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なんてことない日常
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その日は、なんてことのない日常だった。
スマホのアラームが軽快な音楽を鳴らしている。画面に表示された時刻は午前七時。
勇人はスマホとは反対側を向いていたが、寝返りを打って体の向きを変えた。眠そうに手を伸ばしてスマホを手に取り、画面を確認してアラームを止めると、再び眠りに落ちそうになる。
すると、階段を駆け上がる足音が響き、部屋の扉の向こうから声がした。
「勇人、勇人。早く起きなさい。遅刻するわよ」
勇人は布団の中で腕を伸ばし、目をこすりながら上体を起こした。右手で枕元を探り、手に触れたスマホをつかんで画面を表示させた。時刻は七時五分。いつもより少しだけ早い。
パジャマ姿のまま、ぼさぼさの髪をかきながら階段を下りていった。
「おはよ」
キッチンで朝食の準備をしている母親に声をかけた。
「おはよう、勇人。今日はちゃんと起きられたのね。テーブルの上に朝ごはんあるから、冷めないうちに食べちゃいなさい」
勇人はキッチンを抜けてリビングへ向かう。
テーブルの上には、味噌汁、焼き鮭、スクランブルエッグ、海苔、そして湯気の立つ湯飲み。いかにも“朝ごはん”らしい風景が広がっている。
その向かいでは、すでに食事を終えた父親が新聞を広げながら、スーツ姿でコーヒーをすすっていた。
「おはよう」
「おう、おはよう。今日は早いんだな」
そう言いながら、父親は新聞から顔を上げることなく応じる。
勇人は父の向かいに腰を下ろし、箸を手に取る。
味噌汁の椀に箸を入れ、軽くかき混ぜて一口すすった。温かい汁が、空腹と寝起きの体にじんわりと染みわたる。
焼き鮭に手を伸ばし、しっかり焼かれた皮をぱりぱりと音を立ててはがす。骨を避けながら身をほぐし、口に運ぶ。ほのかな塩味が口に広がり、ご飯に自然と手が伸びた。
スクランブルエッグも、少しずつ口に運ぶ。味付けのされていない、卵本来のやさしい味が広がる。
その間に、父親は残りのコーヒーを飲み干し、新聞をたたんで立ち上がる。玄関へ向かい、姿見の前に立ち止まった。
ネクタイの曲がりを直し、スーツの襟や髪形を確認する。鏡越しの自分に小さくうなずくと、革靴に足を通す。
「行ってくる」
父親がそう言うと、母親は食器を片付ける手を止めて玄関へ向かう。
「行ってらっしゃい。忘れ物はない?」
父親は短く返事をし、玄関の扉を開けて出ていく。
母親は片足だけスリッパを履いたまま、扉から少し身を乗り出し、父の背中に向かって声をかけた。
「しっかりね」
そう言って見送ると、扉を静かに閉める。
その頃、勇人は食事を終え、食器を流しに運ぶ。水を張ったシンクにそっと浸けると、洗面所へ向かった。
歯を磨き、口をすすぎ、顔を洗う。冷たい水が肌に触れ、ぼんやりとしていた頭がすっきりとしていくのを感じる。
タオルで顔を拭き、鏡をちらりと見やってから二階の自室へ戻った。
パジャマを脱ぎ、シャツを着て、ボタンを一つひとつ留める。ズボンに足を通し、ベルトを締め、ネクタイを軽く結ぶ。
ベッドの横に置かれたリュックを手に取り、肩にかけて階段を降りる。
階段の下では、母親が水筒とお弁当を手に持って待っていた。
「はい」
と差し出され、それを受け取ってリュックの中にしまう。
「忘れ物はない?」
「ないはず」
勇人はそう答えると、玄関へ向かい、靴を履く。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
扉を開けて外に出ると、朝の空気はすでにじめっとしていて、じわりと暑さを感じた。
母親に見送られながら、勇人はいつも通り、高校へと向かって歩き出す。
蝉の鳴き声が、遠くから近くから、耳をつんざくように響いてくる。まるでオーケストラのようだが、うるさくてたまらない。夏の暑さを、さらに熱くしている気がする。
通学路を歩いていると、突然背中に軽い衝撃を受けた。
「よう。珍しく早いじゃん、勇人」
振り返ると、そこには小学校からの友人、翔平がいた。
制服のシャツの袖はラフにまくり上げられ、第一ボタンは外されたまま。ネクタイもゆるく、制服を少し着崩している。
いたずらっぽく笑った翔平の口元からは、片方の八重歯が覗いていた。
「いつも遅刻ギリギリのお前が、なんで今日はこんなに早いの?」
「別に。今日はたまたま早く起きられただけだよ」
勇人がそう答えると、翔平は笑いながら歩調を合わせて並んだ。
「今日、古文の小テストあるの知ってる?」
「え、マジ?」
勇人が目を丸くする。
「マジマジのマジ。先生、何度も言ってたろ」
「全然覚えてない……」
「だと思った」
翔平は肩をすくめて苦笑いする。
「教室着いたら範囲教えてやるよ。古文はお昼の後だし、それまでにどうにかなるっしょ」
「マジ助かる。お前がいなかったら詰んでたわ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はゆっくりと、しかし確実に、今日もまたいつもの高校へと歩いていく。
時間は放課後へと移る。
教室には、掃除の音や友人たちの笑い声がまだわずかに残っていた。
勇人は自分の席で、机に突っ伏していた。体を起こすのも面倒なほど、ぐったりしている。
「古文、どうだったよ?」
前から聞こえた声に顔を上げると、翔平がこちらを覗き込んでいた。
「なんとか全部埋めたよ。あってるかは知らんけど」
「お、やるじゃん」
「お前のおかげだわ。ほんと感謝」
翔平は笑いながら、勇人の前の席の椅子に腰かける。背もたれにだらりともたれながら、足を軽く揺らしていた。
「で、このあとなんか用事ある?」
「いや、特にないけど」
勇人がそう答えると、翔平の顔にぱっと笑顔が広がる。八重歯がちらりと見える。
「じゃあさ、駅前にできたクレープ屋、行こうぜ。一緒に」
「は? 女子かよ」
「違ぇよ。話題になってんじゃん、SNSとかで。流行りに乗ってるだけ」
翔平は悪びれずにそう言って、椅子をくるりと回した。
「甘いもんもたまには悪くないぜ?」
勇人は苦笑しながら、立ち上がる準備を始める。
「まあ、たまにはいいか」
勇人がそう言って椅子から立ち上がると、翔平の口元がニヤリと歪む。
「よし決まり。……で、当然お前のおごりな」
「は?」
「だって俺、今日お前に古文の範囲教えてやったろ? 命の恩人よ?」
「それくらいで恩人名乗るな」
「いやいや、あれがなかったらお前、“白紙提出”だった可能性あるからな。ワンチャン留年まであった」
「ねぇよ」
翔平は肩をすくめ、立ち上がって勇人の肩を軽く叩いた。
「というわけで、財布の中身、よろしく頼むわ。俺はバナナチョコ生クリーム」
「もう決めてんのかよ……」
勇人は呆れながらも、どこか楽しげな翔平のテンションにつられて、小さく笑ってしまう。
気がつけば、肩の力が少し抜けていた。
駅までの道のりを、二人は他愛もない会話をしながら歩いた。
街はまだ明るく、制服姿の学生や買い物帰りの主婦たちで賑わっている。
駅前の広場に出ると、すぐに目当てのクレープ屋が見えた。
新しくできたばかりの小さなキッチンカータイプの店舗で、カラフルなのぼりと甘い香りが風に乗って漂ってくる。
「お、あれあれ。見ろよ、めっちゃ並んでんじゃん」
翔平が指をさす先には、女子高生のグループやカップルに混じって、制服姿の男子もちらほら並んでいた。
「……なあ、ちょっと場違い感すごくないか?」
「何言ってんだよ。時代はジェンダーレスだぜ」
「使い方間違ってんだろ、それ」
翔平はどこ吹く風と列の最後尾に並び、メニュー表をじっと見つめる。
パステルカラーで描かれた可愛らしいイラストの中から、目を皿のようにして選んでいる。
「俺、さっき言ったとおり、バナナチョコ生クリーム。あとタピオカミルクティーもつけちゃおうかな」
「おい、飲み物まで頼む気かよ。財布の中身で足りるか微妙なんだけど」
「大丈夫大丈夫、君ならやれる」
勇人はため息をつきつつ、メニューに目を移す。
「……じゃあ、俺はいちごカスタードで」
「乙女か」
「うるせぇ」
並んでいる間も、翔平は周囲の女子グループに聞こえるか聞こえないかという声量でボケたりして、勇人を苦笑いさせる。
順番が来てクレープを受け取ると、駅前の喧騒を少し離れたベンチに座り、二人は甘いクレープを頬張っていた。
「……意外と、うまいな」
勇人がクレープをひと口かじりながらつぶやくと、翔平は満足げにうなずく。
「だろ? たまには甘いもんもアリだよな」
ひとしきり味わってから、勇人がふと思い立ったように口を開く。
「てかさ、お前何回か来てる感じだろ? どのクレープが一番うまいんだよ、実際」
翔平は口にクレープを入れたまま、わずかに目を細めた。
「お、ついに味の沼に足突っ込んだか? クレープ道に興味を持ち始めたな?」
「違ぇよ。普通に気になっただけだ」
翔平は残り少なくなったクレープをかじりながら、少し考える素振りを見せる。
「個人的にはチョコ系が鉄板だけど、期間限定の“塩キャラメルナッツ”とか、マジでやばいぞ。あれは犯罪級」
「それ言いすぎなやつだろ」
「いや、マジ。あれは甘さとしょっぱさの黄金バランス。あと“抹茶白玉あずき”も捨てがたい」
「急に和テイスト入れてくんな」
「だから悩むんだよ! それがクレープの深みなんだよ!」
翔平はどこか誇らしげに言うと、最後のひと口を頬張った。
「……お前、クレープに人生かけてる?」
「人生じゃねぇけど、胃袋はかけてる」
勇人は噴き出しそうになりながらも、自分のクレープに目を落とす。
「……塩キャラメルナッツ、今度食ってみるわ」
「それ正解。俺が保証する」
ふたりはそんな他愛もない会話を交わしながら、夕暮れのベンチでしばらくのんびりと過ごし、翔平と駅で別れた勇人は、ゆっくりと帰路に就いた。
日はすっかり傾き、空は紫とオレンジが混ざり合うグラデーションを描いていた。
家の扉を開けると、ただいま、と声をかける。
「おかえり、勇人。晩ごはんすぐだから、着替えたら降りてきて」
母親の声がリビングから返ってくる。
勇人はいつものように自室へ向かい、制服を脱いで部屋着に着替えると、階段を下りた。
テレビではバラエティ番組が流れており、父親がソファに座って笑っている。
勇人もその隣に腰を下ろし、なんとなく画面を眺める。
やがて夕飯が食卓に並び、三人で食事を囲む。
今日のメニューは唐揚げと冷や奴、味噌汁。
特別なものではないが、どれも慣れ親しんだ味だ。
「今日は暑かったねぇ」
「クーラー効きすぎて会社寒かったよ」
両親の会話が行き交う中、勇人は黙々と箸を進めた。
夕食を終えると、しばらくスマホをいじりながらゴロゴロし、風呂に入る。
湯船に浸かる時間は短く、さっと体を洗って風呂を出ると、部屋に戻ってベッドに横になる。
天井を見つめながら、ぼんやりと思う。
(なんてことのない、一日だったな)
スマホのアラームを確認し、充電ケーブルに差し込む。
明日の準備はすでにできていた。
まもなく瞼が重くなり、勇人は静かに眠りについた。
スマホのアラームが軽快な音楽を鳴らしている。画面に表示された時刻は午前七時。
勇人はスマホとは反対側を向いていたが、寝返りを打って体の向きを変えた。眠そうに手を伸ばしてスマホを手に取り、画面を確認してアラームを止めると、再び眠りに落ちそうになる。
すると、階段を駆け上がる足音が響き、部屋の扉の向こうから声がした。
「勇人、勇人。早く起きなさい。遅刻するわよ」
勇人は布団の中で腕を伸ばし、目をこすりながら上体を起こした。右手で枕元を探り、手に触れたスマホをつかんで画面を表示させた。時刻は七時五分。いつもより少しだけ早い。
パジャマ姿のまま、ぼさぼさの髪をかきながら階段を下りていった。
「おはよ」
キッチンで朝食の準備をしている母親に声をかけた。
「おはよう、勇人。今日はちゃんと起きられたのね。テーブルの上に朝ごはんあるから、冷めないうちに食べちゃいなさい」
勇人はキッチンを抜けてリビングへ向かう。
テーブルの上には、味噌汁、焼き鮭、スクランブルエッグ、海苔、そして湯気の立つ湯飲み。いかにも“朝ごはん”らしい風景が広がっている。
その向かいでは、すでに食事を終えた父親が新聞を広げながら、スーツ姿でコーヒーをすすっていた。
「おはよう」
「おう、おはよう。今日は早いんだな」
そう言いながら、父親は新聞から顔を上げることなく応じる。
勇人は父の向かいに腰を下ろし、箸を手に取る。
味噌汁の椀に箸を入れ、軽くかき混ぜて一口すすった。温かい汁が、空腹と寝起きの体にじんわりと染みわたる。
焼き鮭に手を伸ばし、しっかり焼かれた皮をぱりぱりと音を立ててはがす。骨を避けながら身をほぐし、口に運ぶ。ほのかな塩味が口に広がり、ご飯に自然と手が伸びた。
スクランブルエッグも、少しずつ口に運ぶ。味付けのされていない、卵本来のやさしい味が広がる。
その間に、父親は残りのコーヒーを飲み干し、新聞をたたんで立ち上がる。玄関へ向かい、姿見の前に立ち止まった。
ネクタイの曲がりを直し、スーツの襟や髪形を確認する。鏡越しの自分に小さくうなずくと、革靴に足を通す。
「行ってくる」
父親がそう言うと、母親は食器を片付ける手を止めて玄関へ向かう。
「行ってらっしゃい。忘れ物はない?」
父親は短く返事をし、玄関の扉を開けて出ていく。
母親は片足だけスリッパを履いたまま、扉から少し身を乗り出し、父の背中に向かって声をかけた。
「しっかりね」
そう言って見送ると、扉を静かに閉める。
その頃、勇人は食事を終え、食器を流しに運ぶ。水を張ったシンクにそっと浸けると、洗面所へ向かった。
歯を磨き、口をすすぎ、顔を洗う。冷たい水が肌に触れ、ぼんやりとしていた頭がすっきりとしていくのを感じる。
タオルで顔を拭き、鏡をちらりと見やってから二階の自室へ戻った。
パジャマを脱ぎ、シャツを着て、ボタンを一つひとつ留める。ズボンに足を通し、ベルトを締め、ネクタイを軽く結ぶ。
ベッドの横に置かれたリュックを手に取り、肩にかけて階段を降りる。
階段の下では、母親が水筒とお弁当を手に持って待っていた。
「はい」
と差し出され、それを受け取ってリュックの中にしまう。
「忘れ物はない?」
「ないはず」
勇人はそう答えると、玄関へ向かい、靴を履く。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
扉を開けて外に出ると、朝の空気はすでにじめっとしていて、じわりと暑さを感じた。
母親に見送られながら、勇人はいつも通り、高校へと向かって歩き出す。
蝉の鳴き声が、遠くから近くから、耳をつんざくように響いてくる。まるでオーケストラのようだが、うるさくてたまらない。夏の暑さを、さらに熱くしている気がする。
通学路を歩いていると、突然背中に軽い衝撃を受けた。
「よう。珍しく早いじゃん、勇人」
振り返ると、そこには小学校からの友人、翔平がいた。
制服のシャツの袖はラフにまくり上げられ、第一ボタンは外されたまま。ネクタイもゆるく、制服を少し着崩している。
いたずらっぽく笑った翔平の口元からは、片方の八重歯が覗いていた。
「いつも遅刻ギリギリのお前が、なんで今日はこんなに早いの?」
「別に。今日はたまたま早く起きられただけだよ」
勇人がそう答えると、翔平は笑いながら歩調を合わせて並んだ。
「今日、古文の小テストあるの知ってる?」
「え、マジ?」
勇人が目を丸くする。
「マジマジのマジ。先生、何度も言ってたろ」
「全然覚えてない……」
「だと思った」
翔平は肩をすくめて苦笑いする。
「教室着いたら範囲教えてやるよ。古文はお昼の後だし、それまでにどうにかなるっしょ」
「マジ助かる。お前がいなかったら詰んでたわ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はゆっくりと、しかし確実に、今日もまたいつもの高校へと歩いていく。
時間は放課後へと移る。
教室には、掃除の音や友人たちの笑い声がまだわずかに残っていた。
勇人は自分の席で、机に突っ伏していた。体を起こすのも面倒なほど、ぐったりしている。
「古文、どうだったよ?」
前から聞こえた声に顔を上げると、翔平がこちらを覗き込んでいた。
「なんとか全部埋めたよ。あってるかは知らんけど」
「お、やるじゃん」
「お前のおかげだわ。ほんと感謝」
翔平は笑いながら、勇人の前の席の椅子に腰かける。背もたれにだらりともたれながら、足を軽く揺らしていた。
「で、このあとなんか用事ある?」
「いや、特にないけど」
勇人がそう答えると、翔平の顔にぱっと笑顔が広がる。八重歯がちらりと見える。
「じゃあさ、駅前にできたクレープ屋、行こうぜ。一緒に」
「は? 女子かよ」
「違ぇよ。話題になってんじゃん、SNSとかで。流行りに乗ってるだけ」
翔平は悪びれずにそう言って、椅子をくるりと回した。
「甘いもんもたまには悪くないぜ?」
勇人は苦笑しながら、立ち上がる準備を始める。
「まあ、たまにはいいか」
勇人がそう言って椅子から立ち上がると、翔平の口元がニヤリと歪む。
「よし決まり。……で、当然お前のおごりな」
「は?」
「だって俺、今日お前に古文の範囲教えてやったろ? 命の恩人よ?」
「それくらいで恩人名乗るな」
「いやいや、あれがなかったらお前、“白紙提出”だった可能性あるからな。ワンチャン留年まであった」
「ねぇよ」
翔平は肩をすくめ、立ち上がって勇人の肩を軽く叩いた。
「というわけで、財布の中身、よろしく頼むわ。俺はバナナチョコ生クリーム」
「もう決めてんのかよ……」
勇人は呆れながらも、どこか楽しげな翔平のテンションにつられて、小さく笑ってしまう。
気がつけば、肩の力が少し抜けていた。
駅までの道のりを、二人は他愛もない会話をしながら歩いた。
街はまだ明るく、制服姿の学生や買い物帰りの主婦たちで賑わっている。
駅前の広場に出ると、すぐに目当てのクレープ屋が見えた。
新しくできたばかりの小さなキッチンカータイプの店舗で、カラフルなのぼりと甘い香りが風に乗って漂ってくる。
「お、あれあれ。見ろよ、めっちゃ並んでんじゃん」
翔平が指をさす先には、女子高生のグループやカップルに混じって、制服姿の男子もちらほら並んでいた。
「……なあ、ちょっと場違い感すごくないか?」
「何言ってんだよ。時代はジェンダーレスだぜ」
「使い方間違ってんだろ、それ」
翔平はどこ吹く風と列の最後尾に並び、メニュー表をじっと見つめる。
パステルカラーで描かれた可愛らしいイラストの中から、目を皿のようにして選んでいる。
「俺、さっき言ったとおり、バナナチョコ生クリーム。あとタピオカミルクティーもつけちゃおうかな」
「おい、飲み物まで頼む気かよ。財布の中身で足りるか微妙なんだけど」
「大丈夫大丈夫、君ならやれる」
勇人はため息をつきつつ、メニューに目を移す。
「……じゃあ、俺はいちごカスタードで」
「乙女か」
「うるせぇ」
並んでいる間も、翔平は周囲の女子グループに聞こえるか聞こえないかという声量でボケたりして、勇人を苦笑いさせる。
順番が来てクレープを受け取ると、駅前の喧騒を少し離れたベンチに座り、二人は甘いクレープを頬張っていた。
「……意外と、うまいな」
勇人がクレープをひと口かじりながらつぶやくと、翔平は満足げにうなずく。
「だろ? たまには甘いもんもアリだよな」
ひとしきり味わってから、勇人がふと思い立ったように口を開く。
「てかさ、お前何回か来てる感じだろ? どのクレープが一番うまいんだよ、実際」
翔平は口にクレープを入れたまま、わずかに目を細めた。
「お、ついに味の沼に足突っ込んだか? クレープ道に興味を持ち始めたな?」
「違ぇよ。普通に気になっただけだ」
翔平は残り少なくなったクレープをかじりながら、少し考える素振りを見せる。
「個人的にはチョコ系が鉄板だけど、期間限定の“塩キャラメルナッツ”とか、マジでやばいぞ。あれは犯罪級」
「それ言いすぎなやつだろ」
「いや、マジ。あれは甘さとしょっぱさの黄金バランス。あと“抹茶白玉あずき”も捨てがたい」
「急に和テイスト入れてくんな」
「だから悩むんだよ! それがクレープの深みなんだよ!」
翔平はどこか誇らしげに言うと、最後のひと口を頬張った。
「……お前、クレープに人生かけてる?」
「人生じゃねぇけど、胃袋はかけてる」
勇人は噴き出しそうになりながらも、自分のクレープに目を落とす。
「……塩キャラメルナッツ、今度食ってみるわ」
「それ正解。俺が保証する」
ふたりはそんな他愛もない会話を交わしながら、夕暮れのベンチでしばらくのんびりと過ごし、翔平と駅で別れた勇人は、ゆっくりと帰路に就いた。
日はすっかり傾き、空は紫とオレンジが混ざり合うグラデーションを描いていた。
家の扉を開けると、ただいま、と声をかける。
「おかえり、勇人。晩ごはんすぐだから、着替えたら降りてきて」
母親の声がリビングから返ってくる。
勇人はいつものように自室へ向かい、制服を脱いで部屋着に着替えると、階段を下りた。
テレビではバラエティ番組が流れており、父親がソファに座って笑っている。
勇人もその隣に腰を下ろし、なんとなく画面を眺める。
やがて夕飯が食卓に並び、三人で食事を囲む。
今日のメニューは唐揚げと冷や奴、味噌汁。
特別なものではないが、どれも慣れ親しんだ味だ。
「今日は暑かったねぇ」
「クーラー効きすぎて会社寒かったよ」
両親の会話が行き交う中、勇人は黙々と箸を進めた。
夕食を終えると、しばらくスマホをいじりながらゴロゴロし、風呂に入る。
湯船に浸かる時間は短く、さっと体を洗って風呂を出ると、部屋に戻ってベッドに横になる。
天井を見つめながら、ぼんやりと思う。
(なんてことのない、一日だったな)
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