26 / 37
ビフテキとバゲット③
しおりを挟むそして迎えた日曜日。
悉乃は、夏休みに選んで仕立ててもらった新しい着物を身につけていた。山吹色に菫の花の刺繍をあしらった袷、濃紺の袴。悉乃としては、普段着ないような色合わせで、だいぶ冒険したつもりである。
この着物を着るのは二度目だ。一度目は、父に言われるがまましぶしぶお見合い写真を撮った時。それからは、何か特別な日に着たいと思い箪笥の奥にしまっておいたのだった。
今日は、悉乃にとっては「特別な日」に当てはまる。やや緊張しながら店の前に到着すると、武雄がすでに待っていた。
その姿を見て、悉乃はなんだか嬉しくなった。武雄も、今日は特別な装いで来てくれたのだ。普段は見たことのないきっちりとした洋装で、いかにも着慣れていなさそうなフロックコートを身にまとっている。
「こんにちは」
悉乃が声をかけると、武雄は「ここここんにちは」と緊張した様子で答えた。悉乃が武雄の服装に言及しようとすると、店のドアが開き食事を終えた客と、見送りの店員が出てきた。店員は悉乃たちの姿を見ると、いらっしゃいませ、と笑顔で迎えた。
***
「ご注文、いかがしましょう?」
「え、えーと……」
入店したあとの武雄はさらに緊張が高まったのか、メニュー表を持つ手が震えていた。店内は洒落たテーブルと椅子が並び、ゆったりとした西洋の音楽が流れている。一応学生身分であるので、高級すぎない店を悉乃は選んだ。客層は様々だが、洋装和装問わず気軽な服装の人も多い。武雄が張り切って着てきたフロックコートは少々浮いていた。
悉乃は、「大丈夫」と小声で声をかけると、ビフテキとバゲットを二人分注文した。
「今日の服、素敵ですわ」
店員が去っていくと、悉乃は武雄を落ち着かせようと、そんなことを言った。
「秀成が、貸してくれたんです。どうも卒業したら、親戚の家で家業の手伝いをするみたいで。洋行することもあるから、買ってもらったみたいです」
「まあ、そんな大事なお洋服を貸してくださるなんて、お優しいのね」
「た、確かにいいヤツです。……で、でも、少し調子の良すぎるところもあって! いや、まあ、いいヤツです」
褒めたりけなしたりと慌ただしい武雄が可笑しくて、悉乃は笑みを漏らした。
「ふふ、本当に仲がよろしいんですのね」
「ええ、まあ。って、僕のことはいいんですよ! 悉乃さんこそ、今日はなんだか雰囲気が違うというか、その……きれいです」
武雄から向けられた視線に、悉乃はどぎまぎしてしまって俯いた。
新しい着物を着てきてよかった。この着物を誂えてくれたことだけは、悔しいけれど少しだけ、父・文信に感謝だ。
やがて、注文していた料理がテーブルに運ばれてきた。
「わああ、これがビフテキ! 初めて見ます」
武雄は出された料理に目をきらきらと輝かせ、両手にフォークとナイフを持った。
「武雄さん、左右逆ですわ。右手にナイフ、左手にフォーク」
「あっ、ああ、そうでした」
武雄はちらちらと悉乃を見ながら同じようにナイフとフォークを動かしたが、カチャカチャと不格好な音が鳴るばかりで、なかなかうまく切れない。そして最終的には力任せにガチャンと音を立てて肉を切った。「やった!切れた!」と喜びの声を上げたのもつかの間、勢い余ってソースが派手に飛び散った。
悉乃の顔にも、武雄の顔にも、飛び散ったソースが点々とついてしまった。
「う、うわああ! 大丈夫ですか、悉乃さん!?」
悉乃は、黙ってナプキンで顔を拭った。悉乃が何も言わないので、すっかり怒らせてしまったと思ったのか、武雄は怯えるような表情で悉乃を見ている。
「ふふっ」
「へ?」
「私は初めてフォークとナイフを扱った時、そこら中にお肉を跳ね飛ばしてしまいましたわ。ソースが少し飛び散ったくらい、なんでもありませんわ」
武雄はほっとしたように「なんだ、焦った……」と笑った。
「上出来ですわ、武雄さん。少し慣れれば外国でも十分やっていけますわよ」
「悉乃さんにそう言ってもらえると安心します」
半分ほど食べ終えると、二人は料理を味わって、会話を楽しむ余裕も生まれた。
悉乃にとっては、忘れられない幸せな時間になった。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる