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ピザ職人のマジシャン
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日本中が一番希望にあふれるプレミアムな時間。それが金曜日の夕方に違いない。
彼らは一週間のたまった疲れや鬱憤を、ワインの中に溶かしこみ、陽気に呑み下していく。苦みばしったタンニンを楽しむには、ブラックな職場がおすすめだ。
舌を楽しませる料理、耳を楽しませるアッレグーロな音楽。そして目を楽しませるピザ職人の鍛えられた手技。
「ヴェルデ、ビアンコ、ロッソでトリコローレ!!」
厨房手前のピザ窯では明るい声が反響する。緑、白、赤の美味しさのトリコローレ。マルゲリータピザを見せつけるように取り出した青年の筋肉は、汚れのないシャツも盛り上げる。
ピザを受け取り、切り分ける女性。
「こちらは、当店からのサービスです。一枚どうぞ」
ありがとう。このチーズいいね。無言で青年に送られるグッドサイン。
どんな大人でも美味しいものを食べたときの笑顔は混じりけがない。まさにマジックだ。青年はその時の笑顔が好きなのだろう。鍛え上げられた広背筋がピクピクしているのがわかる。
今日もまた、東京の片隅で繰り広げられたローマの宴は終わりを告げる。
間もなくラストオーダーです。追加注文はお済みですか。
店長と社員。料理長とソムリエ。僕たちの関係は売上の集計を終えると夫婦に戻る。
しかしこの時間。この時間こそがプレミアムなのだ。夫婦でもなく、ギチギチの従業員でもない、中途半端であるこの時間。
甘酸っぱくくすぐったい初心を忘れないことが、円満夫婦の秘訣。
「うーん。冷めてもいい味出してるね。パリパリも好きだけど、もちもちもいいね」
「いやいや、いいチーズを使っているからね。今年の山羊はいい乳を出すね」
「もー。本当にポンコツ店長だな。高梨くんを褒めてるの。もしかして嫉妬してる」
「いやいや、冷めたピザを褒めるのは嫌味になるでしょ」
「えー、美味しいものは美味しいでいいじゃん。ね、高梨君」
開けてしまったワインの処理、もとい賄いを楽しむ私達夫婦。そこにピザ窯の掃除を終えてくる彼が見えた。
グラスに入れられた赤ワインには泡が浮かんでる。
「お疲れ様だね、高梨くん」
「いえ」
「本当にお疲れ様。君の腕ならどこでもやっていけるよ」
「いえ。6年半の間、本当にありがとうございました」
6年間と半年。小学生も大学生になるほどの期間。私に子供はいないが独り立ちをする息子を見送る親の気持ちがわかる。
私は、やめていく彼を止める言葉を持たなかった。たとえ彼を思ってのものであっても崖から飛び降りる彼を止められなかった。
お前は他人だ。そう言われるのが怖かったのだ。
「せっかく開けたのに無駄になっちゃいましたね、店長。高梨くん、マジシャンなんてやめて本格的にやればいいのに」
「そうなったら、ものすごいライバル店になるだろうね。でも、本当に残念だよ。あの指捌きはマジシャンだからなのかな」
「あら。マジックの練習でもするの、あなた。もっとテクニシャンにならないと年末の一発芸は出来ないわよ」
「そうだな。今夜から始めようかな」
次の週。私達は彼が店をやめた理由を知ることになる。その時、私の胸には罪悪感は残っていなかった。あるのは、あれだろう。
私は息子を誇りに思う。
それだけだ。
彼らは一週間のたまった疲れや鬱憤を、ワインの中に溶かしこみ、陽気に呑み下していく。苦みばしったタンニンを楽しむには、ブラックな職場がおすすめだ。
舌を楽しませる料理、耳を楽しませるアッレグーロな音楽。そして目を楽しませるピザ職人の鍛えられた手技。
「ヴェルデ、ビアンコ、ロッソでトリコローレ!!」
厨房手前のピザ窯では明るい声が反響する。緑、白、赤の美味しさのトリコローレ。マルゲリータピザを見せつけるように取り出した青年の筋肉は、汚れのないシャツも盛り上げる。
ピザを受け取り、切り分ける女性。
「こちらは、当店からのサービスです。一枚どうぞ」
ありがとう。このチーズいいね。無言で青年に送られるグッドサイン。
どんな大人でも美味しいものを食べたときの笑顔は混じりけがない。まさにマジックだ。青年はその時の笑顔が好きなのだろう。鍛え上げられた広背筋がピクピクしているのがわかる。
今日もまた、東京の片隅で繰り広げられたローマの宴は終わりを告げる。
間もなくラストオーダーです。追加注文はお済みですか。
店長と社員。料理長とソムリエ。僕たちの関係は売上の集計を終えると夫婦に戻る。
しかしこの時間。この時間こそがプレミアムなのだ。夫婦でもなく、ギチギチの従業員でもない、中途半端であるこの時間。
甘酸っぱくくすぐったい初心を忘れないことが、円満夫婦の秘訣。
「うーん。冷めてもいい味出してるね。パリパリも好きだけど、もちもちもいいね」
「いやいや、いいチーズを使っているからね。今年の山羊はいい乳を出すね」
「もー。本当にポンコツ店長だな。高梨くんを褒めてるの。もしかして嫉妬してる」
「いやいや、冷めたピザを褒めるのは嫌味になるでしょ」
「えー、美味しいものは美味しいでいいじゃん。ね、高梨君」
開けてしまったワインの処理、もとい賄いを楽しむ私達夫婦。そこにピザ窯の掃除を終えてくる彼が見えた。
グラスに入れられた赤ワインには泡が浮かんでる。
「お疲れ様だね、高梨くん」
「いえ」
「本当にお疲れ様。君の腕ならどこでもやっていけるよ」
「いえ。6年半の間、本当にありがとうございました」
6年間と半年。小学生も大学生になるほどの期間。私に子供はいないが独り立ちをする息子を見送る親の気持ちがわかる。
私は、やめていく彼を止める言葉を持たなかった。たとえ彼を思ってのものであっても崖から飛び降りる彼を止められなかった。
お前は他人だ。そう言われるのが怖かったのだ。
「せっかく開けたのに無駄になっちゃいましたね、店長。高梨くん、マジシャンなんてやめて本格的にやればいいのに」
「そうなったら、ものすごいライバル店になるだろうね。でも、本当に残念だよ。あの指捌きはマジシャンだからなのかな」
「あら。マジックの練習でもするの、あなた。もっとテクニシャンにならないと年末の一発芸は出来ないわよ」
「そうだな。今夜から始めようかな」
次の週。私達は彼が店をやめた理由を知ることになる。その時、私の胸には罪悪感は残っていなかった。あるのは、あれだろう。
私は息子を誇りに思う。
それだけだ。
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