花の舞う海〜倭寇に勝った女の物語

堀井九太郎

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【第四章 王江涇】第二節 着陣

海へいくことはないわ

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 海南島沖で岑芝しんしが死んだあと、花蓮は岑猛と邦彦を失ったときと同じように部屋に閉じこもり、泣き、そしてひたすらに食べた。しかし今回は、そんな暮らしを長く続けることは許され得なかった。
 岑芝がいなくなった田州をまとめていかなくてはならなかったのだ。岑芝の子の大寿たいじゅはまだことばもまともに喋れない赤ん坊であり、土舎土目も領民も、彼女が悲しみを乗り越え部屋の戸を開くことを強く望んだ。
 花蓮が摂政として政務全般を取り仕切る日々が再び始まった。

 それから四年が過ぎた嘉靖三十三(一五五四)年。
 大寿は六歳になったばかりである。まだ花蓮が聴政を続ける必要がある。ただ国内政治情勢はこの四年ずっと安定しており、もはや細々とした政務までみる必要はなくなっている。
 そこで花蓮は、内政面から始め、権限を土舎土目に徐々に移譲していくことにした。 
 その結果、岑芝のために涙を流せる時間が増えていった。思えば、岑芝が死んだ直後は悲しみが大き過ぎ、押しつぶされそうな気持ちからのがれるために敢えて政務に忙殺されようとしていたのかもしれない。ときを経て多少は気持ちが癒えている。いまなら岑芝の死に向き合うことができるのかもしれない。
 花蓮はそう思った。

 初夏、朝廷から使者が来た。
 南面する使者に正対して大寿が詔を受ける。
 詔は、沿海で猖獗を極める倭寇に対するために田州から江浙地方へ派兵するよう求めるものだった。
 使者をねぎらう宴席で花蓮は使者に対してきっぱりといった。
「兵は出さないわよ」 
 使者は驚きの目で、
「い、いまなんと」
と訊き返したが、花蓮のなかでは確たる考えであり、それ以上のことをいう気になれなかった。
 使者が
「いまなんといわれたか」
と繰り返した。しかし花蓮にはその慌てようが愚かしくみえた。自分を縛るのは自分の心のみであって、たとえ帝のことばであっても心の声に沿わなければ従うことはない。
 岑栄が場をとりつくろうとし、
「私どもにとって江浙はあまりに遠過ぎます。もっと近くで兵を集められるべきではありませんか」
「田州の狼兵を呼び寄せるというのは新たに浙直総督に就任した張經どのの考えなのだ。張総督は両広地域に長くいたためこの地に詳しく、自らの目で田州の兵の精強さをみて、狼兵こそまさに天下一の強兵であると確信された。それゆえ浙直総督を拝命してすぐに田州から兵を呼び寄せるべきと上申されたのだ」
「そのようにいっていただけることはありがたいことではありますが、ご存知のとおり田州も四年前の海南での賊討伐では大敗しています」と岑栄はいい、さらに花蓮の気持ちを代弁するつもりで、「そのとき田州は大きな犠牲を出し、その傷は未だ癒えておりません。それなのにさらに遠方へ兵を出せというのはあまりにむごいことではありませんか」
といった。
「あの戦いで前の土官が死んだことはむろん知っているし、それは全く残念なことではあった。ただ海南では瓦氏がし夫人が采配を振るわなかったのであろう。夫人が陣頭に立っていれば結果は正反対になっていたのではないか」
 明朝は花蓮を「瓦氏」の名で呼ぶ。それは、前にも述べたが、漢族の同姓婚を忌避する習俗から彼女を生家の姓をとって「岑氏」と呼ぶのは都合が悪く、彼女の名にある花の文字をとって、チワン族のことばで花と同音の瓦の文字に置き換え瓦氏と呼ぶようになったというのが有力な説である。
 花蓮は、海南で負けたのは岑芝の指揮が悪かったからだといわれたように感じ、使者を険しい眼でみた。
 花蓮には朝廷の命に従い海南に兵を送ったばかりに岑芝を失ったという思いがある。それが今次の出兵に諾という気になれない理由のひとつなのに、この使者はそのことを全くわかっていない。
 花蓮の突き刺すような視線に怯みつつも使者は続けて、
「いま狼兵こそまさに天下一の強兵といったが、瓦氏に率いられた狼兵こそ天下一。そういいなおそう」
 花蓮が眼力をさらに強めると使者は恐縮し首を竦め、
「総督はそのように考えておられる」
と、いわされているのだといいたげに小声で付け加えた。
 岑栄がいった。
「総督が花蓮さまに率いられた田州兵を望んでおられるのであれば、それは叶うことはありません。花蓮さまももう若くはない。この歳で遥か江浙の地まで赴き戦場を駈けよというのはあまりに酷でありましょう」
「ちょっと、『この歳』って、それどういう意味よ」
と、花蓮は岑栄に噛みついた。岑栄は手振りで「ここは抑えて」と無言でいった。
 使者は花蓮の顔をまじまじとみた。使者は彼女の年齢を知らない。視線の先には、十代といえばいい過ぎだが、実年齢よりふたまわり若くみえる肌艶の顔がある。 
 岑栄は使者に向かい、
「それに、大寿はまだ六歳です。執政である花蓮さまは国を空けることはできません。あと十年ほど待っていただけるのであれば大寿も大人になりますので話は別ですが、それでは間に合わないでしょう」
 使者は強い口調になり、
「倭寇の被害は猖獗を極め、収まるどころかいまなお広がりつつある。兵部尚書であられた張經どのが浙直総督に任じられることになったのも倭寇対策が目下の国家の最重要課題であるからだ。天下の一大事なのだ。田州一州のような些細な問題ではないのだ」
 このことばは聞き捨てならず、花蓮は椅子を倒して荒々しく立ち上がり、
「なんですって」
と大きな声をだした。
 岑栄が花蓮に喋らせまいとするかのように、慌てていった。
「それは張総督のお考えではありませんよね。張総督はわれわれが田州を必死に守ってきたことをご存知です。われわれにとっては田州こそが天下であることをよく知っておられるはずです。張総督が田州の問題を些細とおっしゃるはずがない」
 さらに使者と岑栄とのあいだで押し問答が続いたが、最後には花蓮が岑栄の静止を振り切って、
「いくかいかないかはわたしが決める。誰の指図も受けない。そして、私の答えは否。私も、私の兵も、海へいくことはないわ」
とぴしゃりといって、席を立った。
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