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窮地③
しおりを挟む武雄はハア、ハア、と息を整えた。つい、熊本弁全開でまくし立ててしまった。すぐに、「とんでもないことをしてしまった」という後悔に襲われた。が、同時に「言ってやった」という妙な達成感もあった。
「君、誰に向かって口を聞いているのか、わかっているつもりか!」
文信は、怒りが頂点に達したのか、顔を赤らめている。
一触即発の状況である。教員も、窓の外にいたキヨ達も、息を潜めて状況を見守っている。
武雄は、もう引き下がれない、とばかりに応戦した。
「わかっています。僕は、悉乃さんが、スリをやってくれていてよかったとすら思っています。感謝しています」
「なんだと……」
言いたいことは言い切った武雄と、返す言葉のない文信の間に、非常に気まずい沈黙が流れた。
「悉乃、とにかく夏休みは家に帰りなさい」
と、文信は話の矛先を変えた。
「えっ」
「先生、お見苦しいところをお見せしました。浅岡悉乃は寄宿舎残留ではなく、帰省に変更させてください」
文信は悉乃の手を強引に引くと、戸惑うばかりの教員を置いて職員室を出ようとした。
「お父様、ちょっと……お待ちになって!」
「悉乃。わかっているな。これ以上浅岡の名に泥を塗るなら、それこそまた掏り稼業に戻らなければならなくなるぞ」
悉乃はぐっと口をつぐんだ。その悲しそうな、怯えているような顔を見て、武雄は胸を痛めた。
それきり、悉乃は大人しく文信について歩き出した。武雄とすれ違う一瞬のタイミングで、彼女は父親に気づかれないように武雄に笑いかけた。
「ありがとう。武雄さん」
残された武雄や教員たちは、唖然として浅岡父娘を見送ることしかできなかった。
しばらくして、
「それで」
と我に返ったように、教員が武雄に声をかけた。
「あなたは、どこの誰です」
「えっ……と、茂上武雄と申します……東京高師の本科生です……」
「なぜここに」
武雄は口ごもった。悉乃が心配で。なぜ心配かと言われれば、ミルクホールに行く約束をしていたのに来なかったから、と答えなければいけない。
なんとなく、言いづらい。
その時、とある女生徒の「あっ!」という声に皆が注目した。
「あなた……そうですわ! 前に寄宿舎の周りをウロウロしていた怪しい男ですわ!」
キヨから少し離れたところに立っていた女生徒がそう言って驚きの眼差しで武雄を見た。
他の生徒や教師たちも、武雄を白い目で見る。
「怪しい男……?」
確かに自分は怪しい男だろうが、「前に」とは何のことだろう。武雄は何を言えばいいかわからず黙り込んでしまった。
気まずい静けさを破ったのは、キヨだった。
「倉橋さん、失礼ですわよ。お聞きになったでしょう。この方は……悉乃さんのお友達、私にとっても、悉乃さんを元気づけてくれた恩人です」
「恩人? このみすぼらしい方が?」
「みすぼらしい。あなたにそんなことを言う筋合いがあって? よほどみすぼらしいのは倉橋さんの心根ではないかしら。悉乃さんにいろいろとひどいことを言ったこと、取り消したりはできませんわよ」
「なんですって!? 聞き捨てなりませんわ。あんなスリ女を庇うなんて、あなたも同じ穴の狢ですわね!」
「あなた、茂上さんのお話聞いていらした? 悉乃さんは私たちなんかよりもよほど、強くて勇気ある女性ですわ!」
突然始まったキヨと倉橋の応酬を武雄はオロオロと見守ることしかできなかったが、ついにぐぬぬと口を結んだ倉橋を見て、なんだか心がスッとしたような気がした。
キヨは武雄に向き直ると、にこりと笑顔を見せた。
「悉乃さんを、追いかけてあげてください」
「は、はい! ありがとうございます!」
「お礼を言うのはこちらですわ。あなたのおかげで、私も勇気が湧いてきましたの。さ、早く」
キヨに促され、武雄はあっという間にその場を走り去った。遠くから先ほどの教員が、「ちょっと、お待ちなさい!」と叫ぶのが聞こえたが、構わず駆けた。
校舎を出た武雄は、とぼとぼと歩きながら父親についていく悉乃の姿を見つけた。外には車が待たせてあり、運転手が恭しく出てきてドアを開けた。車なんて、東京に来てから数回だけ、道を走っているのを見たことがあるだけだ。
乗りなさい、と促された悉乃は黙って乗り込もうとした。
「悉乃さん!」
武雄は声を張り上げた。その声に反応したのは。悉乃よりも文信の方が早かった。
「なんだね君は、しつこいな。娘に近づかないでもらえるか。元はと言えば、君のせいでこんなことになっているんだぞ」
「お父様、そんなこと……!」
「わかりました。ですが、一つだけ言わせてください」
文信は、何も言わずに武雄を睨みつけた。武雄はそれが「可」の意味だと勝手に捉え、続けた。
「悉乃さんを、悪いようにはしないでください」
文信は、「君に言われる筋合いはない」と答え、悉乃の背中を押して車に乗せた。
車は、あっと言う間に走り去ってしまった。
さすがに追いつけない。武雄はその場に立ち尽くすほかなかった。
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