ミトスの彩色

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 観劇を終えると、ロビーでミトスはアシスに声をかけられた。シズを演じたベスから手紙を預かってきたと渡された。会場を出た後、ジルに興味津々で尋ねられ、ミトスは事の経由をかい摘んで説明した。ジルは自分のことのように喜び、今夜は眠れない気がすると興奮しながらスキップした。
 次の日、ミトスはジルが宿泊するホテルへ行った。ジルが宿泊しているホテルはホテルカバンサではない。そこもきっちり、用心していた。途中、タルクカフェに行くアシスと出会い、ミトスはベス宛の手紙を預けた。
「ジルは『シズ』のラストはどう思うんだ? 成功したのか、回顧なのか」
 ホテルのレストランで食事をした後、ふたりは紅茶を飲んでいた。
「私はどっちでもないと思います」
 ジルはきっぱり言った。
「へえ」
「あのラストシーンは、夢と現実を合わせた象徴です。人生は現実だけ考えるのはつらいです。けれど、夢だけでは生きていけない。夢は言いかえれば望みです。願望、羨望、欲望。それは現実で証明されないと、満たされない。けれど、満たされなくても生活を続けなければならない。あのラストの曖昧さは、望み足りない人生を歩む感情を抽象的に表現していると思っています」
 ジルは熱弁すると、急に顔を赤くした。
「喋り過ぎてしまいました。申し訳ありません」
 照れ隠しにジルは紅茶を飲んだ。
「ジルと一緒に、行ってよかったよ。面白かった」
 ミトスが伝えると、ジルはなぜかますます顔を赤くした。
 ジルは故郷にも寄るため、夜行列車のチケットを取っていた。ホームまで見送るとミトスが言ったが、ジルが頑なに断った。なので、ミトスは昨日待ち合わせをした馬の像まで、ジルを送って行った。
「一泊二日だと忙しないね。今度はゆっくりおいで」
 ミトスの言葉に、ジルは微笑んで曖昧に頷くだけだった。そして、神妙な顔になり、ミトスに顔を寄せる。
「少し、お耳を」
 ジルが周りを警戒しながら声を小さくする。ミトスも耳を傾ける、
「私、ジェーダ様のミトス様への心配は、ミトス様をカバンサから追い出すための都合のよい言い訳だと疑っていたんです。けれど、ヨール様は私から見てもやはり、危ない気がします」
「例えば?」
 ミトスが尋ねる。ジルは困る。
「うまく、言葉で表現できません。ミトス様がおられなくなってから、狂気のようなものを端々に感じるのです。不機嫌だとか、八つ当たりをされるとか、そういうのはまったくありません。ただ、佇んでいる姿を拝見するだけで、私、怖いんです」
 ミトスは何も返す言葉が思い浮かばなかった。
「あと、ジェーダ様からのご伝言です」
 ジルはこれが最重要だというように、さらに近づく。
「何かあったら、鍵を思い出すように、と」
「鍵ぃ?」
 ミトスは思い当たるものが何もなかった。ジルはさっと離れる。
「必要な時に思い出すはずだから、忘れているままで良いそうです。私もよく分かりません」
「なら、いいか」
「ええ。では、そろそろ」
 ジルが名残惜しそうな眼差しを向ける。
「うん。寂しいけど」
 ミトスが素直に言った。ジルは少し間をあけて言った。
「長い時間、かかると思いますが、また会いにきます」
 ヨールの事を用心して、頻繁には来られないという意味であることをミトスは分かっている。
「うん。ありがとう」
 ミトスはジルの姿が見えなくなるまで見送って帰ると、一人の部屋で刺しゅうをする。



 八月になってすぐ、プライトの運転でサルファーはオーピメンの自宅にやってきた。オーピメンはペタに一軒家を持っていた。なので、プライトはそれなりに金がある人間だと見当づけていた。
「荒れているな」
 車から降りたサルファーの開口一番はそれだった。庭は、雑草が好き放題伸び、車庫の車には埃が溜まっていた。
「せっかくいい車なのに。郵便受けはちゃんと見ているようだな」
 プライトが観察をしながらも、顔から不安が消えることはなかった。けれど、ここまで来たからには、帰る訳にはいかない。玄関のドアが開く。
「ああ、やはり。エンジンの音が聞こえたので。お暑い中、ありがとうございます」
 オーピメンの身なりは庭と違って、整っていた。髪もきっちりセットしており、服には皺も汚れもない。胸にはブローチも付けている。オーピメンと背景の庭がミスマッチで不気味だった。
「逃げるか?」
 我慢できず、プライトはサルファーに囁く。
「たまにはドキドキした方がいいだろう」
 サルファーは楽しそうに言って、オーピメンに挨拶をした。プライトは覚悟を決め、庭に入る。
 家の中は庭のようではなく、片付いていた。
「仕事をやめたら妻が出て行きました」
 オーピメンがサルファー達に紅茶とクッキーを出しながら言った。
「体調でも崩されたんですか?」
 プライトが慎重に言葉を選ぶ。
「私、ホテルカバンサの支配人でした。先代に可愛がって頂き、尊敬しておりました。この人のために仕事に励もうと」
「それはそれは、いいじゃないですか」
 褒めながらサルファーはクッキーをかじる。
「その先代に、目をかけておいて欲しいと頼まれた子がいまして。先代が亡くなったあとも、足しげく彼に会いに行っていました。けれど、死んでしまった」
 オーピメンは窓に顔を向けて荒れた庭を見つめた。
「それが、ご依頼の?」
 プライトが聞けばオーピメンは頷いた。
「愛しい青年でした」
「恋ですか?」
 サルファーが言う。
「いえ、執着です」
 部屋の空気が変わる。プライトは帰りたかった。オーピメンは胸に付けた黒のビオラのブローチを触る。
「身体が弱く、長く生きられないのは分かっていました。けれど、死因は事故死でした。川に流され、遺体も見つからなかった。私にとっては死んだというより、消えた感じです。区切りが欲しんです」
 その区切りの為に、オーピメンは青年の肖像画を求めていた。サルファーは鞄からスケッチブックと鉛筆を出す。
「さっそくやりましょう」
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