没落令嬢、執事に逃げられる~手紙を見てしまった私の、必死な七日間~【全8話】

長田桂陣

文字の大きさ
5 / 8

変化

しおりを挟む
 翌朝。

「ウィリアム、今日は私が朝食を作るわ」

 コーデリアが宣言すると、ウィリアムは一瞬だけ目を見開いた。

「……お嬢様が、料理を?」
「何か文句があるの?」
「いいえ、とんでもない」
「お嬢様が、料理に挑戦されるとは。素晴らしいことです」
「……からかってるの?」
「いいえ。心から、そう思います」

 ――今まで一度も台所に入ったことないのに。

「大丈夫よ。セシリアとエリーから料理の本を借りてきたの」

 コーデリアは台所のテーブルを指差した。そこには、何冊もの料理本が積み重ねられている。

「借りられるだけ全部借りてきたわ。大丈夫、全部読んだから」
「全て……ですか」
「読み書きだけは得意なのよ」

 コーデリアが胸を張る。ウィリアムは料理本の山を見て、一瞬だけ困ったような顔をした。でも、すぐに微笑む。

「では、お手伝いを……」
「一人でやるわ!」

 強く言うと、ウィリアムは静かに頷いた。

 ――これは、私の戦いなの。

「……かしこまりました。ですが、お嬢様」
「何?」
「もし、何かございましたら、すぐにお呼びください。私は、すぐそばにおります」

 ウィリアムの声が、優しく響く。その目は、悲しげではなく、温かかった。



 台所でコーデリアは、自分で書き写したメモを見つめていた。何冊もの料理本から、一番簡単そうなレシピを選んで、丁寧に書き写したもの。
 背後では、ウィリアムが心配そうに寄り添っている。

『スクランブルエッグの作り方
 1. 卵を割る
 2. 塩を少々
 3. バターで焼く』

 ――簡単じゃないの。やることは三つだけ。読むのは得意なんだから。

 卵を手に取りテーブルに叩きつける。
 ガシャン。黄身が、床に飛び散った。

「……」
「大丈夫です、お嬢様」

 すぐ背後から、ウィリアムの優しい声が聞こえた。

「最初は、誰でもそうなります。私も、何度も床を汚しました」

 すぐ後ろからウィリアムの声が耳元にかかった。
 しかし、コーデリアはそれどころではない。
 もう一個。今度は慎重に。ボウルに――入った!

「お見事です、お嬢様」
「……まだ、途中よ」

 塩を手に取る。少々って、どれくらい?慎重に振りかける。フライパンにバターを落として、火をつける。強火?弱火?……強い方が早いわよね。
 バターが、激しく跳ねる。

「きゃっ!」

 卵を流し込むと、ジュワッという音とともに、白い煙がもくもくと上がる。

「え? え? どうして!?」
「お嬢様、火を弱めてください」

 ウィリアムの声が、耳元で聞こえる。さっきより、近い。手が伸びてきて、二人の手が重なった。コーデリアは料理に必死で、それどころではない。
 慌てて混ぜるが、卵はフライパンにこびりつき、焦げた匂いが部屋中に広がる。
 一緒に、火加減を調整する。

「お嬢様、大丈夫です。落ち着いて火を消しましょう」
「……分かってるわ」

 火を消すと、煙がゆっくりと消えていく。沈黙。
 やめろとか、危ないとか、そんな言葉を言われないかとコーデリアは焦っている。

 しかし、ウィリアムは何も言わなかった。
 コーデリアは、新しい卵を手に取る。

「今度こそ」

 背後から、ウィリアムの静かな気配を感じる。その温かさが、心を落ち着かせた。卵を割ると、今度は綺麗にボウルに落ちた。

「お見事です、お嬢様」

 塩を、慎重に振りかける。少しだけ、本当に少しだけ。

「その塩加減、完璧です」

 ウィリアムの声が、すぐ近くで聞こえる。フライパンにバターを落として、火をつける。今度は弱火。バターがゆっくりと溶けていく様子を、じっと見つめた。

「火加減も、申し分ありません。お嬢様は、本当に飲み込みが早い」

 卵を流し込むと、ジュワッという優しい音が響く。木べらで混ぜると、卵がふわふわと膨らんでいく。

「……できた」
「とても良い香りですね。私の作るものより、ずっと美味しそうです」

 ウィリアムの声が、耳元で囁くように響く。
 コーデリアは小声で呟いて、皿に盛る。黄色い、ふわふわの卵。振り返ると――ウィリアムが、すぐそこにいた。真後ろに。

「お見事です、お嬢様」
「でも、1回目は失敗したから……」

 テーブルの上にはもうひとつ、少々焦げた料理が乗った皿。

「焦げたのは、私が食べるわ。ウィリアムにはこれを」
「いいえ、お嬢様」
「私は、一回目のをいただきます。お嬢様が最初に作られたもの。それが、一番大切です」

 ウィリアムの目が、優しい。

「……変なの」

 ウィリアムは、いつもこうだ。コーデリアが何を言っても、どんなに強がっても、ずっとそばにいてくれる。



「お待たせ、ウィリアム」

 コーデリアが皿を置くと、ウィリアムは静かにそれを見つめた。ダイニングテーブルに置かれた、黒い何か。沈黙が流れる。

「……スクランブルエッグよ」
「お嬢様の、初めての料理ですね」
「……文句があるの?」
「いいえ、とんでもない。お嬢様の初めての料理を、私がいただけるとは。こんなに光栄なことはありません」

 ウィリアムはフォークを手に取って、丁寧に一口運ぶ。

「いただきます」

 口に入れる。一瞬、顔が――ほんの一瞬だけ――歪んだ。でも、すぐに笑顔に戻る。

「……どう?」
「美味しいです。お嬢様が、私のことを想って作ってくださった。その気持ちが、何よりも嬉しい」

 ――嘘。絶対嘘。

「本当に?」
「はい。料理は、心を込めて作るもの。お嬢様の心は、確かに伝わりました」

 ウィリアムはもう一口食べる。また一口、そしてまた一口。顔色一つ変えずに、黙々と食べ続ける。フォークが皿に触れる、小さな音だけが響く。コーデリアはその様子を見つめていた。この人、全部食べるつもりなのだろうか。

 自分も一口食べてみると――しょっぱい。焦げている。殻が、口の中でジャリッと音を立てた。

「待って!」

 コーデリアが叫ぶと、ウィリアムはフォークを止めた。

「お嬢様?」
「……食べないで。不味いわよね……」

 小声で言って、俯く。ウィリアムは静かにフォークを置いて、優しく微笑んだ。

「お嬢様。顔を上げてください」
「……でも」
「お願いします」

 コーデリアが顔を上げると、ウィリアムの目が優しく微笑んでいた。

「お嬢様は、今日初めて台所に立たれたのですよね」
「……そうよ」
「それなのに、ここまで形になっている。本当に、素晴らしいことです」
「でも……」
「私も、最初は失敗ばかりでした。卵を焦がして、塩を入れすぎて、何度も何度も失敗しました」
「……ウィリアムが?」
「はい。ですが、諦めずに続けたから、今があります。お嬢様も、必ずできます」

 ウィリアムが、そっと手を伸ばす。

「私が、そばでお手伝いいたします。次は、もっと上手くいきます。私が保証します」

 この人は、いつもこうだ。私がどんなに失敗しても、どんなにわがままを言っても、いつも優しく微笑んでくれる。いつも、そばにいてくれる。胸が、熱くなる。

「……ありが……」

 言いかけて、止まる。やっぱり恥ずかしい。言えない。

「お嬢様?」
「何でもないわ!」

 慌てて立ち上がって、失敗作の皿を掴んで台所へ逃げる。

 ――馬鹿! せっかくのチャンスだったのに!

 背後から、ウィリアムの優しい笑い声が聞こえた。



 台所。

 コーデリアは、台所の隅に置いた皿を見つめていた。黄色い、ふわふわの卵。2回目の、成功作。

 ――私が、作ったの。

 フォークを手に取って、一口食べてみる。

 ――美味しい。

 少し塩が多いけど、ちゃんと卵の味がする。

 ――できた。

 胸が、温かくなる。

「お嬢様」

 ウィリアムの声が聞こえた。振り返ると、ウィリアムが台所の入口に立っている。

「……何?」
「お嬢様が作られた料理。本当に、美味しかったです」
「……嘘ばっかり。不味かったでしょう」
「いいえ。お嬢様の心が、込められていました。それが、何よりも美味しかったのです」

 その言葉に、胸が熱くなる。

「……ありが……」

 言いかけて、止まる。やっぱり恥ずかしい。言えない。

「お嬢様?」
「何でもないわ! 次は、もっと美味しく作るんだから!」

 慌てて顔を背ける。背後から、ウィリアムの優しい笑い声が聞こえた。そして、小さく囁くような声が。

「お嬢様。あなたは、本当に素晴らしい」



 その夜、ベッドの中。

 コーデリアは天井を見つめていた。月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいる。

 ――今日、『ありがとう』を言えなかった。また、恥ずかしくて。

 枕を抱きしめると、柔らかな感触が心を落ち着かせる。でも、少しは成長した?料理が、できるようになった。ウィリアムと、一緒に。心が、温かい。

 ――そういえば。

 今日の料理のこと。ウィリアムの声が、すぐ背後から聞こえていた。耳元で、囁くように。「お見事です、お嬢様」「その塩加減、完璧です」「とても良い香りですね」。あの時、ウィリアムはどこにいた?

 ――背後に、気配を感じていた。
 ――手が、重なった。

 でも、料理に必死で、振り返らなかった。一緒に、火加減を調整した。「こう、ですか?」「はい、完璧です」。

 ――あれ?

 コーデリアは、ベッドの中で固まった。

 ――ウィル、すごく近かったんじゃ……?

 振り返った時、すぐそこにいた。真後ろに。こんなに、近くに?顔が、熱くなる。

「……馬鹿」

 小声で呟いて、枕に顔を埋めた。今頃、気づくなんて。でも、心臓が、早く打っている。ウィリアムの、手。ウィリアムの、声。ウィリアムの、温かさ。あの距離。あの近さ。枕の中で、顔が熱い。

 ――料理に必死で、何も気づかなかった。でも、ウィルは、ずっとそばにいてくれた。真後ろで、見守っていてくれた。

 もっと、成長したい。ウィルに、認めてもらいたい。そして……出ていかないでほしい。

「ウィル……」

 小声で呼ぶと、その名前が、夜の静けさに溶けていく。でも、届かない。

 ――明日も、頑張ろう。明日こそ、『ありがとう』を言おう。そして、もっとウィルのことを……

 そう思いながら、コーデリアは眠りに落ちた。心臓は、まだ早く打っている。



 同じ夜。

 ウィリアムは、自室で手紙を見つめていた。マグナス公爵家からの書状。

『返答期限:本状到着より一週間以内』

 手紙が届いてから、今日でちょうど一週間。

 ――今夜。今夜、ノーウッド様に返事をしなければ。

 ウィリアムは静かに目を閉じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~

紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。 ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。 邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。 「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」 そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。

狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。 元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。 与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。 本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。 人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。 そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。 「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」 戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。 誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。 やわらかな人肌と、眠れない心。 静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。 [こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]

公爵令嬢の秘密

下菊みこと
恋愛
今回もヤンデレ。今回も自重しない。普通にいつもの短い感じです。 小説家になろう様でも投稿しています。

女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る

小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」 政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。 9年前の約束を叶えるために……。 豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。 「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。 本作は小説家になろうにも投稿しています。

身代わり令嬢、恋した公爵に真実を伝えて去ろうとしたら、絡めとられる(ごめんなさぁぁぁぁい!あなたの本当の婚約者は、私の姉です)

柳葉うら
恋愛
(ごめんなさぁぁぁぁい!) 辺境伯令嬢のウィルマは心の中で土下座した。 結婚が嫌で家出した姉の身代わりをして、誰もが羨むような素敵な公爵様の婚約者として会ったのだが、公爵あまりにも良い人すぎて、申し訳なくて仕方がないのだ。 正直者で面食いな身代わり令嬢と、そんな令嬢のことが実は昔から好きだった策士なヒーローがドタバタとするお話です。 さくっと読んでいただけるかと思います。

転生したので推し活をしていたら、推しに溺愛されました。

ラム猫
恋愛
 異世界に転生した|天音《あまね》ことアメリーは、ある日、この世界が前世で熱狂的に遊んでいた乙女ゲームの世界であることに気が付く。  『煌めく騎士と甘い夜』の攻略対象の一人、騎士団長シオン・アルカス。アメリーは、彼の大ファンだった。彼女は喜びで飛び上がり、推し活と称してこっそりと彼に贈り物をするようになる。  しかしその行為は推しの目につき、彼に興味と執着を抱かれるようになったのだった。正体がばれてからは、あろうことか美しい彼の側でお世話係のような役割を担うことになる。  彼女は推しのためならばと奮闘するが、なぜか彼は彼女に甘い言葉を囁いてくるようになり……。 ※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。

私を簡単に捨てられるとでも?―君が望んでも、離さない―

喜雨と悲雨
恋愛
私の名前はミラン。街でしがない薬師をしている。 そして恋人は、王宮騎士団長のルイスだった。 二年前、彼は魔物討伐に向けて遠征に出発。 最初は手紙も返ってきていたのに、 いつからか音信不通に。 あんなにうっとうしいほど構ってきた男が―― なぜ突然、私を無視するの? 不安を抱えながらも待ち続けた私の前に、 突然ルイスが帰還した。 ボロボロの身体。 そして隣には――見知らぬ女。 勝ち誇ったように彼の隣に立つその女を見て、 私の中で何かが壊れた。 混乱、絶望、そして……再起。 すがりつく女は、みっともないだけ。 私は、潔く身を引くと決めた――つもりだったのに。 「私を簡単に捨てられるとでも? ――君が望んでも、離さない」 呪いを自ら解き放ち、 彼は再び、執着の目で私を見つめてきた。 すれ違い、誤解、呪い、執着、 そして狂おしいほどの愛―― 二人の恋のゆくえは、誰にもわからない。 過去に書いた作品を修正しました。再投稿です。

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

処理中です...