そして彼らは伝説へ―異世界転移英雄譚―

長月十六夜

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第4章 さよなら、平穏

みんながいれば、大丈夫

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 暗澹とした底なし沼に気持ちが沈んでいた涼風は、新鮮な酸素を求めるように無意識に窓際に近づいた。湖の水面を撫でて吹き抜ける爽やかな風が涼風の長い髪を小さく揺らす。柔らかな冷たさと澄んだ心地よさに涼風は少しだけ表情を和らげた。

(こんな気持ちの時は、いつも兄さんが声を掛けてくれたっけ)

 涼風は目を閉じた。俯いた涼風の頭をぞんざいに、けれどどこか優しく撫でる大きな掌の感触が思い起こされる。その思い出は、もうあの頃には戻れないという寂しさこそあったが、自分の記憶の中にいる兄に守られているという心強さも明瞭と感じられた。

 背中を後押しされた気がして、それまで自閉的になっていた涼風は少し驚いた様子を見せてから、漸く教室の賑やかさに気づく。

 悟志は元の世界から持ち込んだメモ帳に向かってペンを動かし続けている。真面目で几帳面な彼は、授業の合間はいつも復習を欠かさなかった。

 その隣の席で、颯磨は物憂げに頬杖をついている。休み時間といえば、颯磨は人知れず教室を出て行くか、よくこうして呆と物思いに耽っていた。

 教壇の前では、美兎がエーリッヒやテオと談笑していた。思いやりと気遣いができる彼女は、いつだって誰かの笑顔に囲まれていた。

 シエラとロザリーも他愛ない雑談に興じている。元の世界で慣れ親しんでいた学校の教室がそうであるように、この場所もまた平穏な雰囲気に包まれ、少年少女達の活気や笑い声に溢れている。ここは確かに異世界に違いはなかったが、この場所だけは、涼風や他の幼馴染達にとって懐かしくもあり、なじみ深くもあり、心許せる場でもあった。

 だからかもしれない。中学生だった頃の、竹馬ナイン全員で集まることが当然だった教室の情景を涼風は幻視した。優しくて、温かい、けれど何気ない日々。年月とともにその日常は変わってしまったけれど、涼風の心許せる友人達の在り様は変わっていなかったし、彼女が友人達に抱く親愛の気持ちも変わっていなかった。

 今はもう取り戻せない大切な人や友人達との思い出。けれど思い起こす度に明日を生きる勇気が、自信が、心強さが湧いてきて、沈み切っていた気持ちがフッと軽くなっていくのを涼風は感じた。

(兄さんやネフェや、みんなとの思い出が、私を勇気づけてくれる。みんながいれば、私は大丈夫)

 涼風の心に息づく彼女の兄とネフェの姿が網膜に投影される。二人の幻に対して、涼風が再び大丈夫と小さく口にすると、安心したように表情を和らげて、音もなく姿を消していく。その様子を見送りながら、涼風は決意を新たにしていた。

 人が生きていること、死んでいくことは、誰かにとって意味がある。取り戻せない辛さと悲しみに心痛めても、大切な誰かとの思い出を失くしてはならないのだ。涼風がそうであるように、その思いは今日を生きる自分を確かに変えていくのだから。

 いつかデルマやソフィーがネフェとの思い出を取り戻し、一緒に語り合える日が来ることを信じて、涼風はネフェの死を心に刻むのだった。

「――良かった。すずちゃん、漸く笑ってくれた」

 涼風の眼前にいつの間にか美兎が佇んでいた。心の底から安堵する美兎の柔らかな笑顔に涼風は涙が出そうになったが、何とか堪えてみせた。どこか頑固さのある涼風は、今更とはいえ人前で涙を見せることを良しとしていなかったからだ。

「ありがとう。美兎の……みんなのおかげよ。私、大丈夫だから」

 取り乱し、自分を見失っていた涼風に、彼女本来の冷静さや凛とした雰囲気が戻ったことを見て取って、幼馴染達は皆表情を綻ばせた。颯磨が授業再開を宣言し、生徒達は各々の席に戻っていく。

 涼風も自分の席に着こうとした瞬間、ここにはいないはずのソフィーの声を微かに感じ、立ち尽くす。何故を問う前に、涼風は神経を研ぎ澄ませて、朧げにしか聞き取れなかったソフィーの声を注意深く拾い上げようとする。

 ――助けて、スズカお姉ちゃん!

「……ソフィーが、呼んでる」

 躊躇することなく走り出し、涼風は集会所を出て行った。切迫した様子に胸騒ぎを感じ、剣臣達は戸惑いながらも涼風の後を追った。
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