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【第四章 王江涇】第一節 嘉靖大倭寇の始まり
大倭寇前夜
しおりを挟む岑芝が海南島への遠征中に倒れた嘉靖二十九(一五五〇)年は〝嘉靖大倭寇〟と呼ばれる中国沿海部における大混乱の序章というべき段階にあった。
その二年前の嘉靖二十七(一五四八)年に寧波沖の国際貿易港、双嶼が精錬剛直のひと、朱紈により閉鎖された。浙江巡撫の朱紈は明の祖法である海禁の法を厳格に運用し双嶼を攻略したのだが、結果としては、まがりなりにも双嶼にまとまっていた荒くれ者どもを散らせる結果となった。朱紈は海禁の法強化により不利益を被る官吏や沿海部の富商らの運動により失脚し不幸な死にかたをする。朱紈ののち解禁の法は緩和され、四方に散った海商たちの活動は却って活発となった。
海商たちは離合集散し、次第に頭角を現したのが王直である。王直は双嶼滅亡時の最大勢力だった許棟の集団の幹部のひとりだったが、許棟が死んだあと双嶼を追われた海商たちをまとめて力をつけていった。
いずれの海商も貿易商人としての顔と海賊としての顔の二面を有していたが、王直の率いる集団は貿易の方が主だったようで、明朝は王直に対し沿海で暴力行為を繰り返す海賊を捕らえるよう命じ、従えば海上交易を黙認すると約束した。毒をもって毒を制しようというのである。
王直はこれに応じて、盧七、沈九のふたりを首領とする集団を壊滅させた。これがちょうど岑芝が死んだ嘉靖二十九(一五五〇)年のことである。
海上交易を黙認されることになった王直は、寧波の外港、定海から目と鼻の先の瀝港に拠点を築く。
瀝港は大陸にごく近い金塘島の西岸に位置しており、外洋から瀝港に交易のためにやってくる船は舟山諸島の島々のあいだを抜けてくる必要があるのだが、それらの船をしばしば襲撃する集団があった。王直にまさるとも劣らない勢力を有していた陳思盻の集団である。
嘉靖三十(一五五一)年。王直は周到な準備をして陳思盻の拠点を不意をついて襲い、陳思盻を殺害した。
これをもって王直は中国沿海の覇権を確立した。
王直は自分に敵対する者は力で倒し、そうでない者は傘下に加え、勢力を拡大していった。
ちなみにこのころ、普浄という名を捨て僧侶から海商に転じた徐海も王直集団に身を置いていた。徐海は、王直の古くからの友人でかつ腹心である徐銓の甥であり、そのつてで瀝港にはいり王直の傘下に加わったのである。
ただ、傘下に加わったといっても、首領と配下というような関係よりも緩く、王直の支配する瀝港を拠点としつつも、ある程度の自由をもって活動をしていたようだ。
嘉靖三十(一五五一)年に徐海は徐銓とともに初めて日本に渡り南九州の大隅に至る。徐海が寺を出てから四年が経ち、その間殺生も繰り返してきているが、頭頂部や身なりなど、外観は未だ僧侶のままだった。そんな徐海を地元の人々は中国の高僧と思い込んで、敬い、施しをおこなった。徐海は地元の人々の助けにより船と乗員兼戦闘員を得て翌嘉靖三十一(一五五二)年に瀝港に戻る。
この時期の王直と徐海とのあいだでおこった事件が一五六〇年頃に書かれた鄭舜功著の『日本一鑑』の徐海割注に記録されている。ほぼそのまま訳してみると、
〈そのころ徐銓と王直は海道(省レベルの文官の海防長官)の命令書を奉じて出港し賊を捕らえては官憲に送致していた。一方で徐海の船の日本人はしばしば密かに出港して交易を求めてくる沿海船を劫掠した。劫掠に遭った者が瀝港に来たとき、劫掠をおこなった日本人をみかけたので、(劫掠をした者であると)気づいていないふりをしつつあとをつけたところ、徐海の船の日本人であることがわかった。そこで、王直に訴えた。王直は「われらが港を出て賊を捕らえているときに、(自分の)港のなかに賊がいようとは思わなかった」といって徐海を叱責した。徐海は怒り王直を殺そうと考えたが、徐銓もまた(徐海の海賊行為を)戒めて(王直殺害を)やめさせた〉
以降、徐海は王直から独立して活動するようになる。
徐海は瀝港を出て再び日本にいった。そして嘉靖三十三(一五五四)年に薩摩や大隅の者など日本人を引き連れ明に戻り海賊行為をおこなう。そして、翌嘉靖三十四(一五五五)年にも来明し、複数の倭寇集団のなかで最大勢力の首領として浙江沿海で暴れまくる。
話を嘉靖三十一(一五五二)年ころの王直に戻すと、このころ王直は自分に並び立つものはおらず、海上交易で大きな利を上げて絶頂ともいうべき状態にあった。
この時期に王直は自らを「徽王」とか「浄海王」と称し、王位に就く儀式までおこなったという。徽王というのは王直の出身地が徽州歙県だからだろう。浄海王というのは海賊をなくし海上を浄める海の覇者たらんという意味だろうか。
ところが、翌嘉靖三十二(一五五三)年になると状況が変化する。
朱紈の死後、明朝は海禁の法を緩めたが、それは、取り締まりを強化すれば漁民など沿海の民の生活が困難となり、困窮した民が海賊化し、却って海賊の害が増す、との考えが朝廷内で主流となったことが主因である。ところが海禁の法を緩めても目立った成果は得られず、浙江沿海や長江流域では海賊の被害が続いていた。明朝は再び海禁の法強化に舵を切り、王忬を提督軍務巡視(のちに巡撫に昇進)として派遣した。
王忬はさっそく兪大猷、盧鏜、湯克寛といった人材を招集した。兪大猷は、先に触れたとおり、岑芝が戦死した海南島の叛乱討伐時に参将を務めた武挙(武官の登用試験)出身の武人で、直近は広東都指揮使僉事に就いており、福建沿海での海防の経験も豊富である。盧鏜は、朱紈に重用され双嶼攻略で華々しい功を立てたが朱紈とともに失脚し獄につながれていた。それを王忬が運動して獄から出し、現場に復帰させたのである。
南方の任地から北上し浙江の温州に着いた兪大猷は王忬に対して「議王直不可招(王直を招撫すべきではないと議す)」と題した意見書を提出し、そのなかで王直らを「海上之劇寇(海上の大悪人)」であると痛烈に批判し、招撫などせず瀝港を掃討するべきとした。
三月、瀝港の奇襲攻撃が実施された。
瀝港の位置する金塘島は周囲が三十キロメートルほどのやや縦長の小島であり、兪大猷が中軍を率いて瀝港の正面、すなわち島の西側から攻めかかった。そして湯克寛が敵の背後である島の東側から攻める。敵の退路を遮断し完膚なきまでに叩き潰そうという作戦である。
賊船数十艘が焼かれ、捕らえた賊の数は千余人にのぼった。明軍の大勝利である。この戦いののち兪大猷は「平倭港」と刻んだ〝平倭碑〟を建立したが、その碑は現在も寧波にほど近い金塘島の瀝港村に建って当時の様子を物語っている。
とはいえ、このとき王直は捕縛を免れた。この日は天候が悪く、波が高く強風が吹いたため明軍の攻めに一瞬の隙が生じた。その隙をついて王直は瀝港を脱出した。
王直はその年の夏に日本へ渡り、以降日本の平戸に腰を据える。
兪大猷は肝心な王直を捕り逃した責任を取らされ俸給の停止処分を受けた。
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