悪夢の先に

紫月ゆえ

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悪夢の先に

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悪夢を見た。
いつだったか、俺の周りの人が全員、俺を置いていってしまう夢。この暗闇の中から抜け出して、光の差す出口へ歩いて行ってしまう夢を。
俺が叫んでも、その声は闇に飲み込まれていく。誰も振り返らない。
「奏斗!!」
恋人の名前を呼ぶと、彼はちらっとこちらを振り返る。目が合う。が、彼はそのまま俺の存在が見えなかったかのように、再び歩き出してしまう。

苦しい、苦しい、息ができない。
身体が動かず、もがいてもただ自分を取り囲む闇に飲み込まれていく。
「……助けて」
呟いてみても、誰も助けにはこない。ただ一人、苦しみながら沈んでいく。



ピピピピッ……ピピピピッ

「…………はっ」
雪はガバッと勢いよく起き上がる。ハァ、ハァと乱れた呼吸を整えようとするが、心がざわざわして落ち着かない。汗か涙か、おそらくその両方がしたたり落ちてくる。
ハァ、ハァ、ハァ
息が苦しい。まだあの夢の中にいるようだ。

なんであんな夢いまさら見るんだよ、最悪。しばらく悪夢なんて見てなかったのに。
あー……しんどい。

それでも日常は変わらずやってくるので、起きて大学に行く準備をしなければならない。呼吸が少し乱れながらも、先ほどよりかは落ち着いていたので、ベッドから起き上がる。

グラグラと視界が揺れ、思わず膝をついてしまった。
何だこれ……目が回る……
目を開けてるのがしんどいので、目を閉じ、床にうずくまる。グルグルと揺れる視界に気分が悪くなってきた。しかも、そこにガンガンとした頭痛も加わってきた。

頭いてぇ、気持ち悪い……なんか、これ、やばいかも……

しばらくうずくまってしんどさに耐えていると、少し楽になってきた。
そういえば、最近、生活が乱れていた気がする。締め切りが迫る課題、テスト勉強に追われていたため、ここ最近は寝不足続きで、食事もおろそかにしていた。そんな中でも、数少ない貴重な楽しみは、恋人の奏斗と過ごす時間だった。

ハァ、とため息をつく。
なんでそれを邪魔するかのように、あんな悪夢見るんだよ。分かってる。あんな悪夢、現実ではないってことくらい。現実では絶対に起こり得ないってことくらい。

だって、奏斗は誰よりも優しい。俺にはもちろん、他の誰に対しても優しい。俺にはもったいないくらい、素晴らしい人間なのだ。

ただ、頭で理解していることと、それを受け入れられるかどうかは別の問題だ。奏斗は俺を見捨てたりしないってことは分かってる。けど、あの悪夢を見て、平然と奏斗と話せるほど、俺はできた人間じゃない。信じてるけど、そりゃ不安だ。なにせ、付き合ってからまだそんな長い年月すらたっていないのだから。

あの目、信じられないほど冷たかったな。思い出すだけで、心臓がズキッと痛む。あれが俺に向けられてたなんて、考えたくもない。
現実でやられたら、多分立ち直れないな。

そう考えながら、夢と現実がついているのかついていないか曖昧なまま準備を進めた。



少しばかり体調に違和感があろうと、授業はできる限り受けたいので休まずに大学へ登校する。
他に何か考えることがあったからか、体調不良も特に感じずにすんでいた。

と、思っていたのだが、張りつめていた緊張がほどけたのか、授業が終わった瞬間に一気に頭痛がやってきた。これは、朝感じていたものの比ではない。
ガンガン、というより、何かで内側から直接殴られているかのように痛む。あまりの痛みに一瞬息が止まったが、ものは慣れである。少ししたら、痛いが耐えられないような痛みではなくなった。
席に座り、荒れた呼吸を整えていると、不意に後ろから声がかかる。

「おつかれ、雪」

「奏斗……」

思わず視線をそらしてしまう。悪夢をいまだに引きずっているのか、俺は。それに、そんな分かりやすいことしたら、何か思うに違いない。

案の定、奏斗の眉間に少し皺がより、怪訝そうな顔つきで話しかけてくる。

「……なんかあった?大丈夫?」

やはり、奏斗は優しい。そうだ、あれは悪夢だ。奏斗はあんな冷徹で非道な人間ではない。分かってるんだ、分かってるはずなのに……心がそれに追いついてこない。奏斗を恐れてしまう感情が消えてくれない。なんで、どうして。
 
ズキズキと頭痛が再来する。 
うっ……いってぇ
まずい、呼吸が乱れてきた。頭が割れるように痛い。

「……なんでも、ない、から……大丈夫。」

おそらくいつもと様子が違うことは、鋭い奏斗にはお見通しだろう。それでも、今、奏斗と直接目を見て話す勇気がなかった。かろうじて保っていたものがばらばらに砕け散ってしまいそうだった。それくらい、あの悪夢が、奏斗のまるで汚らわしいものを見るようなあの目線、態度が怖くて仕方がなかった。

「おーい、奏斗ー。ちょっと来てくんね?」

奏斗の名前を呼ぶ声が聞こえた。よかった、誰だか分からないけど、助かった。救われた。

「呼ばれてるな、じゃあ、俺はもう行くから」

「え、でも雪、まって、なにか」

言いかけた奏斗の言葉を、思いのほか強くなってしまった口調で遮る。

「いいから行けよ!俺は大丈夫だから」

言ってしまってからハッとする。強く言いすぎてしまった。すぐに奏斗の顔を見るが、下を向いてしまっており、その表情は分からなかった。

「あ、……かな」

名前を呼び終わる前に、奏斗が顔を上げ口を開く。

「ごめん、雪。ちょっとしつこすぎたかな?ごめん、じゃあ俺行くね。
 またなんかあったら言って。」

あぁ……やってしまった……
嫌な態度を取ってしまった……でも、どうしようもないんだ。なんか、怖くて顔が見れない。あの冷たい目線を見たら、俺はもうここでぶっ倒れる自信がある。ただでさえ体調が悪いのに、そこに最愛の人の冷酷さが加わったら、もうやっていけない。
ごめん、奏斗。心配してくれたのに、ほんとにごめん。


お昼の時間が過ぎ、午後の授業が始まろうとしていたが、雪の体調は一向に回復することはなく、むしろ悪化の一途をたどっていた。

ズキ…ズキ…ズキ

あー、頭が痛い。これはほんとにやばいかもしれない。もう授業受けらんないわ。大人しく帰ろう。

そう思い、席を立った。

ドタッ

何かが倒れる音がした。時間差で、倒れたのは自分だと気づいた。立った瞬間目の前がグワングワンと揺れ、まっすぐ立つことができず、倒れてしまったのだ。

目を開けていられないほどのめまいが急激におそいかかる。急な動きに頭痛が悪化してか、気持ち悪さも出てきた。

やばい、これはまじでやばい。

冷汗が止まらない。自分がどうなっているのかよく分からないことから、不安だけが募っていく。呼吸が乱れていき、息が苦しくなる。すると、さらに吐き気が悪化し、気持ち悪くなってくる。

はぁ、はぁ、……うっ

何かがせり上げてきた。思わず口を押える。ここで吐くわけにはいかない。
どうしようもないしんどさに涙がこみあげてくる。
とにかく、ここにいてはだめだ。トイレに行かなければ。その一心で、もう動きそうにない体に鞭をうち、気合で立ち上がり目的の場所へ向かう。

壁をはいながら、なるべく視界が揺れないように、振動が伝わらないように、慎重に歩みを進め、ようやくトイレに辿り着いた。

個室に籠り、荷物を床に放り投げ、便座に顔をつっこむ。トイレが汚いかどうか、人がいたらどうしようか、などを気にする余裕は、もはや雪にはなかった。

はぁ、はぁ、はぁ、うっ…おぇぇ…ゔ、はぁ

目が回る。気持ち悪い。何度もえずくが、何もでてこない。ただひたすらに苦しい時間が流れる。

おぇぇ……ゲホッ、はぁ、ゔぇぇぉ……はぁ、うぅぅぅ

しんどさから涙が止まらない。苦しい。なんだよこれ、もう。しんどすぎる。
頭は変わらず鈍器で直接脳みそを殴られているみたいに痛ぇし、目はグルグル回って気持ち悪さ止まんねぇ。
何より一人なのが心細かった。このまま、誰にも気づかれずに、ここで夜まで耐えるんじゃないか。

はぁ、はぁ、うっ……あぁ、もう…むり…グス

辛さ、心細さから涙が溢れてきて、止まらなくなってしまった。

誰か……助けて……

そう願いながら、一番に顔が思い浮かんだのは、愛しの恋人だった。
ほとんど残っていない体力を振り絞り、スマホの通話ボタンをタップする。

プルルル…プルルル…プルルル

朝、嫌な態度とっちまったけど、出てくれるんかな。こんなことになるんだったら、正直に言えばよかった。でも、言って迷惑かけて、あの悪夢みたいな顔を見たくない。そもそも、体調不良なんて、相手にとっては迷惑以外のなにものでもないはずだ。今までだって、どれだけ具合が悪くても、一人で何とかしてきた。辛かったけど、耐えられた。でも……でも、奏斗がいると……頼りたくなっちまう。それで、突き放されたらもう俺はやっていけない。

出て……くれっかな……ごめん、奏斗……

『もしもし、雪?どうしたの?』

「…ハァ……ハァ………」

『……?雪?なんかあった?』

「…ハァ……ウッ…」

『……ねぇ、ゆき、だいじょぅ』

「うっ、おぇぇぇ…ゲホッ…ゲポ、ケポ……オェェ、はぁ、はぁ、」

なんだこれ、とまらない、気持ち悪い。吐くと、頭痛も悪化するようで痛みも増していく。しんどすぎる。

『えっ!?雪!大丈夫?どうしたの?吐いてる?』

「はぁ…はぁ、か、なと…たす、け、て…さっき、は、ハァ、ごめ、ん、ごめん……うっ、オェ、ハァ、ご、めん……」

絶え間なく攻撃をしてくる頭痛と、吐き気のダブルパンチで、雪には正常な思考力は残っていなかった。意識もうわついており、ただ、ひたすらに、うわごとのように、奏斗に対して助けて、ごめんと伝え続けていた。

『雪!!今どこ!?すぐそっちに行くから、場所教えて!』

「はぁ…はぁ、うっ」

『雪!大丈夫だよ、すぐ行くから。今どこか言える?』

「……3階の、ハァ…トイ、レ」

最後のほうはかぼそくなってしまったが、何階か伝えればきっと奏斗は理解してくれるだろう。朝会った教室の階から動けていないのだと。

『分かった、すぐ行く。雪、電話はつなげたままでいて。大丈夫だからね』

 
 
【奏斗side】
「はぁ……」

「何ため息ついてんだよー」

友人の翼が顔をのぞきこんでくる。彼は、俺と雪の関係を知っており、かつ、雪とも仲の良い大切な友人だ。

「……さっき、雪が元気なさそうで、心配で声かけたんだけど、ちょっとしつこくしすぎたかなって」
 
再びはぁ、とため息をつく。

「まぁ、そういうときもあるでしょ。しつこいとかは思ってないんじゃない?ただ、雪ちゃんのことだから、奏斗になにか遠慮してたり、言いにくいこととかだったんじゃないの?一人で思いつめちゃうタイプじゃん。だから、お前がしつこくすんのは、俺はありだと思うよ。一人じゃないって伝えてるみたいでさ。」

「…そうだな、確かに。でも心配だなぁ、いつもと様子違ってたし。顔色もちょっと悪かったし。」

プルルル、プルルル、プルルル

奏斗のスマホが鳴る。画面を見ると、”雪”と表示されており、慌てて電話を取る。

「もしもし、雪?どうしたの?」

『ハァ……ハァ………』

返答がなく、うっすらと息遣いが聞こえてくる。不安になるが、もう一度声をかける。

「……?雪?なんかあった?」

『…ハァ……ウッ…』

これは、雪に何かあったのではないか…?大丈夫なのか?

「……ねぇ、ゆき、だいじょぅ」
 
と言いかけたそのとき、スマホの向こうから、吐いているような苦しい声と、荒い息遣いが聞こえてきた。

『うっ、おぇぇぇ…ゲホッ…ゲポ、ケポ……オェェ、はぁ、はぁ、』

「えっ!?雪!大丈夫?どうしたの?吐いてる?」

具合が悪かったのか。にしても、この声、やばいんじゃないか。

『はぁ…はぁ、か、なと…たす、け、て…さっき、は、ハァ、ごめ、ん、ごめん……うっ、オェ、ハァ、ご、めん……』

苦しい声と共に、助けて、とごめん、という言葉が紡がれる。
こんなになるまで我慢しなくていいのに。いや、違うな。俺があのときしっかり声をかけておけばよかったのだ。異変に気づいていたのに、雪が大丈夫だと強めも口調で言ってきたから、引いてしまったのだ。何やってるんだ、俺は。

雪は人に頼ることを知らない。一人でやってこなければいけない環境だったからだ。何でもかんでも一人で抱え込んでしまうタイプなのは分かっていたじゃないか。と、自己嫌悪に浸るが、今すべきことは後悔に溺れることではない。

「雪!!今どこ!?すぐそっちに行くから、場所教えて!」

『はぁ…はぁ、うっ』

「雪!大丈夫だよ、すぐ行くから。今どこか言える?」

『……3階の、ハァ…トイ、レ』

あそこからずっと動けていなかったのか。くそ……
吐く声と共に、時折うめき声や痛いというか細い声が混じっていることから、おそらく頭か、お腹か、どこかが痛いのだろう。
やはり、朝は体調が悪いのを隠していたのか。ほんとに……雪はもう、頼むから、一人でなんでも解決しようとしないでくれ、冷や冷やする。

「分かった、すぐ行く。雪、電話はつなげたままでいて。大丈夫だからね」

相当しんどいのだろう、さっきからえずいてはむせて、苦しそうに呼吸する音が聞こえてくる。時折、うわごとのように、助けて、ごめんと呟いており、その声を聞くたびに胸が締め付けられる。一人で苦しんでいる姿を想像すると苦しくなってくる。早く行かないと。

「悪い、雪のとこ行ってくる。授業のとこ明日教えて!」

隣で一部始終を聞いていた翼に一声かける。

「しんどそうだったけど平気?俺も行こうか?いや、でもきっと、雪ちゃんは奏斗がいいだろうしな。あ、じゃあこれ、ビニール袋と、まだ飲んでない水、あと、ティッシュな。授業のことは任せとけ!」

「ありがとう、助かるよ。じゃあまた、なんかあったら連絡する。」

「はいよー。頼んだぜー」

構内を邪魔にならないほどの速度で駆け、雪のもとへ向かう。
と、そのとき、スマホから聞こえていた声が小さくなる。

「雪、大丈夫?」

『………ハァ…』

ゴンッ

鈍い音がした。頭を壁にぶつけたような。
まさか……倒れた?

「雪?俺の声聞こえる?雪?」

『…………』

これはまずい。一刻も早く行かなければ。意識はあるのか?ぶつけたのは頭?結構鈍い音したけど、打ちどころは大丈夫か?それとも、気失ってそのまま床に倒れた?
声をかけても、返事がない。くそ。焦りと心配と不安が募っていく。

「雪、あと数秒だから、がんばれ。大丈夫だからな、俺がいるから。」

『…………』

もう目の前だ。雪のいる個室を探す。扉は閉まっているものの、鍵が開いている場所が一か所ある。おそらく、荷物か何かで閉まったのだろう。あの様子だと、おそらく鍵をかける余裕すらなかったはずだ。

扉を力強く開く。
「雪!!」


 
【雪side】
「雪!!」
奏斗の声が聞こえる。幻聴だろうか。うっすらと目を開けると、奏斗が顔を覗き込んでいる。
あぁ……そうだ、俺、電話したんだっけか。来て、くれたのか。

「よかった、雪。壁に頭ぶつけてただけか。大事じゃなくてよかったよほんとに。」

壁……ぶつける……?そういえば、吐いてたのに、なんでこんな体勢になってるんだ……?吐き続けて、途中意識がふわっとして……それで、ぶつけたのか。
途中の出来事を意識するやいなや、ぶつけた衝撃が頭痛となり、今になって伝わってくる。

「………ッ……」

「どうしたの?雪?頭痛い?気持ち悪いのは収まった?」

「……かな、と……ごめ」

朝のことを謝ろうと、そして、来てくれてありがとうと伝えたいのだが、吐き気が邪魔をしてくる。

「うっ、おぇぇ……」

急いで便器に顔を突っ込む。なんなんだよ、これ。きもちわるい、苦しい。手に力が入るのが分かる。片方は便座を握り、片方は服の上から腹を抑えるようにぎゅっとつかむ。

「大丈夫だよ。全部出しちゃいな。」

奏斗は雪の背中をさすりながら声をかけ続ける。そして、もう片方の手は、腹を抑えている雪の手にかぶせるように、おさえてあげる。

奏斗の手の温かさ、大丈夫という言葉、そしてなにより、奏斗がそばにいるという事実だけが、気持ちを楽にしてくれた。いつの間にか吐き気は収まっていた。

「落ち着いた?疲れちゃったね。いいよ、俺に全体重のせていいから、楽にしてな。」

残り少ない体力を、ここに来るまでの移動、そして吐くという行為にすべて使ってしまったため、もう自分の身体を支える体力すら残っていなかった。雪は遠慮なく奏斗に背中を預ける。

「……ハァ……ウッ……」

気持ち悪さはだいぶ収まったものの、目がグルグル回るのは相変わらずだ。頭も、さっきぶつけたからか、余計に痛みが増している。しんどいのは変わらないが、奏斗の熱をすぐそばで感じられるからなのか、さっきよりは幾分か気持ちが楽だ。

「大丈夫じゃないよね、ごめんね、もっと早く来れればよかった。」

雪は力なく首を振る。朝嫌な態度取ったのに、来てくれただけでありがたいのだ。

「口ゆすごっか。水、飲める?寄りかかったままでいいよ。」

奏斗を背もたれにしながら、口をゆすぎ、吐き出す。目をあけていたのだが、視界がグワングワンして気持ちが悪い。思わず目をぎゅっとつぶってしまう。

「目まわる?しんどいだろうから目閉じてな。あとは、俺に任せて。」

身体を支えながらも、後処理や片づけをしてくれる奏斗の存在が心底ありがたかった。さっきまで一人で苦しんでいたのが嘘のようだ。体調不良、焦り、不安からさらに体調が悪化してき、追い込まれていたのが、奏斗が来てくれたおかげで安心できた。
しかし、同時に自己嫌悪が襲ってくる。朝あんなに嫌な態度をとったのに、助けを求めればすぐに駆けつけてくれた。身体的な辛さと、奏斗への申し訳なさから涙が出てくる。

「え、雪、どうしたの?頭痛い?」

頭は痛いが、これはそういう涙じゃない。首をフルフルと弱弱しく振る。

「……ご、めん…あさ、やな…たい、ど、…とって…ご、めん」

たどたどしく、声を紡いでいく雪の言葉に、奏斗の心はぎゅっと痛んだ。

「謝らなくていいよ、俺もしつこすぎたかなって思うし。でも、雪が一人で苦しむくらいだったら、俺はもっとしつこくいくからね。」

涙がぽろぽろこぼれる。

「……あさ、ズッ…、あくむ、みた…かなとが、ズズッ…、つめたいめで、おれを…みてて…、ハァ…おれを、むし、して…いった…ハァ…」

鼻を啜りながら、途切れ途切れに話す雪を、奏斗はさえぎることをせずに、うんうんと、促すように頷いて聞いている。

「…わかっ、てる、かなとは……でも、こわ…かった」

めまいや頭痛がまだひどいのだろう。時折目をぎゅっとつむっては、涙がぼろぼろこぼれていく。身体が辛いためか、息が乱れている。

「うん、ごめんね。夢の中の俺のせいだね。でも、信じて。俺は絶対に雪を一人置いて行ったりしない。どんな雪でも嫌がったりしない。だから、頼っていいんだよ。辛いときは辛いって言っていいの。分かった?」

具合が悪いにしてはたくさん喋ってしまい、声を出すのがしんどい。首をコクコクと縦に振る。
溢れる涙を奏斗が拭う。

「じゃあ、ほら。もう泣かない。泣いたら余計しんどくなるから。」

一通り片づけが終わり、雪の様子も先程よりは落ち着いてきた。奏斗は、いまだグッタリしている雪に声をかける。

「雪、ちょっと歩けそう?雪の家よりも俺の家のほうが近いから、ひとまず俺の家に行こう。一人にするのは心配だから、今日は泊まっていってよ。」

正直もう立つのがやっとで、歩くのはしんどかった。それに、奏斗の家に泊まるなんて、しかも具合の悪い俺が。他人様の家でさっきみたく吐いてしまったら、申し訳なさ過ぎる。

「めいわく……だか、ら、もう、だいじょ」

もう大丈夫。そう言おうとしたのだが、それを遮るように奏斗が強めの口調で答える。

「大丈夫じゃないでしょ、どう見ても。ねぇ、雪。迷惑だって思う気持ちは分かるよ。でも、俺たちもうそういう関係じゃないでしょ。頼ってよ。雪が辛いときに支えるのは俺の役目でしょ。」

そして、雪の目をまっすぐに見つめて伝える。
 
「あと、もう一度言うね。夢の中の俺は俺じゃない。本当の俺は、雪の思い描く俺だよ。雪のことが好きで、大切で、誰よりも愛おしく思ってる俺。だから、もうそういうのはなしね。」

体調が悪いと涙腺もばかになるみたいだ。嬉しすぎて涙が溢れてくる。泣くと頭が余計に痛くなるから泣きたくないのに。立つのも歩くのもしんどい。家で一人でいたくない。辛い。気持ち悪い。助けてほしい。側にいてほしい。
 
泣きながら伝える雪に優しく奏斗は微笑む。

「じゃあ、俺が支えるから、ゆっくり歩こうか。外にタクシー呼ぶから。そこまでがんばろう。」

ゆっくりと立ち上がり、揺れる視界の中、奏斗の支えだけを頼りに一歩ずつ歩みを進めていく。時折、めまいからかふらつくことがあるが、しっかりと奏斗にホールドされているため、倒れることはない。ただ、頭痛と気持ち悪さは支えがあっても引いてくれないため、耐えるしかない。

「うっ……」

手で口を押え、前に身体を曲げてしまう。

「大丈夫。吐きたいときは我慢しなくていいから、ここに吐きな。」

背中をさすりながら、一人で支えることのできない体重を支えてくれる。
それでも、ここでは吐きたくなかったので、ゆっくり深呼吸してから再び立ち上がり、歩いていく。

そんなに距離はないのだが、数分かけてやっとのことでタクシーに乗り込んだ。

体調不良のしんどさ、疲れから、乗り込んだ瞬間グッタリしてしまう。座っていても揺れる視界が気持ち悪くて、目をぎゅっとつむる。おそらく身体がぐらぐら揺れていたのだろう、奏斗が頭を肩にのっけて支えてくれる。

「寄りかかっていいよ。しんどくて疲れただろうから、寝ちゃいな。吐きそうになったら袋に吐いていいからね。」

奏斗の方にもたれ、目をつむる。今朝の悪夢から寝不足なのは違いないが、痛みと胃の不快さから眠ることができない。車のゆれも気持ち悪さを悪化させる。しかし、いくら奏斗の家がそこそこ近いとはいえ、歩くのは100%無理なため、我慢するしかない。
耐えるように目をぎゅっとつむりながら、時折声をもらす雪を奏斗は心配そうに見つめながら、安心させるように手を握り、お腹をさすってやる。

「しんどいね。大丈夫。もうすぐ着くから。」

もはやしゃべる気力もなく、首を縦にコクコクふって応じる。
数分後、車が減速する。

「ほら、雪。着いたよ。がんばったね。」

うっすらと目を開けると、奏斗が顔を覗き込んでいる。
車を降りようとして、地面に足をつけるが、感覚がなくフラっとしてしまう。それを、がっしりと掴み、雪の身体が倒れないように奏斗が支える。

「あと少しだから歩ける?もう誰もいないから、おぶってこうか?雪一人と荷物くらいなら多分いけるよ俺」

正直、もう体力は0に等しい。しかし、俺は男だ。いくら奏斗に意外と筋肉がついているとはいえ、俺と荷物まで持つのは厳しいのではないか。しかし、もう歩きたくない。立つのもしんどい。このまま這いずっていくのもありだが、おそらくそれは奏斗が許さないだろう。
その微妙な間を感じ取ったのか、奏斗が笑う。

「無理だって思ったでしょ。大丈夫、任せて。これでも鍛えてるし。こういうときは、遠慮なんかせずに頼るの。分かった?」

その言葉につられてか、本音がするすると口からもれだす。
 
「正直……しんどい、から、お願い……」

奏斗はにこっと笑い、雪の身体を支える腕に力が入る。

「じゃあ、おぶったほうがはやいから、俺の背中のって。荷物は貸して。」

背中に体重をのせると、奏斗の熱が伝わって少しほっとする。

「よいしょっと。じゃあ、行くからつかまってて。すぐそこだから、あと少しがんばろう。」

そう言って、目の前の建物まで歩みを進めていく。男の自分は重たいに違いないのだが、それを少しも感じさせない軽々しさである。息が少し荒いことからすごく楽というわけではなさそうだが。

「雪、あっついね。ちょっと熱出てきたかもね。」

確かに、言われてみれば身体が熱いような気もする。自覚すると余計具合が悪くなっていくような気がした。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

身体の芯から熱がこみあげてくるようだ。熱くて息が苦しくなってきた。吐く息が熱い。

「大丈夫、雪。落ち着いて。ゆっくり息して。大丈夫、俺がいるから。」

不安を和らげるように声掛けを続け、あっという間に奏斗の家に着いた。
玄関を開け、雪をそっと座らせて様子を見る。

「雪、家着いたよ。気分はどう?頭痛と吐き気、めまいはまだある?」

あ……ここ、奏斗の家か……。熱い。頭痛い。

「雪、俺の声聞こえる?分かる?」

返答しない雪を心配して、再度声をかける。

「かな、と……ふたり…いる……?」

目がグワングワンしているからか、目の前で覗き込む奏斗の顔が二重に見えた。

「うーん、これは結構重症かもね。とりあえず、ベッドで横になって休もう。あと、熱も測ろうか。」

そう言って、軽々と雪を持ち上げ、ベッドに寝かせる。手際よく体温計を棚から取り出し、ついでに冷えピタと水も手にしていた。

ピピピピッ

「……38.7か。結構あるね。しんどいよね。」

しんどい。辛い。でも、今まではこんなの一人で乗り越えてきた。どんなに頭が痛くても、どんなに気持ち悪くて吐いて苦しくても。平気だったはずなんだ。でも、奏斗がいると、平気じゃなくなる。大丈夫じゃなくなる。なんで。どうして。

「……う、ヒック……ハァ…ヒック、うぅぅ」

突然泣き出した雪に目をぎょっとさせる。

「え、雪、どうしたの?どっか辛い?」

「い、たい……あたま、いたい……しん、どいぃ……」

奏斗は表情をやわらげ、雪の頭をそっとなでる。

「うん、しんどいね。そうだよ、雪。自分の気持ちに正直でいいんだよ。辛いときは辛いって言っていいんだ。頼っていい。泣いていい。」

「……ヒック、……ハァ…う、ん……」

「ふっ、よかった。ありがとう、俺を信用してくれて。」

頭をなでながら、同時に流れる涙を拭ってくれる。

「でも、泣くと余計頭痛くなってしんどいから、ちょっと落ち着こうか。ゆっくり息しよう。」

身体は辛いはずなのに、心が温かくなる。何があっても、奏斗がいてくれるという安心感。こんな簡単なことだったのだ。信じて頼る。

ずっと頭をなでて、側にいてくれる奏斗に安心してか、先ほどの体力酷使も相まって、瞼が徐々に閉じてきた。こんなに安心して眠れるのはいつぶりだろうか。

「ゆっくりおやすみ。大丈夫、側にいるよ。」
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