ミトスの彩色

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17※残虐描写あり

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 ヨールはウサギを避けているようにミトスは感じた。ペリドからウサギを貰った日、ミトスはヨールにも見せた。ヨールは「よかったね」と微笑むだけで、けしてウサギには触れなかった。ヨールは何度もミトスの部屋に来たが、ウサギについては話さなかった。だからヨールが「ウサギに触りたかった」というのはおかしい話だった。
「子どもの私に好きな動物を聞いたのは、あなたでしたね」
 ミトスは覚えていた。それが予想外だったのか、オーピメンは嬉しそうに垂れた目尻に皺を作った。
「シラーさんがミトス様に何かあげたいと当時、相談を受けました。私はあなたには温かいものが良いと思いました。私も前、犬を飼っていました。その時はこの世で最も大切な命でした。人間の味方は嘘ばかりです。あなたはいきなり連れて来られて、閉じ込められて、ひとりぼっちで。味方が必要だと」
 ミトスは何とも言えない気持ちになった。あの頃、黒ウサギのビオラが確かにミトスにとって唯一、純白な味方だった気がした。
「ヨール様がウサギをバルコニーから捨てたのです。私は見ました」
「……そう。ヨールは最初から私が気に食わなかったってことだね」
「それは違います。あれは、嫉妬です」
 オーピメンは即座に否定した。
「私がペリドに可愛がられていたから?」
「ビオラに嫉妬したんです。ミトス様にずっと可愛がられていたから」
 ミトスは眉を顰める。戸惑いに身体を揺らすと、鎖の擦れる音が部屋に響く。
「あの頃のヨール様はまだ、自分の感情を理解されておられなかったように思います。けれど、ヨール様がバルコニーからウサギを投げた姿が、私の妻と重なりました。私の犬が子どもを産んだ時、妻が子犬を橋から川に捨てました。私があまりにも、大切にしすぎたから」
 ミトスはココアを飲む。ココアはすぐに温くなった。
「私が仕事を辞めたら、妻はすぐに家を出て行きました。もう私には、あなただけです」
 自分を映すオーピメンの瞳に、ミトスは沈黙と視線で返す。
「結婚して欲しいわけではありません」
「じゃあ、愛犬になれっていうのか?」
 繋がれた足を揺らしたミトスは、今度は故意に音を立てる。
「ミトス様が川に流されたと聞いた時、私はあなたを忘れないという使命を授かった気がしました」
 愛犬扱いをオーピメンは否定しなかった。ミトスは目の前の男が純粋に歪んでいると思った。
「もっと前に、あなたに教えるべきだった。あなたが、フェナの敷地から出してもらえなかったのは、愛人の孫だからではありません。あなたは、愛人の孫ではありません」
 オーピメンは少し興奮していた。
「どういうこと?」
 ミトスは身構えながら、説明を促す。鍵が開く音が聞こえた。ふたりは玄関の方を見る。ドアが開いて、チェーンが切れた。少しの間の後に、足音。
「こういう物騒なモノを玄関に置くのは、よくないよ」
 斧を持ったヨールが立っていた。オーピメンが立ち上がった瞬間、ヨールは斧を振り下す。血しぶきが飛ぶ。ミトスは目を閉じて、顔を背ける。鈍い音が三度続いた。止まる。ミトスは目を開ける。血だまりに、オーピメンがうつぶせに倒れていた。動かない。ミトスもヨールも血まみれだった。ヨールは斧を床に置くと、オーピメンを仰向けにした。そして、胸から血に染まったビオラのブローチを引きちぎった。それを片手にヨールはミトスに微笑みかけた。
「汚れてしまったね」
 ミトスは感情が分からず、血で汚れた顔を手で拭う。ヨールは部屋を出る。床の血だまりはじわじわと広がる。水が流れる音が聞こえる。戻って来たヨールの手には湿らしたタオルがあった。ヨールはミトスの前に来ると、ためらいなく血だまりに膝を付く。そして、タオルで血に汚れたミトスの顔を拭いてやる。少し、乱暴だった。綺麗になったミトスの頬を、ヨールは両手で包む。ミトスはヨールの顔を見るしかなかった。
「久しぶりに私の顔を見てくれたね」
 ヨールの顔はミトスが幼い頃によく見せた優しい顔だった。ヨールはミトスの唇に顔を近づける。ミトスは、顔を背けてヨールの手から離れる。ヨールは困った顔をして、ポケットからビオラのブローチを出した。
「今度は私に作ってよ、ミトス」
 ビオラは血で汚れて花びらの輪郭が消えていた。ミトスはオーピメンの方に目をやる。それを遮るように、ヨールは立ち上がりミトスの隣に座った。
「いいきっかけになったよ」
 ヨールは言った。
「壊してしまえば、考えることはもうない」
 またタオルを手に持つと、ヨールはミトスの左手に付いた血も包むように拭いた。
「愚かなカバンサの血は、ミトスには流れていないからね」
 ミトスの右手を掴むと、ヨールは同じように拭く。指の根元から爪先まで丁寧に。ミトスはその作業を観察する。タオルはまだらに汚れた。ヨールはミトスを抱きしめた。
「準備が終わったら、迎えに行くから。ミトス」
 ヨールは離れる。オーピメンのズボンのポケットを探ると、鍵を見つけだす。
「足のそれは、警察にはずしてもらって」
 キッチンテーブルに鍵を置くと、ヨールは部屋から消えた。



 眠っていたサルファーは電話の音で目を覚ます。眠気眼で受話器を取った。フロントからで、ヨールの電話を繋ぐと言われサルファーは起き上がる。
「こんな時間にすみません、サルファーさん。警察に次の住所を伝えて頂けますか」
 ヨールが住所を伝える。サルファーはペンを走らせる。
「これは?」
 サルファーは聞く。
「ミトスの居場所です。オーピメンもいます。死んでいますが」
「は?」
「私が殺しました」
「は?」
「サルファーさん。あなたには感謝します。あなたが、ミトスとオーピメンを繋げてくれたおかげで、私は吹っ切れました。愚かなのに、葛藤するなんて真面目なことをしたから逆に子供じみていたんです」
「何の話ですか、ヨールさん」
 サルファーは得体の知れない苛立ちに襲われる。
「恋の話ですよ」
 笑い声が聞こえ、電話は切れた。
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