失敗聖女の異世界革命 ~地味に生きたいのに、なぜか文化が変わる件~

宵町あかり

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第12話 慈悲の買い物

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朝もやが村を包む早朝、セレナ・リュクスは市場へ行く準備をしていた。
月に一度の大市の日。近隣の村からも商人が集まり、普段は手に入らない品物が並ぶ特別な日だ。そして今日は、教会の使者が午後に到着する予定でもある。

昨日、村全体がピンクに染まった出来事はまだ記憶に新しい。
セレナもピンクに染まった服を着ている。他に着るものがないのだ。

「セレナ様、買い物リストをご用意しました」

メアリーがピンクの侍女服で現れた。その手には長い羊皮紙が握られている。
教会の使者をもてなすための食材、村人たちへの土産、日用品の補充。買うべきものは山ほどあった。

村の女性たちも集まってきた。
皆、昨日染まったピンクの服を着ている。まるで桜の花びらが集まったような光景だった。

主婦のアンナが期待に満ちた表情で語りかけた。

「聖女様の買い物術も、きっと革新的なものでしょうね」

若妻のサラも頷いた。

「値切り交渉も、聖女様なら新しい方法を示してくださるはず」

――値切り……フリマアプリでも苦手なのに、対面交渉は無理。

セレナの不安とは裏腹に、村人たちの期待は高まっていく。

カイルもピンクの騎士服を着て護衛の準備をしていた。

「聖女様の尊厳を守りながら、市場での安全を確保します」

ピンクの騎士という前代未聞の姿だが、本人は誇りを持っている様子だった。

「それでは、参りましょうか」

セレナの言葉を合図に、ピンクの集団は市場へと向かった。
朝日を浴びて輝くピンクの行列は、まるで春の精霊の行進のようだった。

✦ ✦ ✦

市場に到着すると、そこは既に活気に満ちていた。
野菜、果物、香辛料、布地、雑貨。様々な商品が所狭しと並べられている。

しかし、ピンクの集団が現れた瞬間、市場全体が静まり返った。

「なんだ、あの集団は……」

野菜商人のグレゴールが目を丸くした。
四十五歳の彼は、十年以上この市場で商売をしているが、こんな光景は初めてだった。

果物商人のマルタが感嘆の声を上げた。

「まあ、なんて素敵な色。新しい流行かしら」

五十歳の女性商人の目には、ピンクの集団が美しく映っていた。

他村から来た農民たちもざわめき始めた。

「あの村、祭りでもやってるのか?」
「いや、聞いたことがある。聖女がいる村だって」
「まさか、あれが噂の聖女か?」

セレナは注目を集める視線に耐えきれず、とりあえず野菜売り場へと向かった。
グレゴールの屋台には、新鮮な野菜が山積みになっている。

「これを……いくらですか?」

セレナは人参を指差して尋ねた。
グレゴールは商売人の笑顔を浮かべた。

「お客様には特別価格で、銀貨三枚でいかがです?」

通常なら銀貨一枚で買える量を、三倍の値段で提示してきた。
田舎者と見て、ふっかけてきたのだ。

村の女性たちが、セレナの値切り交渉を固唾を呑んで見守っている。

セレナは値段を聞いて固まってしまった。

――価格.com……比較できない。適正価格が分からない。

沈黙が続く。
グレゴールは少し不安になってきた。

「あー、そうですね、銀貨二枚半でも……」

それでもセレナは黙っている。
値切り方が分からないのだ。そもそも対人交渉自体が苦手で、反論することができない。

「……分かりました。では、その値段で」

結局、セレナは言い値で買ってしまった。
しかも、お釣りを受け取ろうとして手を引っ込めてしまった。

「お釣りは……いりません」

――現金だけなのにキャッシュレスみたいな対応してる。

グレゴールは、その様子を見て罪悪感を覚えた。

「あの……本当によろしいんですか?」

最初は田舎者を騙すつもりだったが、セレナの純粋な様子に心が痛んだ。
値切ることもせず、お釣りも受け取らない。まるで商人に施しをするかのような態度。

「いえ、これは……慈悲だ」

グレゴールの中で、何かが変わり始めた。
利益を追求することだけが商売ではない。この聖女と呼ばれる女性は、別の価値観で動いている。

✦ ✦ ✦

香辛料売り場でも同じことが起きた。

異国から来た商人アフマドが、高価な香辛料を並べている。
三十五歳の彼は、遠い砂漠の国から交易でやってきた。

「この胡椒は、我が国の特産品です。通常は金貨一枚ですが……」

アフマドも、セレナたちを見て値段を吊り上げようとした。
しかし、セレナは即座に頷いた。

「はい、その値段でお願いします」

さらに、支払いの際に多めに金貨を置いてしまった。

「あ、これは多すぎます」

「いえ、遠くから運んでくださったお礼です」

セレナは単に計算ができていないだけだったが、アフマドには別の意味に聞こえた。

――労働への正当な評価。利益を求めない商売。これが聖女の経済哲学か。

砂漠の民の間には、「真の富は分かち合うもの」という古い教えがある。
それを思い出したアフマドは、深々と頭を下げた。

「あなた様は、真の意味で豊かな方だ」

パン屋の娘エマも、セレナの前に立っていた。
二十歳の彼女は、父の借金で店を手放す寸前だった。

「聖女様、焼き立てのパンはいかがですか?」

必死の思いで声をかけたエマに、セレナは優しく微笑んだ。

「全部いただくわ」

「え?全部ですか?」

エマの屋台にある全てのパンを買い取り、さらに代金を多めに支払った。

「お釣りは取っておいて。お店のために使って」

――ポイント還元はないけど、人徳還元?

セレナの内心の呟きとは関係なく、エマの目には涙が溢れた。

「これで、父の借金が返せます。ありがとうございます」

その光景を見ていた他の商人たちが、ざわめき始めた。

「あの方は、商人に慈悲を施している」
「利益を求めない、新しい商売の形だ」
「いや、これは聖女の教えなのか」

✦ ✦ ✦

昼になる頃、驚くべき現象が起き始めた。
商人たちが競うように値段を下げ始めたのだ。

「聖女様、この品物は半額でどうぞ!」
「いやいや、私の商品は三割引きで!」
「うちは原価で提供します!」

商人たちの間で、逆オークションのような状況が生まれていた。
セレナから高値で買ってもらうことが、逆に罪悪感を生むようになってしまったのだ。

グレゴールは叫んだ。

「聖女様に高値で売るなんて、商人の恥だ!」

彼の人生観が、根本から変わってしまっていた。
利益追求から、価値提供へ。商人としての新しい在り方を、セレナは示してくれた。

アフマドも同調した。

「我が国でも聞いたことがない。利益を求めない商売とは、これが真の商道か」

異国の商人にとっても、この体験は衝撃的だった。

商人組合長のオットーも市場に現れた。
五十五歳の彼は、この地方の商業を束ねる重鎮だ。

「何事だ、この騒ぎは」

状況を聞いたオットーは、最初は信じられない様子だった。
しかし、セレナの買い物の様子を実際に見て、彼もまた変わり始めた。

「値切らない。適正価格以上を支払う。お釣りを受け取らない」

一つ一つの行動が、商業の常識を覆している。

「これは……新しい経済学だ。聖女経済学と名付けよう」

――経済学の教科書……書き換え必要かも。

セレナの諦観的な内心とは裏腹に、市場全体が新しい価値観に包まれていった。

村人たちも、セレナの「慈悲の買い物」に感動していた。

メアリーは熱心に記録を取っている。

「商取引における慈悲。これもまた聖女様の教えの一つです」

カイルも胸を張って護衛していた。

「聖女様の経済哲学は、武力よりも強い」

ピンクの騎士服が、今は誇らしく見える。

✦ ✦ ✦

その時、市場の入り口に馬車が到着した。
教会の紋章を付けた立派な馬車から、一人の男が降りてきた。

教会使者ブラザー・マルコ。
四十歳の彼は、各地の聖女候補を調査する役目を負っている。予定より早く到着したのは、途中で聞いた噂が気になったからだ。

「ピンクの村……まさか本当だったとは」

市場を見渡すマルコの目に、驚愕の光景が映った。
ピンクの服を着た集団、値下げ合戦をする商人たち、そして中心にいる若い女性。

「あれが、セレナ・リュクス」

マルコは、その様子をじっと観察した。
値切らない、高値で買う、お釣りを受け取らない。その全てが、聖典に記された「無欲の聖女」の姿と重なる。

さらに、商人たちの変化も目撃した。

「利益よりも、聖女様への敬意を」
「新しい商売の形を、我々は学んだ」
「聖女経済学を広めよう」

マルコは手帳に素早くメモを取った。

「清貧を超えた慈悲の実践。商業における革命。これは報告しなければ」

彼の胸ポケットには、重要な文書が入っている。
王都からの極秘の知らせ。それをセレナに伝えるべきか、迷いが生じた。

――こんな方になら、お伝えしても……いや、まだ早い。

マルコは、もう少し観察を続けることにした。

その頃、セレナは最後の買い物をしていた。
布地売り場で、新しい服の生地を選んでいる。

「この布を……全部ください」

また全部買いをしてしまった。
しかも、異なる色の布を適当に選んでいる。

布地商人は恐縮しながら言った。

「聖女様、代金はいりません。慈悲の施しを受けた後で、金を取るなんてできません」

他の商人たちも声を上げた。

「私たちも同じです」
「聖女様には無料で提供します」
「いや、こちらからお礼を差し上げたいくらいだ」

ついに、市場全体で「聖女には無料」という空気が生まれてしまった。

✦ ✦ ✦

夕方、市場から村へ帰る道すがら、セレナの荷車は購入品で溢れかえっていた。
結果的に、使った金額は当初の予算を大幅に超えていたが、商人たちの値下げと無料提供により、物量は予想の三倍になっていた。

村人たちは、その成果に驚嘆していた。

「これが聖女様の交渉術」
「慈悲によって、かえって多くを得る」
「与えることで受け取る、聖典の教えそのものだ」

教会使者のマルコも、一行の後をついてきていた。
村に着いてから正式に名乗るつもりだが、既に心は決まっていた。

「この方は、真の聖女だ」

商人組合長のオットーは、市場で緊急会議を開いていた。

「今日から、この市場では新しいルールを設ける。『適正価格主義』だ」

ぼったくりの禁止、正直な商売、そして時には慈悲の実践。
セレナが示した新しい商業の形を、正式に採用することが決まった。

「聖女の市場として、他の地域にも広めていこう」

商人たちから、賛同の声が上がった。
利益だけを追求する時代は終わり、価値と信頼の時代が始まる。

グレゴールは、家族に誇らしげに語った。

「今日、俺は生まれ変わった。聖女様のおかげで、本当の商売を知った」

アフマドは、故国への手紙を書き始めた。

「信じられないだろうが、利益を求めない商売が存在する。それは人の心を豊かにする」

エマは、父親と抱き合って泣いていた。

「お店を続けられるよ、お父さん。聖女様のおかげで」

市場全体が、新しい価値観に包まれていった。

セレナは村に帰り着いて、ようやく一息ついた。

――値切り全然できなかった。でも、皆喜んでるからいいか。

完全に流れに身を任せる境地に達したセレナは、もはや抵抗することを諦めていた。
むしろ、皆の幸せそうな顔を見るのが、少し楽しくさえなってきている。

「明日は裁縫の日ね」

メアリーの言葉に、セレナは小さくため息をついた。
ボタン付けも苦手なのに、また何か起きるのだろう。

しかし、その不安も、今は以前ほど重くはない。
失敗が奇跡になる、この不思議な村で、新しい一日が始まる。

教会使者の報告により、「聖女の慈悲の買い物」は王都にまで知れ渡ることになる。
そして革新的な裁縫も、また新たな伝説となるのだが――
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