつもりはない。しかし、話を進めなければこの子は何時間でも雑談をしてしまうだろう。
『今日もつれないっすねえ。実は……テレワーク飽きました!」
画面の向こうで彼女は高速で左右に揺れる。ゲーム用途であろう彼女のヘッドセットもその動きに合わせて七色に輝く。なかなかシュールな絵面である。
「それは大変ですね」
スルーしよう。
『まじでつれねえ! 後輩がこんなに困っているというのにー』
「本当に困っているのなら後でメールで連絡をして下さい。別途打ち合わせの時間はいくらでも取るから」
『お、先輩のやさしぃ一面、頂きました!」
「いい加減、話をしましょう。それで、矢賀さん。報告を」
『はーい、誠司せんぱい! えーと、資料をメールで送っていると思いますので、まずはそちらを開いて頂けますか?』
矢賀後輩は、普段はあんな感じだけど、めちゃくちゃ仕事ができる。尋常ではなく頭が回り、少なくとも相手方に対してはしっかりした態度を取る。もっとも、その普段の態度のせいで色々な部署をたらい回しにされ、最終的に私の一人部署に異動し、いつの間にやら私の後輩というポジションにすっぽり収まったのである。
『……という感じなので、このままこの案件は進めたいと思います! 大丈夫ですか?』
「問題ありません。一応気づいたところはいくつかあるから、資料に適当に記載しておきました。後で確認して下さい」
『了解っす! いよっ、日本一!』
先程までの真面目な様子はどこへやら、急転直下で普段の様子に戻る。ギャップがすごいが、別に気にするほどのことじゃない。私も別に嫌っているわけじゃないし、すでに一年以上の付き合いでそれなりに信を置いている。
「一応、ありがとうございます。それじゃあ、お疲れ様。午後からもそこそこ頑張りましょう」
『ういうい、失礼しまっす!』
最後に彼女はぴしっと綺麗な敬礼をしつつ、唇からぺろっと下を出して画面から消えていった。
「よしっ、後はドキュメントだけ整えれば今日の仕事はほぼ終了だ」
時刻は13時前。今から一時間の昼休みをとって午後もさくっと乗り切ろう。
「あ、あ、あ、あ……締切りまで後、後、後……ふふふ、白紙の原稿が、後……」
私とは違って、彼女の正念場はまだまだ続くようだ。心の中で、「頑張れ」、ついついそう呟いてしまった。
しかし、隣の彼女はどんな人物なのだろうか。
昼食用にサンドイッチに使うきゅうりを切りながらそんなことを考える。お、みずみずしくて良いきゅうりだ。
彼女の職業。漫画家、イラストレーター、そういう感じの創作業の感じがする。締切りに追われていることからするとかなりの売れっ子なのかもしれない。
それ以上のこと……良く分からないな。とにかくいつも切羽詰まって叫んでいる印象しかない。
「よし、上手にできた」
牛乳とサンドイッチ。とても素敵な組み合わせだ。彼女のことを考えても仕方ないのだ、私はこれを美味しく食することに集中しよう。
しかし、冷蔵庫の中もほとんど空なので、就業時間後に買い物に行かなくては。
時刻は18時過ぎ。私の右手にはそこそこ膨らんだビニール袋。スーパーで食材を仕入れた帰りである。食材をあまり無駄にしないためにも2、3日分の量しか買わないようにしている。ちなみに今日の夕食はカレーの予定だ。スパイスで頑張るのも悪くないが、流石に面倒なのでルーで簡単に作ってしまう予定だ。
私の家の前でばったりと女子絵に出会う。背丈はかなり高いが、何より目立つのはその格好である。身体にピッタリとあった細身の黒いスーツの一方で、髪はブリーチで黄金に輝いている。目元の青色のサングラスが非常に似合っているが、一体何をしている人なのか、皆目検討つかない。
その方とはエレベーターでもそのまま一緒になり……私と同じ階で降りる。女性優先、ということで私がエレベータの扉を開閉していたことから、彼女の後ろをついていく形で通路を歩く。そして――彼女は私の家の隣に吸い込まれていった。
……なるほど。声だけで隣の彼女の雰囲気を勝手に想像しても、やはり意味のないことだったようだ。全然想像していた姿とは違ったが、特に気にするほどではない。
私はなんとも不思議な気持ちのまま、自宅の鍵を空けようとする。片手に持っているビニール袋のせいで少し戸惑っていると、隣から怒声が聞こえてくる。
「先生! もう締切りだ、早くしやがれ!」
「もう少し、もう少しだけ待って下さいー!」
……編集者さん、かな。しかし、あの金髪の方が『彼女』なのかそうではないのか――つまり編集者さんなのか――この目で確認していない以上、それは分からない。
シュレディンガーの隣人、つまらないこのジョークを聞かせる相手がいなくて本当によかった。三十路のこんな冗談なんて場を凍らせるだけだから。
ため息をついて、ようやく取り出せた鍵で僕は自室へと戻った。
彼女は失礼なことを言わないとダメな性分なのだろうか。指導係が私じゃなかったらすでに何度も怒られているだろう。
「そうかもしれませんね。それで報告事項というのは?」
雑談することも大事だし、否定するつもりはない。しかし、話を進めなければこの子は何時間でも雑談をしてしまうだろう。
『今日もつれないっすねえ。実は……テレワーク飽きました!」
画面の向こうで彼女は高速で左右に揺れる。ゲーム用途であろう彼女のヘッドセットもその動きに合わせて七色に輝く。なかなかシュールな絵面である。
「それは大変ですね」
スルーしよう。
『まじでつれねえ! 後輩がこんなに困っているというのにー』
「本当に困っているのなら後でメールで連絡をして下さい。別途打ち合わせの時間はいくらでも取るから」
『お、先輩のやさしぃ一面、頂きました!」
「いい加減、話をしましょう。それで、矢賀さん。報告を」
『はーい、誠司せんぱい! えーと、資料をメールで送っていると思いますので、まずはそちらを開いて頂けますか?』
矢賀後輩は、普段はあんな感じだけど、めちゃくちゃ仕事ができる。尋常ではなく頭が回り、少なくとも相手方に対してはしっかりした態度を取る。もっとも、その普段の態度のせいで色々な部署をたらい回しにされ、最終的に私の一人部署に異動し、いつの間にやら私の後輩というポジションにすっぽり収まったのである。
『……という感じなので、このままこの案件は進めたいと思います! 大丈夫ですか?』
「問題ありません。一応気づいたところはいくつかあるから、資料に適当に記載しておきました。後で確認して下さい」
『了解っす! いよっ、日本一!』
先程までの真面目な様子はどこへやら、急転直下で普段の様子に戻る。ギャップがすごいが、別に気にするほどのことじゃない。私も別に嫌っているわけじゃないし、すでに一年以上の付き合いでそれなりに信を置いている。
「一応、ありがとうございます。それじゃあ、お疲れ様。午後からもそこそこ頑張りましょう」
『ういうい、失礼しまっす!』
最後に彼女はぴしっと綺麗な敬礼をしつつ、唇からぺろっと下を出して画面から消えていった。
「よしっ、後はドキュメントだけ整えれば今日の仕事はほぼ終了だ」
時刻は13時前。今から一時間の昼休みをとって午後もさくっと乗り切ろう。
「あ、あ、あ、あ……締切りまで後、後、後……ふふふ、白紙の原稿が、後……」
私とは違って、彼女の正念場はまだまだ続くようだ。心の中で、「頑張れ」、ついついそう呟いてしまった。
しかし、隣の彼女はどんな人物なのだろうか。
昼食用にサンドイッチに使うきゅうりを切りながらそんなことを考える。お、みずみずしくて良いきゅうりだ。
彼女の職業。漫画家、イラストレーター、そういう感じの創作業の感じがする。締切りに追われていることからするとかなりの売れっ子なのかもしれない。
それ以上のこと……良く分からないな。とにかくいつも切羽詰まって叫んでいる印象しかない。
「よし、上手にできた」
牛乳とサンドイッチ。とても素敵な組み合わせだ。彼女のことを考えても仕方ないのだ、私はこれを美味しく食することに集中しよう。
しかし、冷蔵庫の中もほとんど空なので、就業時間後に買い物に行かなくては。
時刻は18時過ぎ。私の右手にはそこそこ膨らんだビニール袋。スーパーで食材を仕入れた帰りである。食材をあまり無駄にしないためにも2、3日分の量しか買わないようにしている。ちなみに今日の夕食はカレーの予定だ。スパイスで頑張るのも悪くないが、流石に面倒なのでルーで簡単に作ってしまう予定だ。
私の家の前でばったりと女子絵に出会う。背丈はかなり高いが、何より目立つのはその格好である。身体にピッタリとあった細身の黒いスーツの一方で、髪はブリーチで黄金に輝いている。目元の青色のサングラスが非常に似合っているが、一体何をしている人なのか、皆目検討つかない。
その方とはエレベーターでもそのまま一緒になり……私と同じ階で降りる。女性優先、ということで私がエレベータの扉を開閉していたことから、彼女の後ろをついていく形で通路を歩く。そして――彼女は私の家の隣に吸い込まれていった。
……なるほど。声だけで隣の彼女の雰囲気を勝手に想像しても、やはり意味のないことだったようだ。全然想像していた姿とは違ったが、特に気にするほどではない。
私はなんとも不思議な気持ちのまま、自宅の鍵を空けようとする。片手に持っているビニール袋のせいで少し戸惑っていると、隣から怒声が聞こえてくる。
「先生! もう締切りだ、早くしやがれ!」
「もう少し、もう少しだけ待って下さいー!」
……編集者さん、かな。しかし、あの金髪の方が『彼女』なのかそうではないのか――つまり編集者さんなのか――この目で確認していない以上、それは分からない。
シュレディンガーの隣人、つまらないこのジョークを聞かせる相手がいなくて本当によかった。三十路のこんな冗談なんて場を凍らせるだけだから。
ため息をついて、ようやく取り出せた鍵で僕は自室へと戻った。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
You Could Be Mine 【改訂版】
てらだりょう
恋愛
平凡な日常だったのに、ある日いきなり降って湧いて出来た彼氏は高身長イケメンドSホストでした。束縛彼氏に溺愛されて、どうなる、あたし!?
※本作品は初出が10年前のお話を一部改訂しております。設定等初出時のままですので現代とそぐわない表現等ございますがご容赦のほどお願いいたします※
敏腕SEの優しすぎる独占愛
春咲さゆ
恋愛
仕事も恋愛も、兎に角どん底の毎日だった。
あの日、あの雨の夜、貴方に出逢うまでは。
「終わらせてくれたら良かったのに」
人生のどん底にいた、26歳OL。
木崎 茉莉 ~kisaki matsuri~
×
「泣いたらいいよ。傍にいるから」
雨の日に現れた、30歳システムエンジニア。
藤堂 柊真 ~Todo Syuma~
雨の夜の出会いがもたらした
最高の溺愛ストーリー。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
隣の夫婦 ~離婚する、離婚しない、身近な夫婦の話
紫ゆかり
恋愛
オムニバス形式です。
理解し合って結婚したはずの梓、同級生との再会が思わぬことになる雅美、年下の夫のかつての妻に引け目を感じる千晴、昔の恋の後悔から前向きになれない志織。
大人の女性のストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる