ムシ

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ムシ

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 私は虫が苦手だ。そんな人はいくらでもいるだろうが、部屋にGが出ただけで引っ越しする人間は少ないらしい。だってあいつら一匹いたら三十匹いると言うのだから、引っ越して当たり前だろうに。


 近付くどころか遠目に入るだけでも恐怖で固まるので、蚊を殺す事も出来ない。一人暮らしだと言うのに、蚊が出ただけで親に電話で助けを求める程だ。


 虫が苦手な人間も、蝶なら大丈夫などと言うのは幻想だ。成程あの胴体や脚は気持ち悪いかもね? いや、羽根だって十分気持ち悪いだろう。本物の虫嫌いはあの模様も苦手なのだ。


 そんな私だから部屋は隅々まで奇麗に掃除する。まずは水回り。キッチンだ。ここを放置すれば虫が湧くので、徹底的に水滴一つ残さず奇麗にする。次にお風呂を掃除。ここも放置する事は出来ない。そしてトイレだ。奇麗にしよう。それから窓拭きをサッシまでして、部屋の掃除である。上から下へ埃を落とし、部屋の奥から玄関へ向けて払っていく。最後に掃除機で〆るのが私のやり方だ。


 ここまでやって、やっと虫が部屋にいない確認が取れてひと段落する訳で、我ながら難儀な性格だと自分でも思う。


 そんな私だから、赤色に拒絶反応を示すようになったのは至極当然の事だった。


 それは臙脂色や洋紅、カーマイン、コチニールレッドとも言われる、とても発色の良い赤色なのだが、この原料がカイガラムシと言う虫なのだ。たとえ虫嫌いでなくても、画像検索はお勧めしない集合体恐怖症になる事請け合いだからだ。はあ、何故私はこれを検索してしまったのか。理由としては原因を理解する事で安心したかったのだろう。


 このカイガラムシ、赤い顔料として使われるのは雌だけだ。理由は雄には羽根が生えていて、飛んでいってしまうからだそうだ。カイガラムシの雌を乾燥させてすり潰し、温水や熱水で赤色を抽出するのだ。想像しただけで鳥肌が立つ。


 カイガラムシから抽出された顔料は、コチニール色素、カルミンとして、絵の具に使われるだけでなく、糸を染める染料として使われたり、革に着色するのに使われたりする訳で、そんな服や靴を身に付けていたと思うと、ゾッとして赤系統の服なんて着れなくなるのは当たり前の話だ。


 更にはこの赤色、食品添加物として使われるのだ。ネットで調べただけでも、清涼飲料水から、酒、菓子類、ハム・ソーセージ類、蒲鉾などにも使われていると言う。いちご味のお菓子や飲み物の色付けに使われていたのは有名かも知れない。救いはこのコチニール色素は日本では食品衛生法で表示が義務付けられている事だろう。食品表示を良く見れば回避出来る。


 更に更に嫌な事に、このコチニール色素、化粧品にも使われているのだ。嫌過ぎる。発色が良い赤が出るからと言って、虫を顔に塗るなんて、おぞましい。なので私は安易にプチプラやネットに走らず、デパートなどの化粧品店の美容店員さんに、コチニールやカルミンが使われていない化粧品を尋ねて使用している。


 更に更に更に嫌な事に、このコチニール、医薬品や医薬部外品にも使われていたりする。人によってはアナフィラキシーを起こすそうなので、食品として食すにしろ、化粧品として使用するにしろ、注意が必要なのだ。


 さて、万事万端な私は今日も虫と目を合わせないように、下を向かずに上だけ見て歩いているのだが、いやあ、緑が奇麗ですねえ。周囲は木々に囲まれ、山の頂上は未だ隠れて見えない。あと何時間登れば良いのか。うう、どうしてこうなったのか。


「大丈夫? 疲れてない?」


 前方を歩く彼が、私を振り返ってそう尋ねてくれた。「大丈夫」と答えたいが、そんな気力も残っていない。虫の侵入を防ぐ為に着込んだのが災いして、服の中が汗で蒸し風呂状態なのだ。


「少し休もうか」


 彼の言葉に甘え、丁度良く見付かった木のベンチでひと休み。いつ虫と目が合うか分からず、こちらはもう疲労困憊だから、ありがたい。


「はい」


 と肩で息をする私に、お茶を渡してくれる彼は優しいのだろうか? いや、初めてのデートで山を選択している時点で優しくない。と言うかおかしい。普通、「どこに行こうか?」「どこでも良いよ」ってなったら、街中のデートスポットを選ぶでしょう? まさか山登りする事になるなんて思わないじゃない。


「いやあ、やっぱり山は良いよね! 空気は美味しいし、景色は奇麗だし、都会の喧騒を離れて、こうやって山を登っていると、心がリフレッシュされるよ!」


 何それ? 確かに空気は美味しいかも知れない。景色だって私の苦手な赤が無いから嬉しいくらいだ。でも心がリフレッシュするのはどうだろう? リフレッシュどころか、いつ虫が出てくるか分からず、神経が摩耗しそうなんだけど? 山は虫たちの棲家なのだ。私からしたら立入禁止区域なのだ。はあ、帰りたい。


「さあ、休憩はこのくらいにして、山登りを再開しよう! 頂上まであと半分くらいだからね! 頂上から見る景色は最高だよ!」


 彼の言葉に、私が山を下った事を誰が責められようか。その彼とはこのデート一回きりでお別れしたのだが、その後もしつこく粘着してきて、こいつが虫みたいだと、無視を決め込んだ。

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