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5冥門編
5冥門編-2
「お姉様。アポクリフの件は、どうにかなるのかよ……ですか?」
ジゼルは、眷属の翼竜から、またアポクリフが広がったという報せが届いたと語った。
末席とはいえ、世界の庭師たる神に連なる身である。ジゼルも世界の終末をもたらすかも知れない黒い霧の動向を、気にしない訳にはいかないのである。
だが、ロゥリィはジゼルほど危機感を抱いてないようであった。
「信じて待つことにしたわぁ。だからジゼルも『門』には手出し無用よぉ」と朗らかに微笑み、料理長が運んできた乳茶の表面に浮かぶ薄い膜をスプーンで掬い上げ口に含んだ。
「信じて待つって言うけどよぉ、この世界が終わっちまうかも知れないんだぜ」
「そんなこと分かってるわよぉ」
「じゃあどうして人間任せにしようなんて思えるんだよ!? 俺達が閉じるんじゃ駄目なのかよ!」
ジゼルは、そのためにこそ自分達亜神は存在するのだと言った。
たとえ人間共が反感を抱いても、「これは神のすることだ。それが何か?」と、切り捨ててしまえばいい。それがジゼルの主張であった。
「前のお姉様だったら今頃そのハルバートで『門』をぶちこわして、はいおしまいだったぜ。オレ一人じゃ無理かも知んないけど、お姉様と一緒なら一暴れするだけで有象無象ごと『門』を吹き飛ばしてやれるじゃんかよ。なんだって人間なんかに任せるんだよ?」
「欲に駆られて世界を破滅に追いやるかぁ、逆に危険だからといって折角の可能性まで手放してしまうかぁ、それとも理性と叡智を掻き集めて自己を管理しながらぁ、可能性を切り開いていく道を選ぶかを、人間達に自分で決めさせたいからよぉ」
「けどよお、決断をさせるって言ったって、結局は選ばれた一人か二人の判断だろう? そんなのが人間『達』の下した決断になるのかよ?」
「ええ。たとえ個人の成した行為でも、わたし達ではなく人間が成したという結果が残るものぉ。それこそが人間達に自覚を促すきっかけになるわぁ」
「もしかしてターレスを気取ってたりしませんか、お姉様?」
ターレスとは、古の神の名である。
火を扱うには人間という種は幼すぎる、きっと自らを傷つける、と言って、古い神々は人間に火を与えようとはしなかった。だがターレスは、人間はいずれ火を扱うにふさわしい叡智を身につけるであろうと予言し、独断で人間達に火をもたらしたのである。
「彼がいなければぁ人間という種はいつまでも肉を生で食べてぇ、寒さに凍えて生きる野獣のままだったでしょうねぇ。彼は人間という種を信じたのよぉ」
「けど、その信頼は今も裏切られ続けているぜ。人間は戦に火を使って、互いを焼き殺しているじゃねぇか。火を使えるのと使いこなしているってことの間には、深い溝があるんだぜ、お姉様」
「そうねぇ。でもぉ、誰しも最初からはぁ泳げないものよぉ。溺れながら泳ぎ方を身につけるのぉ。そうやって人間は種としての成長を続けているのよぉ。一度溺れたからといって水に近づくことも見るのも嫌だと言い出すような怯懦な種族にはぁ、滅びの運命しか残されないのよぉ」
「けどよぉ、人間みたいな楽したがりに、あんまり期待するのもどうかって思うけどなあ。ほっときゃあすぐに手抜きをしたり、いい加減をやったり、私腹を肥やす連中だ。そんな輩に自分を律するなんて事が出来る時が本当に来るのかねぇ?」
「ジゼルぅ。あんた産まれた時から亜神だったぁ?」
「そりゃ違うけど……」
「ハーディがぁ、レレイに『門』を穿つ術を与えた理由……考えたことあるぅ?」
「んなの、あいつへの褒美だろ?」
ハーディは飲み食いして食欲を満たすために、適当な娘を見つけて憑依した。ジゼルはそれぐらいに考えているのだ。
「それだけなわけないでしょう!?」
ロゥリィは、こめかみの辺りを人差し指で叩きながら頭を使えと言った。
「くっ……そういう面倒くさいこと言われても分かんねぇよ。そもそも何をどうやって考えろっていうんだよ?」
「ならヒントをあげるわぁ。本当にやってはいけないことは最初から出来ないように出来ているってことよぉ。例えばぁ、人間は肉の眼で自分の項、後ろ頭を見られないように作られているわぁ。何故かというと、それこそが本当の意味での禁忌だからよぉ」
「なんだそれ!? 馬鹿じゃねぇの? 誰がそんなことしたがるって言うんだ? だいたい自分の後ろ頭なんか、鏡をうまく使えば見えないこともないぜ」
「そうねぇ。けれど肉の眼では決して直接見ることは出来ないわぁ。絶対禁忌とされていることは、したいとも思わないしぃ、やる価値を感じることもないようにされているのよぉ。気まぐれでやろうと思い立ってもぉ、身体の構造上絶対に出来ないわぁ」
「ま、そうだよな」
「そういうことって、実はあちこちにいっぱいあるのよぉ。その深奥部にこそ世界の理があると見て研究している賢者もいるくらいよぉ」
「わけ分かんねぇ話だなぁ。つまり考えついて実際に出来ることは、それをすることが許されてるってことかよ。近親相姦も、親殺し子殺しも、しようと思えば出来るのは、それがやっても良いって許されてるからかよ!」
ジゼルの反応が、彼女の予測したものとほとんど同じだったこともあり、ロゥリィは嬉しそうに唇を弓形に描かせた。
「そうよぉ。お好きなようにどうぞぉってことになっているわぁ」
ジゼルは信じられないとばかりに目を剥いて首を横に振った。
「つまりだ。人間には、自分自身すら滅ぼす自由も与えられているってことなのか?」
「極端な話ぃそうなるわぁ。人間には、本来は全てのことを、自分で選択する権利が与えられているのよぉ」
「けどそれは駄目だろうよ、お姉様。禁じられてなけりゃ何をやっても良いと考えるような奴らばっかりだからこそ、オレ達がいるんじゃねぇのか? 人間ってのは自分が一番偉いって思い込むとすぐに傲慢に振る舞う。だから徹底的に抑え込んで、下手なことを考えるような馬鹿野郎は、ぶっ殺してやらなきゃ駄目なんだよ!」
「つまり危険なのは、『門』ではなくて人間そのものってことよねぇ。危険なのはぁ『門』や剣や炎じゃなくて、人間っていう存在そのものってことになるわぁ」
「あ……」
ジゼルは、ロゥリィが何を示唆しようとしているかに気がついた。
「危険な物は遠ざける。危険な物はとりあげる。危険な物は手放す。その発想の下では、人間は何もかも手放して、最後には自らそのものを滅ぼさなければならなくなるわぁ。それをしないで済むのは、自分こそが危険な存在だと気がついていないからぁ。だからこそぉわたしぃ達がぁ、人間達を抑え込む役割を担ってきたのよぉ。けど、その結果はどう? この世界の人間は数万年の歴史を持っているけど、停滞して息が詰まって滅びそうになってる。その滅びを防ぐためにぃ、主神方はあの手この手でこの世界を滞らせまいと揺り動かしていたわぁ。ハーディがこの世界に新しい種族を呼び込んで来たのもぉ、そのためだそうよぉ。悔しいけど、向こうの世界との差を見たらそれも認めないわけにはぁいかないわぁ。しかもハーディは『門』の後始末をなんとかしてみせろって人間に押しつけて、自分は手を引いて見せた。ねぇ、ジゼルぅ、それはいったいどうしてだと思う? 人間が自ら滅びを回避することが出来るかも知れないって、認めたからじゃないのぉ?」
「無理に決まってるじゃねぇか! この飯屋で働いている奴らだって、自分の生活の為に『門』を閉めることに反対してるんだぜ。『門』があることの方が都合のいい連中ばっかりの中で、世界のことを考えて『門』を閉じようなんて決断を下せる奴なんかいねぇよ!」
「そんなことないわよぉ。ちゃんと世界のことを考えている人間もいるわぁ」
「どこの誰だよ!」
「例えば、レレイやテュカよぉ。そしてヨウジぃねぇ」
ハーディは世界そのものという重荷を彼らに託すことで、人間という存在そのものが、一階梯、上ることが出来ると考えているのだろうとロゥリィは語った。
「気でも狂ったのかお姉様!? 主上様がどうしてンなこと考えるんだよ。どうして人間なんて信じられるんだよ!?」
「あらぁ、このわたしぃが正気だったことがあると思うのぉ? 狂気を司る神の使徒なのにぃ」
言い返したい言葉もあったがそれを呑み込んでジゼルは口を噤んだ。言われてみれば確かにその通りだったからだ。
「愛は狂気の一形態よぉ。誰かを愛している者が正常なわけないでしょう」
「つまりだ、お姉様も奴らが成長するって思ってるわけだ……」
「自分達も世界の存在を担っているんだって自覚さえすればねぇ。自分で自らを管理する自律心。わたしぃは、それこそが世界を豊かにする鍵だと思っているわぁ。その一点で、わたしぃはハーディと同じ意見を持てる。今回のことはそのきっかけになるわぁ」
「なんでまたそんな危ないこと……」
「陞神が近いからかしらぁ。見ているだけで手を出したくても出せなくなるって思えば、少しは成長して欲しいって思うじゃなぁい?」
「ったくよぉ、今まで通りじゃ駄目なのかよ」
その方が楽だと頷くジゼルを見て、ロゥリィは深々とため息をついた。
「ハーディの不幸はぁ、自分でものを考えて、行動する使徒がいないってことよねぇ」
「悪かったなぁ馬鹿で」
「ヤオに言ったそうね、ハーディが白と言えば、黒い物ですら白だって。あれってぇ、自分は思考を放棄してますっていう宣言よねぇ?」
信仰心のありようとして間違っているとロゥリィは酷評した。
概念としてしか存在しない、幸福を約束してくれる『神』を信じるなら、その無謬性を受け容れただひたすらに信じるのが正しいが、この世界の『神』はそのような存在ではない。従って使徒となるならば、その言葉に従うだけではなく、とことん問いかけていくことも必要となるのだ。
「だからぁ、あんたはぁ使い走り以上のことが出来ないのよぉ」
「じゃあお姉様はオレに、どうしろって言うんだよ?」
「まずはぁ、自分で考える習慣をつけなさぁい。そうすればハーディの真意だって見えてくるはずよぉ。その中で、自分の成すべき夢も見えてくるわぁ」
「お姉様は、随分と主上さんのことを理解してるんだな。それでいてどうして、蛇蝎の如く主上さんを嫌うんだよ?」
「わたしぃは、人間の魂を人形みたいに陳列して喜ぶほど悪趣味じゃないからよぉ」
「あの趣味かぁ……」とジゼルはポリポリと頭を掻いた。「けどよぉ、当の本人が幸せならそれでいいんじゃねぇの?」
「魔薬を売り歩いている輩が似たようなこと言ったわよぉ。真実の人生はあまりにも希望がなく、苦しみに充ち満ちている。だからこそ偽りの幸福と知りつつもそれに浸りたくなるんですって。ハーディの陳列棚で味わえる幸せはそれと同じよぉ。あんな嘘の幸福に浸らされたらぁ、魂の力はどんどん衰えちゃう」
「だから主上さんが気にくわないって?」
「力のある魂をハーディが集めまくって陳列棚に並べているせいで、ろくでもない奴らばっかり増えちゃってるのよぉ! だからこそぉ世界は活力を失っていくんじゃない!? いつかハーディの陳列棚から人形にされた魂達を解放してやるんだからっ!」
ハーディが外の世界から様々な種族を呼び入れるのも、自分のコレクションを増やすためではなかろうかとロゥリィは疑っていた。
「そういうエムロイだって、戦いで死んだ人間の魂を掻き集めてるじゃんか」
「ハーディのところに行ったら救われないからでしょ!」
「冥府に行くのが救われないって……そこんところに見解の相違があるよなぁ。つまりは、オレはいつかはお姉様と戦うしかないってことか?」
「いつでも相手してあげるわぁ。けれどぉその前に借金を全額返済してぇ、もう少し気品というものを身につけてからになさい。いい?」
ジゼルは舌打ちすると悔しげに頬を膨らませた。
「お姉様だって、特殊な喋り方してるじゃねぇかでございます」
なかなか直らない言葉遣いには、ジゼル自身も閉口しているようであった。
こればかりは気性というか性分なのだからしょうがないとロゥリィも思うが、畏まる必要のある時くらいは畏まれるようになってもらわなければ、使徒全体の評価に関わるのである。
さて、どう宥め、窘め、ジゼルに発破をかけようかと考えていると、貴賓室の入り口から突然声をかけられた。
振り返ると「これ、どう思う?」と、おしゃれな服装に身を固めたテュカが、私服姿の栗林、富田の二人を引き連れて立っていたのである。
テュカは東京ガールズ・コレクションのモデルのような歩き方で貴賓室に入ってくると、くるっと一回転してからポーズを決め、ロゥリィに論評を求めた。
ロゥリィは自分のおとがいを軽く摘んだ姿で、どれどれと非常に厳しい視線を浴びせながらテュカの周りを一巡りする。
化粧は極力薄く。元々テュカの肌は綺麗なのでほとんど手を加える必要は無いのだが、それでもこれだけはと主張するかのように、桜貝のような繊細なピンクをリップに塗り、テュカの女性らしさを引き立たせていた。
その代わりなのか、髪には充分に手間がかけられている。
蜂蜜が流れているように見える髪は、わずかな光を浴びただけでも黄金色に輝くのだが、その先端が艶めかしく媚びるようなピンク色に染められていた。
「これ、どうしたのぉ?」
まるっきり染めてしまうには勇気が必要なので、髪の端の方だけを染めて、問題があればほんの少し切るだけで元通りに出来るようにした、とテュカは語った。
「お父さんの愛読書に出てくる人物の姿を真似てみたの」
要するにコスプレである。
ロゥリィは「ふ~ん」と呟きながらさらに細部を確認していった。
指先は爪を綺麗に磨き上げ、マニキュアを施している。色は唇に合わせた真珠のように輝く淡いピンク。カジュアルなシャツは、身体にフィットして見事にテュカのスタイルを浮き立たせている。その上に紗のブラウスを纏うことで、ふんわり感がゴージャスな雰囲気を演出していた。
ボトムは普段穿いているローライズはやめて、ぴったりとした革のミニスカートを着用。
その下にはレースのストッキング。テュカのきゅっと引き締まった腰回りとすらりとした脚の線、特にスカートの裾から姿を現すガーターベルトが縦断する絶対領域は、眩いばかりに強調されていて非常にセクシーと言えるだろう。
これが、テュカの勝負服であった。
「うん。いいわねぇ」
ロゥリィはテュカにOKサインを出した。
「頑張ってよぉ」
どこからともなく現れたレレイも、テュカのファッションを無表情に眺め、「これを装備に追加」とテュカの耳朶に真珠に似た白い宝玉のピアスをとりつけ、彼女を鼓舞する。
「貴女が主戦力。戦果を期待する」
「うむ、なかなかだ」と、レレイと共にやって来たヤオも頷いた。「これで反応しないような奴は男ではないな。これであの男も生唾を呑み込むであろう。もしかすると押し倒されてしまうかも知れないぞ」
だが、この言葉を耳にした途端、ロゥリィ、テュカ、レレイの三人は揃って視線を地面に落とした。
「それでも心配なのがぁ、あいつなのよぉ」
「時々、生身の女に興味が無いのかしらって思う時があるのよね」
「非常に心配」
予想もしていなかったそれぞれの反応に、ヤオは慌てて取り繕った。
「いや、でも、いくら何でも大丈夫なのではないか? 此の身が男ならテュカ殿に迫っているぞ」
「あんたがぁ男ならそうでしょうねぇ。でも、あんた、あいつから手を出されたことあるぅ?」
ロゥリィ、テュカ、レレイの三人は何とも形容しがたい微妙に重たい空気に包まれ、ヤオもそう言われてみればと呻いた。
「う……それは確かに。いろいろと迫ってみたことはあるが、手を握られたこともない」
翼竜にタンデムで乗った時の絡み合いが、ヤオにとっては伊丹との最接近である。
あの時の触れ合いはとても心地が良かった。お互いの距離がとても近づいたように感じられ、その後の展開もいろいろと期待していたのである。だが、それ以来、距離はさっぱり縮まらなかった。かえって疎遠になってしまったのかと思うほどだ。
普通の男なら、身体に触れることを許されたと思ったら、顔を合わせる度に下心の籠もった手を伸ばして来るとか、誘いをかけて来るとかするはずなのだ。
「だがそれは、彼が性格的に奥手だからではないのか? 時間をかけて距離を詰めていけばイタミ殿とて……」
ヤオはそう考えて、心の安定を図っていた。
だがレレイは冷たく言い放つ。
「その時間はない」
「どうして?」と物分かりの悪いヤオにロゥリィは告げた。
「『門』の件があるからよぉ。そして今のままだと、ぎりぎりのところで逃げ出しかねないのよぉ彼奴はぁ!」
『門』を閉じる際に、伊丹の身柄は特地側に留め置かれることとなっている。だがそれは日本政府と取り交わした約束であって、伊丹自身の選択ではない。趣味のために仕事をしていると言い放つ男だけに、強いられたら「いやだ、俺は帰る」と言って逃げ出す恐れは充分にあった。
もちろん、だからといって手放すつもりは毛頭ない。だが伊丹が本気で逃げ出したら捕まえることが果たして可能か、ロゥリィ達にも不安が残るのである。
それに出来ることなら自分で、こちらに残るという選択をして欲しい。それが女心というものなのだ。
しかも、伊丹が向こう側を離れがたく思う理由の一つに「同人誌即売会に行けなくなるから」と言うものがある。彼女達にはそれが何より気にいらなかった。
「いい、二人とも。紙に描かれた女の絵なんかにぃ、負けるわけにはいかないのよぉ!」
ロゥリィの差し出した手の甲に、テュカ、レレイも自らの手を重ね、えいえいおうっ! と気勢を上げる。そう、これは女のプライドをかけた勝負なのだ。
これに勝つためであれば、個人としての勝利や独占欲は棚に上げることが出来た。
三人がかりで、伊丹を心身共に虜にするぐらいのことはしなければならないのだ。一時的に誰が優位になるかは、些細な問題でしかない。最終的な勝利は、伊丹を特地に残らせてから、時間をかけてゆっくりと手にすればいいのである。
もちろん、それは裏を返してみれば、三人がかりでないと絵に描かれた女に勝てないという危機感の現れではないかと指摘することも出来るのだが……当然のことながらそれは無粋なことである。
いずれにせよこれは、「自分は伊丹の所有物」という立場に安住してしまっているヤオには感じられない類の危機感であった。とは言えヤオにも状況は理解できたので、自分なりの提案を試みた。三人がかりではなく、自分も含めた四人がかりではどうかという提案である。
「だったら、こんな手ぬるい色仕掛けではなく寝台に忍ぶと言うのはどうだろう?」
レレイの魔法で監視に立っている警務官を眠らせ、あの手この手を使えばいいのではないかとヤオは言う。そして、そういうことなら自分が大いに役に立てるだろうとまで宣った。
だがロゥリィは「ふっ……」と鼻で笑い、認識が甘いと告げる。
「それは無理の上に無用。ついでに言うとかえって嫌がられる」
監視を眠らせたりすれば大騒ぎになるとレレイは言った。
「それにお父さんは、貴女のような遣り方で迫られるのは苦手なのよ。気がつかなかった?」
「えっ……まさか!?」
レレイは、伊丹が購入し、よく読んでいる同人誌、小説、漫画などを分析して分かる伊丹の嗜好を語った。
「彼がこちらに持ち込んだ絵草紙、物語の挿絵等から、調べることの出来た二千四百七十八点を比較検討した結果、彼の嗜好には一つの傾向があることが判明した。彼は色気で迫る女性をあまり好まない。あくまでも気持ちで迫る必要がある。そしてその方法も問題となる。気持ちを素直に伝えるよりも、気持ちとはまったく裏腹な態度で攻撃的な言動をしたり、気持ちを伝えようとするけれど不器用なためにうまく表現できなかったりするのを好む。また好意が過度になり相手の全てを支配しようとするとか、精神的に常軌を逸してしまうような言動も好みの範囲に入るらしい。ひねていて素直とは言えない態度の持ち主が、好意を持っている相手にだけ素直というのも良い。ただしこれは短期決戦には向かない」
「ええっ、そんなっ! 嘘だ! 嘘だと言ってくれ! それでは此の身のしてきたことは……」
「そう。かえって嫌がられていた可能性が高い」
ヤオは残酷な宣告を受けて崩れるように膝をついた。
それは裏返してみれば、自分が他者に追随できない色気の所有者であることを自負し、密かな優越感に浸っていたことを意味している。
そんな傲慢さをロゥリィは静かに冷笑した。
「い、色気を嫌がる男がこの世にいるなんて」
ヤオの絶望ぶりがあまりにも可哀想だったのか、テュカが慰めの言葉をかける。
「色気を持っているのが駄目なんじゃないのよ。それを使って迫るのが駄目って事」
例えば、食堂で働いていたデリラなんかは、ヴォーリアバニー特有の大変な色気の持ち主であった。だが言動の雑さと鉄火肌がそれを薄めていたため、伊丹も気安く接していたのだ。
もし、そんな彼女がしおらしく恥ずかしさに耐えながら迫ったら、非常に効果的だっただろう。
「彼の好意を容姿のみで引き寄せようとするのは無意味。ヤオに可能性があるとするなら、色気を普段は隠しておいて、さりげなく彼のみにぶつけるのが最も効果的と思われる。けど……今更手遅れ」
「そうだったのか、そうだったのか。そうと分かっていれば、くそっ!」
ロゥリィは苦笑のような微笑みを浮かべ、打ち拉がれている自分の信徒を「立ち直るのに、少し時間がかかるわねぇ」と見棄て、テュカを振り返った。
「テュカぁ、貴女の選んだ戦術はぁ?」
するとテュカは、「これよ」と少し大きめのバッグを抱えあげた。
「何それぇ?」
「お父さんの肌着とかタオルとかよ。そしてあたしの作ったお・弁・当♥」
この一言に、ロゥリィはガツンと脳天を殴られたような表情で後ずさり、その手があったかと手を打った。
「レレイから、ヨウジがビョウインの食事はまずいって文句を言ってた、って聞いたから作ってみました。手料理って効果あるって思わない?」
「なるほどぉ、家庭的なところを出すってわけねぇ」
派手な格好をしながら、その実中身はとっても家庭的というギャップ萌えを狙う戦術である。
「それは良い手。生まれ育った環境や前妻の気質から見ても、彼は家庭的な雰囲気には慣れていないと思われる。手料理、着替え……甲斐甲斐しい世話の得点はとても高いはず。テュカの持つきらびやかさとの差がそれを引き立てる」
実際、伊丹が父親代わりにテュカから世話を焼かれていた時、伊丹はまんざらでもなさそうな視線をテュカへと向けていた。そんな健気さに絆されたからこそ、伊丹はテュカのために命がけの炎龍退治に立ち上がったと見ることも出来るのだ。
「料理かぁ……わたしぃはぁ、得意な分野が偏っているのよねぇ」
丸焼き系の料理は作れるが、細かく切ったり、煮炊きするのは苦手だとロゥリィは語った。
それを聞いたレレイは、ロゥリィが大きな毛長牛か猪を、丸焼きにしている光景を想像した。
「それを料理と呼称するのは抵抗を感じる」
「食べられるようにするんだからぁ料理でしょぉ! それを言うレレイはぁどうなのよぉ!」
「出来る。得意」
だが、レレイが得意という言葉を発した途端に、突然現れた誰かが「へっ」と鼻で笑い飛ばした。
「食事など栄養が摂取できれば良いとか言って、全然関心無かった癖によく言うわい。自分の舌に自信がないから処方箋通りにしか作れん。だから魔法の薬の調合みたいな調理法になる。しかもレパートリーが三種しかないから、毎日同じ物が出て来ることになるんじゃ」
突然、ふらりとやってきたカトー老師が皆の前で立ち止まると、レレイの料理を暴露した。
ロゥリィは、レレイが料理という名の魔法の実験をしている風景を思い浮かべた。
天秤に分銅を載せて、塩などの調味料の量を計測。煮立てる時間は砂時計を用いて計り、食材は物差しで測って正確なサイズに切断する。さらにフラスコやビーカーでもってソースを煮詰めて、スープは鉄の大鍋にコウモリの羽だとか、イモリの黒焼きといった得体の知れない物を次々と入れて、太い木の棒で妖しく煮立っている謎の物体をかき回して作るのである。
「それぇ、食べられるものになるんでしょうねぇ」
「無論。師匠で実験済み」
「確かに食えることは食える。だが、四日で飽きて十二日目で苦痛になること請け合いじゃよ。正直、儂はもうコダ村には帰りたくない。またこの娘と生活するかと思うと気が重くてならん。きっとここの種類豊富で、美味い飯に慣れてしまったせいじゃな」
レレイは、ほとんどの仕事を自分達に任せて全くと言って良いほど外に出てこない癖に、こういう時に限って姿を現す師匠に向けて、空気をボール状に圧縮して思いっきり叩きつけた。
だがカトー老師は老人とは思えない軽やかな動作でひらりと躱し、「正確な攻撃じゃ。だがそれ故に予測しやすいのぅ」と言い放った。
「処方箋が足りなければ増やせばよい」
レレイは空気を集めて二個目のボールを作ろうと身構えた。
「料理の方法を学ぶのに時間を割くのはもったいない、栄養が取れれば良いと言っていた娘が、今更よく言うわい。色気づくと女ってのはこうも変わるものなのかのぅ?」
「くっ……変わって何が悪い!? 師匠みたいな大人に言われたくない!」
再度空気のボールを投げつけるレレイ。
「む、儂にも見えるぞ。そこだ!」
カトーは魔法の杖を大きく振りかざすと、それを打ち返した。
スパーンという音とともに、空気のボールはレレイの耳元を掠めて、食堂の戸口から彼方へと飛んでいった。
「ふむ。ほうむらんという奴じゃな」
研究室に隠れていたはずなのに、何をやっていたのかと大いに疑問に思えて来る言動である。
「儂が研究室に籠もっていたじゃと!? 子供の教育やら面倒ごとは全部儂らに押しつけて、仕事やら探索やら男やらにかまけておった奴らに言われとうないわい。こっちは子供の遊び相手までせねばならんかったのじゃ。ま、おかげでニホンという国の『あにめ』やら『げーむ』やら、『すぽーつ』とやらにも触れることが出来たがな」
老師はそう言い残すと、「まだまだ修行が足りんな、ふははははは」と声高らかに笑いながら、料理長から受け取った酒瓶を担いで去って行った。
後には、屈辱でプルプルと身を震わせるレレイが残されていた。
一方、立ち直ったヤオは、関わればまた傷ついてしまう可能性の高い話題から自分を遠ざけようと、栗林と富田に声をかけた。
「珍しく私服とは、クリバヤシ殿とトミタ殿は外出か?」
「そうよ。どうしても伊丹隊長のところに富田を連れて行きたかったんで、テュカの付き添い番を代わって貰ったの」
栗林は、私服の懐に隠したPDW(個人防衛火器)FNP90をちらりと見せると、あたかも連行するかのように引きずっている富田にその銃口を突きつけた。
「トミタ殿を、イタミ殿のところに? それは何かの任務か?」
「ううん。こいつこの間さあ、死亡フラグを立てちゃったのよ。このままにしておくと、石に躓いただけでも死ぬかも知れないから心配でしょうがなくって。だから隊長のところに連れてって、フラグをへし折ってもらおうかと思ってるの」
すると富田は迷惑そうに抗議の声を上げた。
「別に、大丈夫だって言ったろ? だいたい死亡フラグってのが本当にあるんなら、伊丹隊長に会ったぐらいでなんとかなるのかよ!?」
「なるわよ! 隊長より詳しそうなのが側にいたからお伺いをたてたのよ。そしたら、その手の厄種は隊長に押しつけるのが一番なんだって。つまり一種の身代わりね」
「お、押しつける!?」
富田は、栗林の言いようを聞いて額にじわりと脂汗が浮かぶのを感じた。
「そ、それは酷くないか? だいたいどうやったら厄を移せるって言うんだ」
すると、ロゥリィが災厄を避けるために必要とされる儀式について簡単に説明した。
「トミタの前で、ヨウジぃに死亡ふらぐとやらを立てさせればいいのよぉ。そうすれば厄はヨウジぃに移ることになるわぁ」
どうやら、伊丹に死亡フラグを立てさせればよいと嗾けたのは暗黒神の使徒のようである。
「た、隊長に厄を押しつけろって言うのかよ?」
「それが嫌なら、富田が婚姻届を出すって手もあるんだって。死ぬ前に結婚しちゃえば、フラグの前提が成立しないから、フラグは折れたと考えても良いでしょ?」
栗林の確かめるような視線に、ロゥリィは軽く頷いた。
「でも、ボーゼスは今イタリカだよ! すぐに婚姻届なんか用意できねぇよ! だいたい帝国人との国際結婚ってどう手続きするんだ?」
言い返す富田に、栗林がおずおずと答えた。
「しょ、しょうがないから、とりあえずはあたしが妻ってことで届け出をしましょう。言って置くけど、これはあんたの無事のために出すんであって、別にあたしがあんたと結婚したいってわけじゃないんだからね」
栗林は自分の覧に署名捺印を済ませた婚姻届を取り出した。何故か知らないがその顔は真っ赤である。
「そ、それは駄目だろう! 俺はボーゼスと結婚したいってのに、お前との婚姻届を出してどうすんだよ!」
「ちっ、駄目か」
「駄目か、じゃないっ!」
栗林は悪戯の露見した子供のように舌打ちすると、婚姻届を大事そうに畳んで懐のポケットに押し込んだ。その様子を見ると、婚姻届を破棄するつもりはなく、別の機会に使用する心づもりがあるようだ。あきらめが悪いとも言える。
「じゃあ、やっぱり隊長のところに行くしかないわね。隊長に死亡フラグを立てて貰うわよ」
死と結婚という言葉が一つの文脈で語られる意味が理解できなかったテュカ、レレイ、ヤオの三人は、「何の話?」と詳しい解説を栗林に求めた。
「戦闘に突入する前に『この戦争が終わったら結婚するんだ』とか、『今度子供が産まれるんだ』とか、その手の発言をした兵士は、必ず戦死するって言われているのよ。『ここは俺に任せて先に行け』っていうのもダメらしいわ」
ヤオはお守りをぶら下げている胸に手を当てて、「……験担ぎ、ジンクスと称されるものだな。確かにそれは大切だ」と頷いた。
そして「此の身も、日々護符の強化を図っているぞ」と日頃からどんなことを心がけているかを説明した。具体的には、複数の五百円玉を用いた護符を作ったらしい。
レレイは、「もう、三日夜は済んでる。すでに結婚しているのだから、今更結婚するという発言をさせても意味は無い」と唇を尖らせた。だが、彼女の発言は何故か皆からスルーされてしまうのである。
テュカは「お父さんに死亡ふらぐを立てさせてどうするのよ」と、少し青ざめた。そして、ロゥリィの袖を引いて栗林達から少し離れると小声で問いかける。
「ねぇねぇ、大丈夫なの?」
するとロゥリィは、駄々をこねる子供を宥めるように返した。
「エムロイの使徒の立場で言うと、死亡ふらぐなんて関係ないから心配はいらないわぁ。でも物は考えようよぉ。これって絶好の機会なのぉ」
「どういうこと?」
「結婚……再婚なんてぇ考えてもないって態度のヨウジぃに、たとえ嘘でも『この戦争が終わったら、結婚するんだ』って言わせることに成功したらぁ、身近にいるわたしぃ達のことを、そういう意味で意識させることになるって思わない?」
テュカは「そうかな?」と首を傾げた。
「ほんの少しでいいのよぉ。でも、その少しがきっかけとなるのよぉ」
「でも、お父さん。自分が危なくなるって分かっててそんな言葉、口にするかしら」
「大丈夫よぉ。ヨウジぃは部下思いな奴だしぃ、自分は戦場に出ないでベッドで寝ているだけって思ってるからぁ、いろいろぶちぶち言いながらも、きっとこの戦争が終わったらぁ結婚するって口にするわよぉ」
テュカは富田にチラと視線を送りつつ「……そ、そうかもね」と答えた。
「人間って、よっぽどの屑でないかぎりはぁ、たとえ嘘でも誰かに向けて口にした言葉には縛られるのよぉ。そしてヨウジぃは屑じゃないわぁ。だからこれはもの凄く意味のあることなのぉ。嘘から出た実って言葉もあるでしょ?」
テュカは納得したように大きく頷いた。
伊丹に嘘でも良いから今度結婚するんだと言わせることの重要性を理解できたのか、「嘘から出た実」という言葉を何度も呟いている。
傍らで聞いていたレレイの「その論理には破綻がある。そもそも三日夜が成立しているから、結婚する宣言に意味はない。死亡フラグも発生しない」という主張は、またしても皆から無視されてしまった。
レレイは相変わらずの無表情だが、どことなく不満そうな雰囲気を体中から放っていた。
時計をチラと見た栗林が、「そろそろ行かないと」と言い出す。
「と、とにかく無事に隊長のところまではたどり着けますように! はらいたまえっ、きよめたまえっ!」
栗林は、ロゥリィに向けてパンパンと柏手を打つと両手を合わせた。
それを見た富田も、ロゥリィに向けて「ボーゼスと結婚できますように」と呟いて柏手を打つ。死亡フラグ、何それ? と気にしてないそぶりを見せながらも、少しは気にしているらしい。
「そのカシワデって儀式はぁ、何度されても慣れないわねぇ」
気分はいいけれど、とロゥリィは苦笑を見せ、栗林達の祈りを受け止めて掌を二人に向けた。
「戦士達が、道中の危険を察知し、避け、苦難に耐え戦い抜くことが出来ますように」
皆が去ると、レレイだけが食堂の貴賓席に残された。
書き入れ時の終わった食堂内には人気がない。しかも貴賓席は店の奥にあり、外の騒音が入り込まないため大変に静かなのだ。考え事や書類仕事、小説の執筆にはうってつけの環境である。
レレイはテーブルの上いっぱいに書類を広げると、書かれている文字の細部を見比べ、書き込んでは消し、消しては書き込むという作業を繰り返した。
こうして書物や書類に向かっているレレイの姿は、このアルヌスでよく見られるものだ。
研究室に籠もって一人で黙々と書物を読んでいるという印象の強い彼女だが、実のところは机に向かっているより、静かな野外で書物を読むことを好むからだ。
だが「ふぅ……」と小さなため息をついたり、頭を掻きむしったりする姿となると、滅多に見られるものではない。課題の解決にかなり苦心していることが分かる。
何度やっても数字の合わない電卓での計算を諦め、レレイは丸い小石を溝にならべる特地の原始的なそろばんを取り出し小石をつついと指先で弾いた。
「だいぶ、お悩みのようですね」
そんなレレイの前に、湯気をあげる香茶のカップを置く料理長。
かちゃりと甲高い音も小さく抑えて差し出された白磁のカップは曇り一つなく、浅黄色の透き通った液体で満たされていた。
「難しい問題が山積している。その解決をしたい」
「それは、どうやって皆を納得させるか考えてらっしゃるからでしょ? 『門』を閉じるのをやめちまえば楽になりますよ」
「そういうわけにはいかない。このままでは大変なことになる」
「けどその大変なことだって、今日とか明日に起きるんじゃないんでしょ? だったら何も今、皆が嫌がることを無理にする必要はないって思うんですけどねぇ」
「その考え方は間違っている。事態の先送りは問題を大きくするだけ」
「正しいことは、今すぐにしないといけないって意味ですか?」
「違う。皆が嫌がっているのは『門』を閉じることではなく、『門』を閉じる影響で生活が変わること。ならば考えるべきは、生活を変えないで済む方法」
「そんなもの、あるんですかねぇ?」
料理長の訝しげな言葉に、レレイはカップの中身を啜りながら「素案がある」と言ってびっしりと書き込みでいっぱいの書類を彼の前にならべた。
「開拓民を募っていくつかの村を新規に造り、それぞれの村の中心地に自分達の街を造るという計画を考えている。そこに皆の働く場所を創る。その街でなら、このアルヌスと同じ生活を続けていくことも可能」
「まさか!? もしかしてこのアルヌスみたいな街や村を、あちこちに造っちまおうって言うんですか? 俺たちの俺たちによる、俺たちのための街を!? そんな勝手をニホンが許すって思ってるんですかい?」
「許される。このアルヌスには日本という国の『州』という自治体が置かれる予定。日本の制度では、それらの自治体政府は、日本国籍を有する者が選ぶ代表者によって運営される。この土地に住む日本国籍を持つ者とは、私達のこと。つまりこのアルヌスは、ここに住む私達のものという意味」
「ええっ!? ニホンから代官とか総督とか領主が来て支配するのと違うんですかい!?」
「最初は、行政長官が来る。けれどいずれは、今説明した方式へと移行されていく」
「そんなのあり得っこないですぜ。絶対に無理だ。だいたい村や町なんて代物をどうやって造るってんですかい!?」
「もともと組合は、コダ村の再建計画を立てていた。それを大規模に行えばよい。お金はいくらあっても足りないけれど、上手く切り詰めればなんとかなる。住民も種族を問わず募集する。きっとあちこちから多くの種族が集まる。ドワーフ種も、セイレーン種も、エルフもキャットピープルも、ヴォーリアバニーも。様々な種族がこの地に興味を持っている。もちろんヒト種も。あとは実行するだけ。これならば、『門』がなくなっても大丈夫と皆を説得できる。困難な事業だけどやる価値はきっとある」
「……初耳ですぜ。どうしてその話をもっと早くにしなかったんですかい?」
「日本の政府と条件交渉をしていた。確かなことが言えないのに、皆をぬか喜びさせたくない」
「けど、そんなのうまく行くはずがないですぜ。だいたいそれだけ美味い話があるってのなら、腹黒い連中が入り込んで来て、しっちゃかめっちゃかにされちまうでしょう? このアルヌスだって、最初の頃はいろいろあったじゃありませんか!? それを何カ所も一度にだなんて、思ったように行くわきゃない!」
料理長は、首を横に振る動作を繰り返して、あたかも自分に言い聞かせるように「うまくいくわけない」と繰り返した。
それは、いい話があると持ちかけられた儲け話を、理解できないから悪徳商法だと頭から決めつけて断ろうとする、新米商人の姿に似ていた。
一般消費者が悪徳商法の被害に遭わないようにするためならば、その対応は正しい。
だが商人であるなら、舞い込んでくる儲け話を頭から拒絶して耳を貸さないようでは失格と言えよう。
ましてやこれは物の売買にまつわる話でなく、自分達の将来を決める重要な提案なのだ。分からないから最初から耳を貸さないという態度をとれば、自分の未来を自分で決める権利を放棄するのに等しい。それはつまり、他人に良いように操られることを意味しているからだ。
もちろん、料理長のみを責める訳にはいかない。
レレイの語った内容はあまりにもスケールのでかい話で、普通の特地人に理解できるものではないからだ。いみじくもレレイ自らが語ったように、じっくりと丁寧に話をして、相手の理解度に合わせて説明をする努力が必要となる。
「だからこその『門』。『門』が閉じられている間に、しっかりとした土台を固めてしまえばよい。最近になって増えてきた戦災難民対策にも繋がるから、賛同を得やすい」
だがレレイはレレイで、物事を説明するのに言葉が少な過ぎるという悪癖を持っていた。しかも頭の回転の速さが悪い方に働いて、すぐに話題が次のことへと飛んでしまうのだ。
「……ところで、これは何? はじめて飲んだ」
「そ、それはナルコという香草でさあ。極北の草原でしか手に入らない珍しいものらしいです。この間、行商人が持って来ましてね、試してみて欲しいっていうんで仕入れてみました。どうです?」
「ナルコ? 聞いたことがない」
レレイは頷くと、さらに一口含んだ。
「よい味と香り」
レレイにしては珍しく、うっとりとした表情を作る。
「気に入ってもらえたみたいでよかった。レレイさんですら知らないものがあったんですなぁ。もしご存じだったらどうしようかと冷や冷やしましたよ。実はナルコっていうのは、眠りを誘う薬草なんですよ」
途端にカップが床に転がって、レレイがテーブルの上に倒れ込む。
床や書類が、こぼれたナルコ茶に浸されて薄緑に染まっていった。
「効き目もばっちりだ」
木の床を蹴る靴音が近づき、三つの影が小さな寝息を立てるレレイを覆った。
「この娘がそうなのか? 噂で聞いただけではどんな女丈夫かと思っていたのだが、見れば年若い小娘だ。拍子抜けしたぞ」
「しかしながらメトメス殿、この娘もまた炎龍討伐の英雄の一人なのです」
パナシュは侍従に扮したディアボに向けてそう説明すると、手早くレレイの足首、両腕を縛り上げて猿ぐつわを噛ませた。
ただ力任せに縛るのではなく、血の巡りが止まらないように慎重に力の入れ具合を調整している。しかも衣服の裾が乱れないようにという配慮をするのも、パナシュが女性だからであろう。
「確かに。この土地に自分達の国を作ってしまおうとは、とんでもなく壮大な気宇の持ち主ですねえ……いや、気宇の持ち主だ」
ディアボを演じている侍従メトメスの感心したような物言いを、ディアボ本人は鼻で笑い飛ばそうとして失敗した。彼もまた、レレイの語った言葉を妄想と笑い飛ばせない何かを感じていたからである。
『門』を失うからには日本との商売も終わる。商いの規模を小さくするしかないと、皆が悲観的になって項垂れていく中で、いっそのことこの新天地に街や村を興して、自分達の住みやすい環境を作ってしまえという大胆な構想力に圧倒されたのだ。
「こういう出会い方でなかったら、この娘に『政』について意見を語らせてみたかった」
「この歳で導師号を得た賢者です。きっと、帝国の柱石となってくれたでありましょう。今からでも遅くないと思いますが?」
今が後戻りする最後のチャンスであることを、パナシュは軽く仄めかす。だがディアボは誘惑を振り払うように言った。
「いや。我々に残された道は、最早これしかない」
「箱の方も用意は出来てますぜ」
ジゼルは、眷属の翼竜から、またアポクリフが広がったという報せが届いたと語った。
末席とはいえ、世界の庭師たる神に連なる身である。ジゼルも世界の終末をもたらすかも知れない黒い霧の動向を、気にしない訳にはいかないのである。
だが、ロゥリィはジゼルほど危機感を抱いてないようであった。
「信じて待つことにしたわぁ。だからジゼルも『門』には手出し無用よぉ」と朗らかに微笑み、料理長が運んできた乳茶の表面に浮かぶ薄い膜をスプーンで掬い上げ口に含んだ。
「信じて待つって言うけどよぉ、この世界が終わっちまうかも知れないんだぜ」
「そんなこと分かってるわよぉ」
「じゃあどうして人間任せにしようなんて思えるんだよ!? 俺達が閉じるんじゃ駄目なのかよ!」
ジゼルは、そのためにこそ自分達亜神は存在するのだと言った。
たとえ人間共が反感を抱いても、「これは神のすることだ。それが何か?」と、切り捨ててしまえばいい。それがジゼルの主張であった。
「前のお姉様だったら今頃そのハルバートで『門』をぶちこわして、はいおしまいだったぜ。オレ一人じゃ無理かも知んないけど、お姉様と一緒なら一暴れするだけで有象無象ごと『門』を吹き飛ばしてやれるじゃんかよ。なんだって人間なんかに任せるんだよ?」
「欲に駆られて世界を破滅に追いやるかぁ、逆に危険だからといって折角の可能性まで手放してしまうかぁ、それとも理性と叡智を掻き集めて自己を管理しながらぁ、可能性を切り開いていく道を選ぶかを、人間達に自分で決めさせたいからよぉ」
「けどよお、決断をさせるって言ったって、結局は選ばれた一人か二人の判断だろう? そんなのが人間『達』の下した決断になるのかよ?」
「ええ。たとえ個人の成した行為でも、わたし達ではなく人間が成したという結果が残るものぉ。それこそが人間達に自覚を促すきっかけになるわぁ」
「もしかしてターレスを気取ってたりしませんか、お姉様?」
ターレスとは、古の神の名である。
火を扱うには人間という種は幼すぎる、きっと自らを傷つける、と言って、古い神々は人間に火を与えようとはしなかった。だがターレスは、人間はいずれ火を扱うにふさわしい叡智を身につけるであろうと予言し、独断で人間達に火をもたらしたのである。
「彼がいなければぁ人間という種はいつまでも肉を生で食べてぇ、寒さに凍えて生きる野獣のままだったでしょうねぇ。彼は人間という種を信じたのよぉ」
「けど、その信頼は今も裏切られ続けているぜ。人間は戦に火を使って、互いを焼き殺しているじゃねぇか。火を使えるのと使いこなしているってことの間には、深い溝があるんだぜ、お姉様」
「そうねぇ。でもぉ、誰しも最初からはぁ泳げないものよぉ。溺れながら泳ぎ方を身につけるのぉ。そうやって人間は種としての成長を続けているのよぉ。一度溺れたからといって水に近づくことも見るのも嫌だと言い出すような怯懦な種族にはぁ、滅びの運命しか残されないのよぉ」
「けどよぉ、人間みたいな楽したがりに、あんまり期待するのもどうかって思うけどなあ。ほっときゃあすぐに手抜きをしたり、いい加減をやったり、私腹を肥やす連中だ。そんな輩に自分を律するなんて事が出来る時が本当に来るのかねぇ?」
「ジゼルぅ。あんた産まれた時から亜神だったぁ?」
「そりゃ違うけど……」
「ハーディがぁ、レレイに『門』を穿つ術を与えた理由……考えたことあるぅ?」
「んなの、あいつへの褒美だろ?」
ハーディは飲み食いして食欲を満たすために、適当な娘を見つけて憑依した。ジゼルはそれぐらいに考えているのだ。
「それだけなわけないでしょう!?」
ロゥリィは、こめかみの辺りを人差し指で叩きながら頭を使えと言った。
「くっ……そういう面倒くさいこと言われても分かんねぇよ。そもそも何をどうやって考えろっていうんだよ?」
「ならヒントをあげるわぁ。本当にやってはいけないことは最初から出来ないように出来ているってことよぉ。例えばぁ、人間は肉の眼で自分の項、後ろ頭を見られないように作られているわぁ。何故かというと、それこそが本当の意味での禁忌だからよぉ」
「なんだそれ!? 馬鹿じゃねぇの? 誰がそんなことしたがるって言うんだ? だいたい自分の後ろ頭なんか、鏡をうまく使えば見えないこともないぜ」
「そうねぇ。けれど肉の眼では決して直接見ることは出来ないわぁ。絶対禁忌とされていることは、したいとも思わないしぃ、やる価値を感じることもないようにされているのよぉ。気まぐれでやろうと思い立ってもぉ、身体の構造上絶対に出来ないわぁ」
「ま、そうだよな」
「そういうことって、実はあちこちにいっぱいあるのよぉ。その深奥部にこそ世界の理があると見て研究している賢者もいるくらいよぉ」
「わけ分かんねぇ話だなぁ。つまり考えついて実際に出来ることは、それをすることが許されてるってことかよ。近親相姦も、親殺し子殺しも、しようと思えば出来るのは、それがやっても良いって許されてるからかよ!」
ジゼルの反応が、彼女の予測したものとほとんど同じだったこともあり、ロゥリィは嬉しそうに唇を弓形に描かせた。
「そうよぉ。お好きなようにどうぞぉってことになっているわぁ」
ジゼルは信じられないとばかりに目を剥いて首を横に振った。
「つまりだ。人間には、自分自身すら滅ぼす自由も与えられているってことなのか?」
「極端な話ぃそうなるわぁ。人間には、本来は全てのことを、自分で選択する権利が与えられているのよぉ」
「けどそれは駄目だろうよ、お姉様。禁じられてなけりゃ何をやっても良いと考えるような奴らばっかりだからこそ、オレ達がいるんじゃねぇのか? 人間ってのは自分が一番偉いって思い込むとすぐに傲慢に振る舞う。だから徹底的に抑え込んで、下手なことを考えるような馬鹿野郎は、ぶっ殺してやらなきゃ駄目なんだよ!」
「つまり危険なのは、『門』ではなくて人間そのものってことよねぇ。危険なのはぁ『門』や剣や炎じゃなくて、人間っていう存在そのものってことになるわぁ」
「あ……」
ジゼルは、ロゥリィが何を示唆しようとしているかに気がついた。
「危険な物は遠ざける。危険な物はとりあげる。危険な物は手放す。その発想の下では、人間は何もかも手放して、最後には自らそのものを滅ぼさなければならなくなるわぁ。それをしないで済むのは、自分こそが危険な存在だと気がついていないからぁ。だからこそぉわたしぃ達がぁ、人間達を抑え込む役割を担ってきたのよぉ。けど、その結果はどう? この世界の人間は数万年の歴史を持っているけど、停滞して息が詰まって滅びそうになってる。その滅びを防ぐためにぃ、主神方はあの手この手でこの世界を滞らせまいと揺り動かしていたわぁ。ハーディがこの世界に新しい種族を呼び込んで来たのもぉ、そのためだそうよぉ。悔しいけど、向こうの世界との差を見たらそれも認めないわけにはぁいかないわぁ。しかもハーディは『門』の後始末をなんとかしてみせろって人間に押しつけて、自分は手を引いて見せた。ねぇ、ジゼルぅ、それはいったいどうしてだと思う? 人間が自ら滅びを回避することが出来るかも知れないって、認めたからじゃないのぉ?」
「無理に決まってるじゃねぇか! この飯屋で働いている奴らだって、自分の生活の為に『門』を閉めることに反対してるんだぜ。『門』があることの方が都合のいい連中ばっかりの中で、世界のことを考えて『門』を閉じようなんて決断を下せる奴なんかいねぇよ!」
「そんなことないわよぉ。ちゃんと世界のことを考えている人間もいるわぁ」
「どこの誰だよ!」
「例えば、レレイやテュカよぉ。そしてヨウジぃねぇ」
ハーディは世界そのものという重荷を彼らに託すことで、人間という存在そのものが、一階梯、上ることが出来ると考えているのだろうとロゥリィは語った。
「気でも狂ったのかお姉様!? 主上様がどうしてンなこと考えるんだよ。どうして人間なんて信じられるんだよ!?」
「あらぁ、このわたしぃが正気だったことがあると思うのぉ? 狂気を司る神の使徒なのにぃ」
言い返したい言葉もあったがそれを呑み込んでジゼルは口を噤んだ。言われてみれば確かにその通りだったからだ。
「愛は狂気の一形態よぉ。誰かを愛している者が正常なわけないでしょう」
「つまりだ、お姉様も奴らが成長するって思ってるわけだ……」
「自分達も世界の存在を担っているんだって自覚さえすればねぇ。自分で自らを管理する自律心。わたしぃは、それこそが世界を豊かにする鍵だと思っているわぁ。その一点で、わたしぃはハーディと同じ意見を持てる。今回のことはそのきっかけになるわぁ」
「なんでまたそんな危ないこと……」
「陞神が近いからかしらぁ。見ているだけで手を出したくても出せなくなるって思えば、少しは成長して欲しいって思うじゃなぁい?」
「ったくよぉ、今まで通りじゃ駄目なのかよ」
その方が楽だと頷くジゼルを見て、ロゥリィは深々とため息をついた。
「ハーディの不幸はぁ、自分でものを考えて、行動する使徒がいないってことよねぇ」
「悪かったなぁ馬鹿で」
「ヤオに言ったそうね、ハーディが白と言えば、黒い物ですら白だって。あれってぇ、自分は思考を放棄してますっていう宣言よねぇ?」
信仰心のありようとして間違っているとロゥリィは酷評した。
概念としてしか存在しない、幸福を約束してくれる『神』を信じるなら、その無謬性を受け容れただひたすらに信じるのが正しいが、この世界の『神』はそのような存在ではない。従って使徒となるならば、その言葉に従うだけではなく、とことん問いかけていくことも必要となるのだ。
「だからぁ、あんたはぁ使い走り以上のことが出来ないのよぉ」
「じゃあお姉様はオレに、どうしろって言うんだよ?」
「まずはぁ、自分で考える習慣をつけなさぁい。そうすればハーディの真意だって見えてくるはずよぉ。その中で、自分の成すべき夢も見えてくるわぁ」
「お姉様は、随分と主上さんのことを理解してるんだな。それでいてどうして、蛇蝎の如く主上さんを嫌うんだよ?」
「わたしぃは、人間の魂を人形みたいに陳列して喜ぶほど悪趣味じゃないからよぉ」
「あの趣味かぁ……」とジゼルはポリポリと頭を掻いた。「けどよぉ、当の本人が幸せならそれでいいんじゃねぇの?」
「魔薬を売り歩いている輩が似たようなこと言ったわよぉ。真実の人生はあまりにも希望がなく、苦しみに充ち満ちている。だからこそ偽りの幸福と知りつつもそれに浸りたくなるんですって。ハーディの陳列棚で味わえる幸せはそれと同じよぉ。あんな嘘の幸福に浸らされたらぁ、魂の力はどんどん衰えちゃう」
「だから主上さんが気にくわないって?」
「力のある魂をハーディが集めまくって陳列棚に並べているせいで、ろくでもない奴らばっかり増えちゃってるのよぉ! だからこそぉ世界は活力を失っていくんじゃない!? いつかハーディの陳列棚から人形にされた魂達を解放してやるんだからっ!」
ハーディが外の世界から様々な種族を呼び入れるのも、自分のコレクションを増やすためではなかろうかとロゥリィは疑っていた。
「そういうエムロイだって、戦いで死んだ人間の魂を掻き集めてるじゃんか」
「ハーディのところに行ったら救われないからでしょ!」
「冥府に行くのが救われないって……そこんところに見解の相違があるよなぁ。つまりは、オレはいつかはお姉様と戦うしかないってことか?」
「いつでも相手してあげるわぁ。けれどぉその前に借金を全額返済してぇ、もう少し気品というものを身につけてからになさい。いい?」
ジゼルは舌打ちすると悔しげに頬を膨らませた。
「お姉様だって、特殊な喋り方してるじゃねぇかでございます」
なかなか直らない言葉遣いには、ジゼル自身も閉口しているようであった。
こればかりは気性というか性分なのだからしょうがないとロゥリィも思うが、畏まる必要のある時くらいは畏まれるようになってもらわなければ、使徒全体の評価に関わるのである。
さて、どう宥め、窘め、ジゼルに発破をかけようかと考えていると、貴賓室の入り口から突然声をかけられた。
振り返ると「これ、どう思う?」と、おしゃれな服装に身を固めたテュカが、私服姿の栗林、富田の二人を引き連れて立っていたのである。
テュカは東京ガールズ・コレクションのモデルのような歩き方で貴賓室に入ってくると、くるっと一回転してからポーズを決め、ロゥリィに論評を求めた。
ロゥリィは自分のおとがいを軽く摘んだ姿で、どれどれと非常に厳しい視線を浴びせながらテュカの周りを一巡りする。
化粧は極力薄く。元々テュカの肌は綺麗なのでほとんど手を加える必要は無いのだが、それでもこれだけはと主張するかのように、桜貝のような繊細なピンクをリップに塗り、テュカの女性らしさを引き立たせていた。
その代わりなのか、髪には充分に手間がかけられている。
蜂蜜が流れているように見える髪は、わずかな光を浴びただけでも黄金色に輝くのだが、その先端が艶めかしく媚びるようなピンク色に染められていた。
「これ、どうしたのぉ?」
まるっきり染めてしまうには勇気が必要なので、髪の端の方だけを染めて、問題があればほんの少し切るだけで元通りに出来るようにした、とテュカは語った。
「お父さんの愛読書に出てくる人物の姿を真似てみたの」
要するにコスプレである。
ロゥリィは「ふ~ん」と呟きながらさらに細部を確認していった。
指先は爪を綺麗に磨き上げ、マニキュアを施している。色は唇に合わせた真珠のように輝く淡いピンク。カジュアルなシャツは、身体にフィットして見事にテュカのスタイルを浮き立たせている。その上に紗のブラウスを纏うことで、ふんわり感がゴージャスな雰囲気を演出していた。
ボトムは普段穿いているローライズはやめて、ぴったりとした革のミニスカートを着用。
その下にはレースのストッキング。テュカのきゅっと引き締まった腰回りとすらりとした脚の線、特にスカートの裾から姿を現すガーターベルトが縦断する絶対領域は、眩いばかりに強調されていて非常にセクシーと言えるだろう。
これが、テュカの勝負服であった。
「うん。いいわねぇ」
ロゥリィはテュカにOKサインを出した。
「頑張ってよぉ」
どこからともなく現れたレレイも、テュカのファッションを無表情に眺め、「これを装備に追加」とテュカの耳朶に真珠に似た白い宝玉のピアスをとりつけ、彼女を鼓舞する。
「貴女が主戦力。戦果を期待する」
「うむ、なかなかだ」と、レレイと共にやって来たヤオも頷いた。「これで反応しないような奴は男ではないな。これであの男も生唾を呑み込むであろう。もしかすると押し倒されてしまうかも知れないぞ」
だが、この言葉を耳にした途端、ロゥリィ、テュカ、レレイの三人は揃って視線を地面に落とした。
「それでも心配なのがぁ、あいつなのよぉ」
「時々、生身の女に興味が無いのかしらって思う時があるのよね」
「非常に心配」
予想もしていなかったそれぞれの反応に、ヤオは慌てて取り繕った。
「いや、でも、いくら何でも大丈夫なのではないか? 此の身が男ならテュカ殿に迫っているぞ」
「あんたがぁ男ならそうでしょうねぇ。でも、あんた、あいつから手を出されたことあるぅ?」
ロゥリィ、テュカ、レレイの三人は何とも形容しがたい微妙に重たい空気に包まれ、ヤオもそう言われてみればと呻いた。
「う……それは確かに。いろいろと迫ってみたことはあるが、手を握られたこともない」
翼竜にタンデムで乗った時の絡み合いが、ヤオにとっては伊丹との最接近である。
あの時の触れ合いはとても心地が良かった。お互いの距離がとても近づいたように感じられ、その後の展開もいろいろと期待していたのである。だが、それ以来、距離はさっぱり縮まらなかった。かえって疎遠になってしまったのかと思うほどだ。
普通の男なら、身体に触れることを許されたと思ったら、顔を合わせる度に下心の籠もった手を伸ばして来るとか、誘いをかけて来るとかするはずなのだ。
「だがそれは、彼が性格的に奥手だからではないのか? 時間をかけて距離を詰めていけばイタミ殿とて……」
ヤオはそう考えて、心の安定を図っていた。
だがレレイは冷たく言い放つ。
「その時間はない」
「どうして?」と物分かりの悪いヤオにロゥリィは告げた。
「『門』の件があるからよぉ。そして今のままだと、ぎりぎりのところで逃げ出しかねないのよぉ彼奴はぁ!」
『門』を閉じる際に、伊丹の身柄は特地側に留め置かれることとなっている。だがそれは日本政府と取り交わした約束であって、伊丹自身の選択ではない。趣味のために仕事をしていると言い放つ男だけに、強いられたら「いやだ、俺は帰る」と言って逃げ出す恐れは充分にあった。
もちろん、だからといって手放すつもりは毛頭ない。だが伊丹が本気で逃げ出したら捕まえることが果たして可能か、ロゥリィ達にも不安が残るのである。
それに出来ることなら自分で、こちらに残るという選択をして欲しい。それが女心というものなのだ。
しかも、伊丹が向こう側を離れがたく思う理由の一つに「同人誌即売会に行けなくなるから」と言うものがある。彼女達にはそれが何より気にいらなかった。
「いい、二人とも。紙に描かれた女の絵なんかにぃ、負けるわけにはいかないのよぉ!」
ロゥリィの差し出した手の甲に、テュカ、レレイも自らの手を重ね、えいえいおうっ! と気勢を上げる。そう、これは女のプライドをかけた勝負なのだ。
これに勝つためであれば、個人としての勝利や独占欲は棚に上げることが出来た。
三人がかりで、伊丹を心身共に虜にするぐらいのことはしなければならないのだ。一時的に誰が優位になるかは、些細な問題でしかない。最終的な勝利は、伊丹を特地に残らせてから、時間をかけてゆっくりと手にすればいいのである。
もちろん、それは裏を返してみれば、三人がかりでないと絵に描かれた女に勝てないという危機感の現れではないかと指摘することも出来るのだが……当然のことながらそれは無粋なことである。
いずれにせよこれは、「自分は伊丹の所有物」という立場に安住してしまっているヤオには感じられない類の危機感であった。とは言えヤオにも状況は理解できたので、自分なりの提案を試みた。三人がかりではなく、自分も含めた四人がかりではどうかという提案である。
「だったら、こんな手ぬるい色仕掛けではなく寝台に忍ぶと言うのはどうだろう?」
レレイの魔法で監視に立っている警務官を眠らせ、あの手この手を使えばいいのではないかとヤオは言う。そして、そういうことなら自分が大いに役に立てるだろうとまで宣った。
だがロゥリィは「ふっ……」と鼻で笑い、認識が甘いと告げる。
「それは無理の上に無用。ついでに言うとかえって嫌がられる」
監視を眠らせたりすれば大騒ぎになるとレレイは言った。
「それにお父さんは、貴女のような遣り方で迫られるのは苦手なのよ。気がつかなかった?」
「えっ……まさか!?」
レレイは、伊丹が購入し、よく読んでいる同人誌、小説、漫画などを分析して分かる伊丹の嗜好を語った。
「彼がこちらに持ち込んだ絵草紙、物語の挿絵等から、調べることの出来た二千四百七十八点を比較検討した結果、彼の嗜好には一つの傾向があることが判明した。彼は色気で迫る女性をあまり好まない。あくまでも気持ちで迫る必要がある。そしてその方法も問題となる。気持ちを素直に伝えるよりも、気持ちとはまったく裏腹な態度で攻撃的な言動をしたり、気持ちを伝えようとするけれど不器用なためにうまく表現できなかったりするのを好む。また好意が過度になり相手の全てを支配しようとするとか、精神的に常軌を逸してしまうような言動も好みの範囲に入るらしい。ひねていて素直とは言えない態度の持ち主が、好意を持っている相手にだけ素直というのも良い。ただしこれは短期決戦には向かない」
「ええっ、そんなっ! 嘘だ! 嘘だと言ってくれ! それでは此の身のしてきたことは……」
「そう。かえって嫌がられていた可能性が高い」
ヤオは残酷な宣告を受けて崩れるように膝をついた。
それは裏返してみれば、自分が他者に追随できない色気の所有者であることを自負し、密かな優越感に浸っていたことを意味している。
そんな傲慢さをロゥリィは静かに冷笑した。
「い、色気を嫌がる男がこの世にいるなんて」
ヤオの絶望ぶりがあまりにも可哀想だったのか、テュカが慰めの言葉をかける。
「色気を持っているのが駄目なんじゃないのよ。それを使って迫るのが駄目って事」
例えば、食堂で働いていたデリラなんかは、ヴォーリアバニー特有の大変な色気の持ち主であった。だが言動の雑さと鉄火肌がそれを薄めていたため、伊丹も気安く接していたのだ。
もし、そんな彼女がしおらしく恥ずかしさに耐えながら迫ったら、非常に効果的だっただろう。
「彼の好意を容姿のみで引き寄せようとするのは無意味。ヤオに可能性があるとするなら、色気を普段は隠しておいて、さりげなく彼のみにぶつけるのが最も効果的と思われる。けど……今更手遅れ」
「そうだったのか、そうだったのか。そうと分かっていれば、くそっ!」
ロゥリィは苦笑のような微笑みを浮かべ、打ち拉がれている自分の信徒を「立ち直るのに、少し時間がかかるわねぇ」と見棄て、テュカを振り返った。
「テュカぁ、貴女の選んだ戦術はぁ?」
するとテュカは、「これよ」と少し大きめのバッグを抱えあげた。
「何それぇ?」
「お父さんの肌着とかタオルとかよ。そしてあたしの作ったお・弁・当♥」
この一言に、ロゥリィはガツンと脳天を殴られたような表情で後ずさり、その手があったかと手を打った。
「レレイから、ヨウジがビョウインの食事はまずいって文句を言ってた、って聞いたから作ってみました。手料理って効果あるって思わない?」
「なるほどぉ、家庭的なところを出すってわけねぇ」
派手な格好をしながら、その実中身はとっても家庭的というギャップ萌えを狙う戦術である。
「それは良い手。生まれ育った環境や前妻の気質から見ても、彼は家庭的な雰囲気には慣れていないと思われる。手料理、着替え……甲斐甲斐しい世話の得点はとても高いはず。テュカの持つきらびやかさとの差がそれを引き立てる」
実際、伊丹が父親代わりにテュカから世話を焼かれていた時、伊丹はまんざらでもなさそうな視線をテュカへと向けていた。そんな健気さに絆されたからこそ、伊丹はテュカのために命がけの炎龍退治に立ち上がったと見ることも出来るのだ。
「料理かぁ……わたしぃはぁ、得意な分野が偏っているのよねぇ」
丸焼き系の料理は作れるが、細かく切ったり、煮炊きするのは苦手だとロゥリィは語った。
それを聞いたレレイは、ロゥリィが大きな毛長牛か猪を、丸焼きにしている光景を想像した。
「それを料理と呼称するのは抵抗を感じる」
「食べられるようにするんだからぁ料理でしょぉ! それを言うレレイはぁどうなのよぉ!」
「出来る。得意」
だが、レレイが得意という言葉を発した途端に、突然現れた誰かが「へっ」と鼻で笑い飛ばした。
「食事など栄養が摂取できれば良いとか言って、全然関心無かった癖によく言うわい。自分の舌に自信がないから処方箋通りにしか作れん。だから魔法の薬の調合みたいな調理法になる。しかもレパートリーが三種しかないから、毎日同じ物が出て来ることになるんじゃ」
突然、ふらりとやってきたカトー老師が皆の前で立ち止まると、レレイの料理を暴露した。
ロゥリィは、レレイが料理という名の魔法の実験をしている風景を思い浮かべた。
天秤に分銅を載せて、塩などの調味料の量を計測。煮立てる時間は砂時計を用いて計り、食材は物差しで測って正確なサイズに切断する。さらにフラスコやビーカーでもってソースを煮詰めて、スープは鉄の大鍋にコウモリの羽だとか、イモリの黒焼きといった得体の知れない物を次々と入れて、太い木の棒で妖しく煮立っている謎の物体をかき回して作るのである。
「それぇ、食べられるものになるんでしょうねぇ」
「無論。師匠で実験済み」
「確かに食えることは食える。だが、四日で飽きて十二日目で苦痛になること請け合いじゃよ。正直、儂はもうコダ村には帰りたくない。またこの娘と生活するかと思うと気が重くてならん。きっとここの種類豊富で、美味い飯に慣れてしまったせいじゃな」
レレイは、ほとんどの仕事を自分達に任せて全くと言って良いほど外に出てこない癖に、こういう時に限って姿を現す師匠に向けて、空気をボール状に圧縮して思いっきり叩きつけた。
だがカトー老師は老人とは思えない軽やかな動作でひらりと躱し、「正確な攻撃じゃ。だがそれ故に予測しやすいのぅ」と言い放った。
「処方箋が足りなければ増やせばよい」
レレイは空気を集めて二個目のボールを作ろうと身構えた。
「料理の方法を学ぶのに時間を割くのはもったいない、栄養が取れれば良いと言っていた娘が、今更よく言うわい。色気づくと女ってのはこうも変わるものなのかのぅ?」
「くっ……変わって何が悪い!? 師匠みたいな大人に言われたくない!」
再度空気のボールを投げつけるレレイ。
「む、儂にも見えるぞ。そこだ!」
カトーは魔法の杖を大きく振りかざすと、それを打ち返した。
スパーンという音とともに、空気のボールはレレイの耳元を掠めて、食堂の戸口から彼方へと飛んでいった。
「ふむ。ほうむらんという奴じゃな」
研究室に隠れていたはずなのに、何をやっていたのかと大いに疑問に思えて来る言動である。
「儂が研究室に籠もっていたじゃと!? 子供の教育やら面倒ごとは全部儂らに押しつけて、仕事やら探索やら男やらにかまけておった奴らに言われとうないわい。こっちは子供の遊び相手までせねばならんかったのじゃ。ま、おかげでニホンという国の『あにめ』やら『げーむ』やら、『すぽーつ』とやらにも触れることが出来たがな」
老師はそう言い残すと、「まだまだ修行が足りんな、ふははははは」と声高らかに笑いながら、料理長から受け取った酒瓶を担いで去って行った。
後には、屈辱でプルプルと身を震わせるレレイが残されていた。
一方、立ち直ったヤオは、関わればまた傷ついてしまう可能性の高い話題から自分を遠ざけようと、栗林と富田に声をかけた。
「珍しく私服とは、クリバヤシ殿とトミタ殿は外出か?」
「そうよ。どうしても伊丹隊長のところに富田を連れて行きたかったんで、テュカの付き添い番を代わって貰ったの」
栗林は、私服の懐に隠したPDW(個人防衛火器)FNP90をちらりと見せると、あたかも連行するかのように引きずっている富田にその銃口を突きつけた。
「トミタ殿を、イタミ殿のところに? それは何かの任務か?」
「ううん。こいつこの間さあ、死亡フラグを立てちゃったのよ。このままにしておくと、石に躓いただけでも死ぬかも知れないから心配でしょうがなくって。だから隊長のところに連れてって、フラグをへし折ってもらおうかと思ってるの」
すると富田は迷惑そうに抗議の声を上げた。
「別に、大丈夫だって言ったろ? だいたい死亡フラグってのが本当にあるんなら、伊丹隊長に会ったぐらいでなんとかなるのかよ!?」
「なるわよ! 隊長より詳しそうなのが側にいたからお伺いをたてたのよ。そしたら、その手の厄種は隊長に押しつけるのが一番なんだって。つまり一種の身代わりね」
「お、押しつける!?」
富田は、栗林の言いようを聞いて額にじわりと脂汗が浮かぶのを感じた。
「そ、それは酷くないか? だいたいどうやったら厄を移せるって言うんだ」
すると、ロゥリィが災厄を避けるために必要とされる儀式について簡単に説明した。
「トミタの前で、ヨウジぃに死亡ふらぐとやらを立てさせればいいのよぉ。そうすれば厄はヨウジぃに移ることになるわぁ」
どうやら、伊丹に死亡フラグを立てさせればよいと嗾けたのは暗黒神の使徒のようである。
「た、隊長に厄を押しつけろって言うのかよ?」
「それが嫌なら、富田が婚姻届を出すって手もあるんだって。死ぬ前に結婚しちゃえば、フラグの前提が成立しないから、フラグは折れたと考えても良いでしょ?」
栗林の確かめるような視線に、ロゥリィは軽く頷いた。
「でも、ボーゼスは今イタリカだよ! すぐに婚姻届なんか用意できねぇよ! だいたい帝国人との国際結婚ってどう手続きするんだ?」
言い返す富田に、栗林がおずおずと答えた。
「しょ、しょうがないから、とりあえずはあたしが妻ってことで届け出をしましょう。言って置くけど、これはあんたの無事のために出すんであって、別にあたしがあんたと結婚したいってわけじゃないんだからね」
栗林は自分の覧に署名捺印を済ませた婚姻届を取り出した。何故か知らないがその顔は真っ赤である。
「そ、それは駄目だろう! 俺はボーゼスと結婚したいってのに、お前との婚姻届を出してどうすんだよ!」
「ちっ、駄目か」
「駄目か、じゃないっ!」
栗林は悪戯の露見した子供のように舌打ちすると、婚姻届を大事そうに畳んで懐のポケットに押し込んだ。その様子を見ると、婚姻届を破棄するつもりはなく、別の機会に使用する心づもりがあるようだ。あきらめが悪いとも言える。
「じゃあ、やっぱり隊長のところに行くしかないわね。隊長に死亡フラグを立てて貰うわよ」
死と結婚という言葉が一つの文脈で語られる意味が理解できなかったテュカ、レレイ、ヤオの三人は、「何の話?」と詳しい解説を栗林に求めた。
「戦闘に突入する前に『この戦争が終わったら結婚するんだ』とか、『今度子供が産まれるんだ』とか、その手の発言をした兵士は、必ず戦死するって言われているのよ。『ここは俺に任せて先に行け』っていうのもダメらしいわ」
ヤオはお守りをぶら下げている胸に手を当てて、「……験担ぎ、ジンクスと称されるものだな。確かにそれは大切だ」と頷いた。
そして「此の身も、日々護符の強化を図っているぞ」と日頃からどんなことを心がけているかを説明した。具体的には、複数の五百円玉を用いた護符を作ったらしい。
レレイは、「もう、三日夜は済んでる。すでに結婚しているのだから、今更結婚するという発言をさせても意味は無い」と唇を尖らせた。だが、彼女の発言は何故か皆からスルーされてしまうのである。
テュカは「お父さんに死亡ふらぐを立てさせてどうするのよ」と、少し青ざめた。そして、ロゥリィの袖を引いて栗林達から少し離れると小声で問いかける。
「ねぇねぇ、大丈夫なの?」
するとロゥリィは、駄々をこねる子供を宥めるように返した。
「エムロイの使徒の立場で言うと、死亡ふらぐなんて関係ないから心配はいらないわぁ。でも物は考えようよぉ。これって絶好の機会なのぉ」
「どういうこと?」
「結婚……再婚なんてぇ考えてもないって態度のヨウジぃに、たとえ嘘でも『この戦争が終わったら、結婚するんだ』って言わせることに成功したらぁ、身近にいるわたしぃ達のことを、そういう意味で意識させることになるって思わない?」
テュカは「そうかな?」と首を傾げた。
「ほんの少しでいいのよぉ。でも、その少しがきっかけとなるのよぉ」
「でも、お父さん。自分が危なくなるって分かっててそんな言葉、口にするかしら」
「大丈夫よぉ。ヨウジぃは部下思いな奴だしぃ、自分は戦場に出ないでベッドで寝ているだけって思ってるからぁ、いろいろぶちぶち言いながらも、きっとこの戦争が終わったらぁ結婚するって口にするわよぉ」
テュカは富田にチラと視線を送りつつ「……そ、そうかもね」と答えた。
「人間って、よっぽどの屑でないかぎりはぁ、たとえ嘘でも誰かに向けて口にした言葉には縛られるのよぉ。そしてヨウジぃは屑じゃないわぁ。だからこれはもの凄く意味のあることなのぉ。嘘から出た実って言葉もあるでしょ?」
テュカは納得したように大きく頷いた。
伊丹に嘘でも良いから今度結婚するんだと言わせることの重要性を理解できたのか、「嘘から出た実」という言葉を何度も呟いている。
傍らで聞いていたレレイの「その論理には破綻がある。そもそも三日夜が成立しているから、結婚する宣言に意味はない。死亡フラグも発生しない」という主張は、またしても皆から無視されてしまった。
レレイは相変わらずの無表情だが、どことなく不満そうな雰囲気を体中から放っていた。
時計をチラと見た栗林が、「そろそろ行かないと」と言い出す。
「と、とにかく無事に隊長のところまではたどり着けますように! はらいたまえっ、きよめたまえっ!」
栗林は、ロゥリィに向けてパンパンと柏手を打つと両手を合わせた。
それを見た富田も、ロゥリィに向けて「ボーゼスと結婚できますように」と呟いて柏手を打つ。死亡フラグ、何それ? と気にしてないそぶりを見せながらも、少しは気にしているらしい。
「そのカシワデって儀式はぁ、何度されても慣れないわねぇ」
気分はいいけれど、とロゥリィは苦笑を見せ、栗林達の祈りを受け止めて掌を二人に向けた。
「戦士達が、道中の危険を察知し、避け、苦難に耐え戦い抜くことが出来ますように」
皆が去ると、レレイだけが食堂の貴賓席に残された。
書き入れ時の終わった食堂内には人気がない。しかも貴賓席は店の奥にあり、外の騒音が入り込まないため大変に静かなのだ。考え事や書類仕事、小説の執筆にはうってつけの環境である。
レレイはテーブルの上いっぱいに書類を広げると、書かれている文字の細部を見比べ、書き込んでは消し、消しては書き込むという作業を繰り返した。
こうして書物や書類に向かっているレレイの姿は、このアルヌスでよく見られるものだ。
研究室に籠もって一人で黙々と書物を読んでいるという印象の強い彼女だが、実のところは机に向かっているより、静かな野外で書物を読むことを好むからだ。
だが「ふぅ……」と小さなため息をついたり、頭を掻きむしったりする姿となると、滅多に見られるものではない。課題の解決にかなり苦心していることが分かる。
何度やっても数字の合わない電卓での計算を諦め、レレイは丸い小石を溝にならべる特地の原始的なそろばんを取り出し小石をつついと指先で弾いた。
「だいぶ、お悩みのようですね」
そんなレレイの前に、湯気をあげる香茶のカップを置く料理長。
かちゃりと甲高い音も小さく抑えて差し出された白磁のカップは曇り一つなく、浅黄色の透き通った液体で満たされていた。
「難しい問題が山積している。その解決をしたい」
「それは、どうやって皆を納得させるか考えてらっしゃるからでしょ? 『門』を閉じるのをやめちまえば楽になりますよ」
「そういうわけにはいかない。このままでは大変なことになる」
「けどその大変なことだって、今日とか明日に起きるんじゃないんでしょ? だったら何も今、皆が嫌がることを無理にする必要はないって思うんですけどねぇ」
「その考え方は間違っている。事態の先送りは問題を大きくするだけ」
「正しいことは、今すぐにしないといけないって意味ですか?」
「違う。皆が嫌がっているのは『門』を閉じることではなく、『門』を閉じる影響で生活が変わること。ならば考えるべきは、生活を変えないで済む方法」
「そんなもの、あるんですかねぇ?」
料理長の訝しげな言葉に、レレイはカップの中身を啜りながら「素案がある」と言ってびっしりと書き込みでいっぱいの書類を彼の前にならべた。
「開拓民を募っていくつかの村を新規に造り、それぞれの村の中心地に自分達の街を造るという計画を考えている。そこに皆の働く場所を創る。その街でなら、このアルヌスと同じ生活を続けていくことも可能」
「まさか!? もしかしてこのアルヌスみたいな街や村を、あちこちに造っちまおうって言うんですか? 俺たちの俺たちによる、俺たちのための街を!? そんな勝手をニホンが許すって思ってるんですかい?」
「許される。このアルヌスには日本という国の『州』という自治体が置かれる予定。日本の制度では、それらの自治体政府は、日本国籍を有する者が選ぶ代表者によって運営される。この土地に住む日本国籍を持つ者とは、私達のこと。つまりこのアルヌスは、ここに住む私達のものという意味」
「ええっ!? ニホンから代官とか総督とか領主が来て支配するのと違うんですかい!?」
「最初は、行政長官が来る。けれどいずれは、今説明した方式へと移行されていく」
「そんなのあり得っこないですぜ。絶対に無理だ。だいたい村や町なんて代物をどうやって造るってんですかい!?」
「もともと組合は、コダ村の再建計画を立てていた。それを大規模に行えばよい。お金はいくらあっても足りないけれど、上手く切り詰めればなんとかなる。住民も種族を問わず募集する。きっとあちこちから多くの種族が集まる。ドワーフ種も、セイレーン種も、エルフもキャットピープルも、ヴォーリアバニーも。様々な種族がこの地に興味を持っている。もちろんヒト種も。あとは実行するだけ。これならば、『門』がなくなっても大丈夫と皆を説得できる。困難な事業だけどやる価値はきっとある」
「……初耳ですぜ。どうしてその話をもっと早くにしなかったんですかい?」
「日本の政府と条件交渉をしていた。確かなことが言えないのに、皆をぬか喜びさせたくない」
「けど、そんなのうまく行くはずがないですぜ。だいたいそれだけ美味い話があるってのなら、腹黒い連中が入り込んで来て、しっちゃかめっちゃかにされちまうでしょう? このアルヌスだって、最初の頃はいろいろあったじゃありませんか!? それを何カ所も一度にだなんて、思ったように行くわきゃない!」
料理長は、首を横に振る動作を繰り返して、あたかも自分に言い聞かせるように「うまくいくわけない」と繰り返した。
それは、いい話があると持ちかけられた儲け話を、理解できないから悪徳商法だと頭から決めつけて断ろうとする、新米商人の姿に似ていた。
一般消費者が悪徳商法の被害に遭わないようにするためならば、その対応は正しい。
だが商人であるなら、舞い込んでくる儲け話を頭から拒絶して耳を貸さないようでは失格と言えよう。
ましてやこれは物の売買にまつわる話でなく、自分達の将来を決める重要な提案なのだ。分からないから最初から耳を貸さないという態度をとれば、自分の未来を自分で決める権利を放棄するのに等しい。それはつまり、他人に良いように操られることを意味しているからだ。
もちろん、料理長のみを責める訳にはいかない。
レレイの語った内容はあまりにもスケールのでかい話で、普通の特地人に理解できるものではないからだ。いみじくもレレイ自らが語ったように、じっくりと丁寧に話をして、相手の理解度に合わせて説明をする努力が必要となる。
「だからこその『門』。『門』が閉じられている間に、しっかりとした土台を固めてしまえばよい。最近になって増えてきた戦災難民対策にも繋がるから、賛同を得やすい」
だがレレイはレレイで、物事を説明するのに言葉が少な過ぎるという悪癖を持っていた。しかも頭の回転の速さが悪い方に働いて、すぐに話題が次のことへと飛んでしまうのだ。
「……ところで、これは何? はじめて飲んだ」
「そ、それはナルコという香草でさあ。極北の草原でしか手に入らない珍しいものらしいです。この間、行商人が持って来ましてね、試してみて欲しいっていうんで仕入れてみました。どうです?」
「ナルコ? 聞いたことがない」
レレイは頷くと、さらに一口含んだ。
「よい味と香り」
レレイにしては珍しく、うっとりとした表情を作る。
「気に入ってもらえたみたいでよかった。レレイさんですら知らないものがあったんですなぁ。もしご存じだったらどうしようかと冷や冷やしましたよ。実はナルコっていうのは、眠りを誘う薬草なんですよ」
途端にカップが床に転がって、レレイがテーブルの上に倒れ込む。
床や書類が、こぼれたナルコ茶に浸されて薄緑に染まっていった。
「効き目もばっちりだ」
木の床を蹴る靴音が近づき、三つの影が小さな寝息を立てるレレイを覆った。
「この娘がそうなのか? 噂で聞いただけではどんな女丈夫かと思っていたのだが、見れば年若い小娘だ。拍子抜けしたぞ」
「しかしながらメトメス殿、この娘もまた炎龍討伐の英雄の一人なのです」
パナシュは侍従に扮したディアボに向けてそう説明すると、手早くレレイの足首、両腕を縛り上げて猿ぐつわを噛ませた。
ただ力任せに縛るのではなく、血の巡りが止まらないように慎重に力の入れ具合を調整している。しかも衣服の裾が乱れないようにという配慮をするのも、パナシュが女性だからであろう。
「確かに。この土地に自分達の国を作ってしまおうとは、とんでもなく壮大な気宇の持ち主ですねえ……いや、気宇の持ち主だ」
ディアボを演じている侍従メトメスの感心したような物言いを、ディアボ本人は鼻で笑い飛ばそうとして失敗した。彼もまた、レレイの語った言葉を妄想と笑い飛ばせない何かを感じていたからである。
『門』を失うからには日本との商売も終わる。商いの規模を小さくするしかないと、皆が悲観的になって項垂れていく中で、いっそのことこの新天地に街や村を興して、自分達の住みやすい環境を作ってしまえという大胆な構想力に圧倒されたのだ。
「こういう出会い方でなかったら、この娘に『政』について意見を語らせてみたかった」
「この歳で導師号を得た賢者です。きっと、帝国の柱石となってくれたでありましょう。今からでも遅くないと思いますが?」
今が後戻りする最後のチャンスであることを、パナシュは軽く仄めかす。だがディアボは誘惑を振り払うように言った。
「いや。我々に残された道は、最早これしかない」
「箱の方も用意は出来てますぜ」
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