秘奥

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 ヒオウギガイと言う貝を知っているだろうか? 形はホタテに似た二枚貝で、食用として養殖もされているが、何よりその色が特徴的な貝である。


 桧扇貝、または緋扇貝とも書かれるように、赤は勿論、オレンジ、黄色、紫と、様々な色をしているので、三重県志摩市では別名、虹色貝として商標登録もされている貝だ。


 貝一つ一つは単色なのだが、個体それぞれ色鮮やかなので、貝殻を加工して土産物として売っている地域などもある。それが自分の部屋にもあるのだ。勉強机に飾っている。


 調べてみると天然のヒオウギガイは褐色である事が多いらしく、養殖によって様々な色を定着させているようだ。なので俺の部屋にある様々な色のヒオウギガイの貝殻も、きっとどこかの土産物屋で買ったものなのだと思うのだが、俺の記憶と齟齬がある。あれは夢だったのだろうか?


 まだ幼かった俺は、眠っていた。いや、だったら夢だろ? と思うだろうが、この話は俺が起こされる所から始まるのだ。


 ◯ ◯ ◯


 俺には姉がいるのだが、姉に身体を揺すられて目を覚ます。場所は車の後部座席で、気持ち良く寝ていたのにと思いながら姉の方を見れば、姉は窓の外を指差していた。なんだろう? と姉が指差す方を俺も見遣ると、そこには海が広がっていた。緑の木々が生い茂る先に青い海がどこまでも広がっており、その先は青い海と青い空が交わっていた。


 幼いながらも心に残るその光景に、心奪われているうちに、俺たち家族は民宿に到着したのだ。道路が砂浜と民家を分け、親たちがトランクから荷物を出している間、暇だった俺は、ぼーっと海を眺めていた。


「行くぞ」


 海に見惚れていた俺を、父の声が現実に引き戻し、民宿の方へ顔を向けると、民宿を経営している一家がこちらへ笑顔を向けていた。その中に、親の影に隠れるようにこちらを見詰めている、俺と同じくらいの背格好の女の子がいたのだ。俺よりも日に焼けた子で、花柄のワンピースを着ていた。


 女の子の名前は覚えていないが、子供と言うのは不思議とすぐに仲良くなるもので、第一印象はおとなしい子だと思っていた彼女だったが、仲良くなると思っていた以上に活発で、彼女は俺を色んな所へ引き摺り回した。民宿のすぐ目の前の砂浜は当然の事、少し離れた磯で小さなカニやエビを捕まえたり、民家の密集した地区を鬼ごっこしたり、誰の家だか分からない家に突撃しては、その家の家主のおばあさんからカキ氷をご馳走して貰ったりしていた。


 そうやって彼女と様々な遊びをしていて、俺の中で一番印象に残っているのが、入り江でこのヒオウギガイを拾った事だった。そこは周りを高い崖に囲まれた入り江で、俺と彼女以外誰もおらず、そこには様々な色のヒオウギガイの貝殻が落ちていたのだ。


 俺と彼女はそこで日が暮れるまで遊び更け、名残惜しく思った俺は、その入り江の思い出として、ヒオウギガイの貝殻を持って帰ったのである。それが俺の思い出だ。


 ◯ ◯ ◯


「ヒオウギガイが有名な場所には行ったけど、そんな入り江には行っていないぞ」


 家族で昼食を食べている時の事だ。テレビでヒオウギガイの特集をしていたので、この話をしたら、家族全員が頭にハテナマークを浮かべて、父がそう答えた。


「ヒオウギガイって、確か帰りに道の駅で買って帰ったのよねえ」


 母は語る。


「あれ、意外と美味しかったよねえ。って言うか、アンタ、まだあの貝殻、大事に飾ってるよねえ」


 と姉が追い打ちを仕掛けてきた。一気に顔が真っ赤になったのが自分で分かった。どうやら俺は壮大な勘違いをしていたらしいのだ。だが俺にはあれが夢だったようには思えなかった。


「そう言えば、あの民宿、閉じちゃったんでしょ?」


「ああ。あの辺、ホテル会社が買い取って、土地開発する事が決まってな。お兄さんの家はモロに開発地区のど真ん中だったから、もう引っ越したってよ」


「え? あの民宿、うちの親戚が経営していたの?」


「親戚って言っても遠縁だけどな。兄貴の嫁さんのお兄さんが経営していたんだよ」


 へえ。そうだったのか。


「そんなに気になるなら、今度の連休にでも行ってきたらどうだ?」


「へ?」


 ◯ ◯ ◯


 こうして、俺は遠縁のおじさんの家に行く事になったのだ。九州の太平洋に面した一角で、関東から飛行機で飛び、更に電車に揺られてののんびりした旅行で、目的の無人駅に降り立つと、目の前が海で、青い海と青い空が交わるその光景は、俺の記憶の中にあるものと同じだった。故郷じゃないのに、帰ってきた気になった。


「来たわね」


 駅から出てすぐに、トラックを背に褐色の肌の女性が立っていた。すぐに分かった。あの彼女だと。


「ありがとね、人が出ていく一方だから、人手が必要だったのよ」


 トラックに乗り込むなり、彼女は運転しながらそう語る。おれがここへ来たのは、思い出を確かめる為でもあるが、彼女の父であるおじさんがしている漁の手伝いの為でもあった。


「俺が手伝っても、邪魔じゃないかな?」


「う~ん……。ま、大丈夫でしょ」


 何か楽天的だな。そう言えば昔からこんな子だった。と記憶が甦る。


 ◯ ◯ ◯


「す、すみません、あんまりお役に立てなくて」


「気にする事ねえよ。十分役に立った」


 連休最終日、昼飯時におじさんは俺の背中をバンバン叩いて励ましてくれたが、船上の俺は船酔いでゲロ吐きまくりで、半分程しか仕事がこなせず、あとは船内で横になっていたのだ。これで役に立ったとは言えないだろう。はあ。


「そんなに気を落とさないでも良いのに。そうだ! 帰りの電車までまだ時間あるよね? ちょっと付き合ってよ」


 テーブルの対面に座る彼女の、屈託のない笑顔に、俺は頷くしか無かった。


 ◯ ◯ ◯


「また船かあ」


「はいはい。そんな肩落とさないで、乗った乗った」


 と彼女に促され、彼女の操船する船で向かったのは、ちょっと離れた場所にある小島だった。その入り江に船が止まった所で、俺の記憶が甦る。


「ここだ!」


「ああ、やっぱり覚えてた?」


 崖に囲まれたその入り江は、正しく俺の記憶の中にある入り江だった。


「本当に実在したんだ」


「何それ?」


 怪訝な顔をする彼女に、俺は事の経緯を説明する。


「それね。私と君だけを、お父さんがここに連れてきてくれたからじゃないかなあ。ここって、地元の人以外には秘密の場所だから」


「そうだったんだあ。あれ? 良いの? 俺に教えて」


「この数日、頑張ってくれたからね。そのお礼。でも秘密にしていてよ?」


 と彼女は人差し指を口に当ててウインクする。


「ああ。絶対に秘密にするよ」


 こうして俺は、己の記憶と地元民の秘奥にあるヒオウギガイの入り江で、時間が許す限り彼女と戯れ、色とりどりのヒオウギガイの貝殻を土産に帰っていったのだった。彼女にまた戻ってくる事を約束して。

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