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第1章 目の覚めるような美女、目のやり場に困る美女
いつもよりちょっと賑やかな朝
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カーテンが開け放たれた窓から、押し売りのような太陽光が降り注ぎ、眩しさのあまり微睡みから覚醒した。
「こ、ここはどこだ? 僕は一体……は⁉ まさか、また世界線を越えてしまったのか⁉」
「おっはよー昂良ちゃん! 私はしたり顔で異世界転移のあらましを説明する女神花乃。かわいいからって惚れちゃダメだぞ?」
「導入からウザい女神様だ」
というか、毎度ピッキングして人の部屋に侵入し、悪びれることもないとは。神を自称するだけに人間には理解できない独特な倫理観を持つらしい。
「ここは剣と魔法……ではなく、労働と納税で生き抜く世界。あなたはスキルもチートもパラメータ表示能力もない徒手空拳だけど、何も持っていないからこそ、無限の可能性を秘めているよねとか気休めを言ってみたりする。さぁ! 今日も元気に働いて、生きるための身銭を稼ぎ、国と地方公共団体に税金を納めましょう」
「夢も希望もない世界だった……もう一度世界線を越える旅に出よう」
「はいはい、二度寝しなーい。ほら早く起きて。今日は稟ちゃんの手料理が食べられる初日でしょ」
「稟ちゃん? 誰だっけ?」
花乃は目を白黒させる。
「え、昂良ちゃん、世界線越えた所為で記憶失くしちゃった? 古戸森稟ちゃんだよ。昨日、新しく雇ったじゃない?」
「……嗚呼、苗字で呼んでたから気付かなかった。何だ、初日の朝っぱらからもう働いているのか」
「昂良ちゃんと違って早起きで偉いんだよー。それに思い切りが良いよね。初日から仕事できるようにって、荷物もまとめて来てたんでしょ?」
「荷物といっても最低限の生活必需品だけだったけどね。採用から数分で東邸に引っ越しをさせてほしいと願い出を受けたときは、泰然自若の申し子たる僕もさすがに驚いた」
もはや押しかけ女房状態となってしまった古戸森さんに対するラムネの猜疑心は頂点に達した。荷物は駅前の小さなコインロッカーに納まる程度の鞄一つだけで、持ち運びできない家財は処分してきたらしいし、ラムネでなくとも疑念を抱くのは仕方ないところで、同居人達を説き伏せるのにはかなり骨が折れた。古戸森さんにしてもそれは重々承知しているから、早く信頼を得るためにも初日から全力傾注で仕事に励んでいるのだろう。少なくとも表面的には。
けれど、いくら素性が知れないとはいえ、あんな超絶美人に嫌疑をかけて、四六時中監視せねばならないとは……多勢に無勢でしぶしぶ承諾してしまったことが今更ながら悔やまれる。
単衣の長着姿で自室を出ると、前日の春うららが嘘のような肌寒さに身震いしてしまう。
「寒! 美女の温もりを処方してもらわないと風邪をひいてしまいそうじゃないか」
「えー、しょうがないなぁ。そういうところ、相変わらず甘えん坊だよね昂良ちゃん」
「いや、スタンばってるところ悪いけど花乃には頼まないから」
「それはそれでちょっと悔しい――あ、ミサちゃんだ」
ミサちゃん、という可愛いあだ名には全く似つかわしくないガタイの良い男が苛立たしげに中庭で仁王立ちしていた。三砂勲道は九波と同じく柊家お抱えの忍びの一人で、僕の同級生でもある。強面で眼つきも悪く、さらに口調も粗暴だけど、性根は善良で義理人情に篤い古風な男だ。
「ミサ、機嫌悪そうだから挨拶は後にするよ」
「ふざけるな! お前が起きるのを待ってたんだぞ! ウダウダしてないでさっさと起きてこい! それとその呼び方もやめろって言ってるだろうが」
「ははは、どれも何を今更って感じだ。で、用件は?」
行き場のない憤懣を吐き出すように大きな溜息をついてからミサは話し出す。
「ラムネの指示どおり古戸森稟の背後関係を洗ったが、組織レベルの関与はない。勿論、蘭家も今回は無関係だった」
「……なんだ、その話か。蘭は性悪だけど、舌の根も乾かない内に同じ趣向に走るほど芸無しじゃないよ」
「散々やり込められている割に評価してるよな、お前。とにかく、身辺調査は継続中、並行して古戸森稟の行動は逐一監視しているが、怪しい動きは今のところない。その報告だ」
「何度も言うようだけど、僕はまったく心配していない。彼女の言動から柊家に対する敵意は感じられないし、家人に危害を加える意図もなさそうだからね。それにこの件はラムネに一任してある。いちいち僕に報告する必要はないよ」
「だがラムネの性格上、お前を通さないと物事が進まない。とりあえず定時報告だけは聞いてもらう」
「えー、やだなぁ。それじゃ僕が裏で手を引く黒幕みたいで感じ悪いじゃないか」
「稟ちゃんにバレたら確実に嫌われちゃうね」
弾ける笑顔で不穏当なことを口走る花乃。個人のプライバシー権が声高に叫ばれる昨今、尾行や監視なぞ如何な理由であっても許容されることではない。僕は俄然、危機感を抱いた。
「いいかミサ! 絶対バレるなよ⁉」
ここで即刻中止を言い渡せないところが心苦しい。何せここは民主主義の国。家長だからって多数決で決めた事柄を蔑ろにするわけにはいかないのである。
ミサは太々しいほどに胸を張った。
「ふん、安心しろ。俺はプロだ。万が一にも民間人に気取られることはない」
「威張ってるけど、やってることは正真正銘ストーカーだから、この国のルール上では情状酌量の余地がないギルティなミサであった」
「お前がやらせてるんだろうが!」
「あー! そう思われるが嫌だったんだよ! これは心配しいのラムネの方針だっての。いや、そんなことより聞き捨てならない点に気づいてしまった! ミサが古戸森さんの監視、つまり着替えや入浴までをも覗いているんじゃないかという重大嫌疑だ!」
「仕事だ。別に下心はない」
「そういう問題じゃない。女性の裸体を真顔で見てるミサなんて、何とも形容しがたい不気味さだよ。監視するならせめて花乃に任せなさい。裏社会が仕事場の隠密と言えども、表社会の最低限の倫理は遵守してもらう」
「そうだよミサちゃん。世の中にはプライバシーっていう個人の聖域があってね」
「どの口がプライバシーを語るんだ……で、ミサと花乃がここにいるってことは、今は誰が古戸森さんに張り付いている?」
この家の同居人たる乱波透波の末裔達は十人。だが今は仕事が立て込んでいて、ほとんどが出払っている状態だ。九波以外に残っている奴と言えば――
「待て……素晴しかいないじゃないか」
「屋内はどうしても接近せざるを得ないからな。初対面でも懐に入り込める奴が適任だ」
「非常にまずい! 古戸森さんの身が危ない」
カーテンが開け放たれた窓から、押し売りのような太陽光が降り注ぎ、眩しさのあまり微睡みから覚醒した。
「こ、ここはどこだ? 僕は一体……は⁉ まさか、また世界線を越えてしまったのか⁉」
「おっはよー昂良ちゃん! 私はしたり顔で異世界転移のあらましを説明する女神花乃。かわいいからって惚れちゃダメだぞ?」
「導入からウザい女神様だ」
というか、毎度ピッキングして人の部屋に侵入し、悪びれることもないとは。神を自称するだけに人間には理解できない独特な倫理観を持つらしい。
「ここは剣と魔法……ではなく、労働と納税で生き抜く世界。あなたはスキルもチートもパラメータ表示能力もない徒手空拳だけど、何も持っていないからこそ、無限の可能性を秘めているよねとか気休めを言ってみたりする。さぁ! 今日も元気に働いて、生きるための身銭を稼ぎ、国と地方公共団体に税金を納めましょう」
「夢も希望もない世界だった……もう一度世界線を越える旅に出よう」
「はいはい、二度寝しなーい。ほら早く起きて。今日は稟ちゃんの手料理が食べられる初日でしょ」
「稟ちゃん? 誰だっけ?」
花乃は目を白黒させる。
「え、昂良ちゃん、世界線越えた所為で記憶失くしちゃった? 古戸森稟ちゃんだよ。昨日、新しく雇ったじゃない?」
「……嗚呼、苗字で呼んでたから気付かなかった。何だ、初日の朝っぱらからもう働いているのか」
「昂良ちゃんと違って早起きで偉いんだよー。それに思い切りが良いよね。初日から仕事できるようにって、荷物もまとめて来てたんでしょ?」
「荷物といっても最低限の生活必需品だけだったけどね。採用から数分で東邸に引っ越しをさせてほしいと願い出を受けたときは、泰然自若の申し子たる僕もさすがに驚いた」
もはや押しかけ女房状態となってしまった古戸森さんに対するラムネの猜疑心は頂点に達した。荷物は駅前の小さなコインロッカーに納まる程度の鞄一つだけで、持ち運びできない家財は処分してきたらしいし、ラムネでなくとも疑念を抱くのは仕方ないところで、同居人達を説き伏せるのにはかなり骨が折れた。古戸森さんにしてもそれは重々承知しているから、早く信頼を得るためにも初日から全力傾注で仕事に励んでいるのだろう。少なくとも表面的には。
けれど、いくら素性が知れないとはいえ、あんな超絶美人に嫌疑をかけて、四六時中監視せねばならないとは……多勢に無勢でしぶしぶ承諾してしまったことが今更ながら悔やまれる。
単衣の長着姿で自室を出ると、前日の春うららが嘘のような肌寒さに身震いしてしまう。
「寒! 美女の温もりを処方してもらわないと風邪をひいてしまいそうじゃないか」
「えー、しょうがないなぁ。そういうところ、相変わらず甘えん坊だよね昂良ちゃん」
「いや、スタンばってるところ悪いけど花乃には頼まないから」
「それはそれでちょっと悔しい――あ、ミサちゃんだ」
ミサちゃん、という可愛いあだ名には全く似つかわしくないガタイの良い男が苛立たしげに中庭で仁王立ちしていた。三砂勲道は九波と同じく柊家お抱えの忍びの一人で、僕の同級生でもある。強面で眼つきも悪く、さらに口調も粗暴だけど、性根は善良で義理人情に篤い古風な男だ。
「ミサ、機嫌悪そうだから挨拶は後にするよ」
「ふざけるな! お前が起きるのを待ってたんだぞ! ウダウダしてないでさっさと起きてこい! それとその呼び方もやめろって言ってるだろうが」
「ははは、どれも何を今更って感じだ。で、用件は?」
行き場のない憤懣を吐き出すように大きな溜息をついてからミサは話し出す。
「ラムネの指示どおり古戸森稟の背後関係を洗ったが、組織レベルの関与はない。勿論、蘭家も今回は無関係だった」
「……なんだ、その話か。蘭は性悪だけど、舌の根も乾かない内に同じ趣向に走るほど芸無しじゃないよ」
「散々やり込められている割に評価してるよな、お前。とにかく、身辺調査は継続中、並行して古戸森稟の行動は逐一監視しているが、怪しい動きは今のところない。その報告だ」
「何度も言うようだけど、僕はまったく心配していない。彼女の言動から柊家に対する敵意は感じられないし、家人に危害を加える意図もなさそうだからね。それにこの件はラムネに一任してある。いちいち僕に報告する必要はないよ」
「だがラムネの性格上、お前を通さないと物事が進まない。とりあえず定時報告だけは聞いてもらう」
「えー、やだなぁ。それじゃ僕が裏で手を引く黒幕みたいで感じ悪いじゃないか」
「稟ちゃんにバレたら確実に嫌われちゃうね」
弾ける笑顔で不穏当なことを口走る花乃。個人のプライバシー権が声高に叫ばれる昨今、尾行や監視なぞ如何な理由であっても許容されることではない。僕は俄然、危機感を抱いた。
「いいかミサ! 絶対バレるなよ⁉」
ここで即刻中止を言い渡せないところが心苦しい。何せここは民主主義の国。家長だからって多数決で決めた事柄を蔑ろにするわけにはいかないのである。
ミサは太々しいほどに胸を張った。
「ふん、安心しろ。俺はプロだ。万が一にも民間人に気取られることはない」
「威張ってるけど、やってることは正真正銘ストーカーだから、この国のルール上では情状酌量の余地がないギルティなミサであった」
「お前がやらせてるんだろうが!」
「あー! そう思われるが嫌だったんだよ! これは心配しいのラムネの方針だっての。いや、そんなことより聞き捨てならない点に気づいてしまった! ミサが古戸森さんの監視、つまり着替えや入浴までをも覗いているんじゃないかという重大嫌疑だ!」
「仕事だ。別に下心はない」
「そういう問題じゃない。女性の裸体を真顔で見てるミサなんて、何とも形容しがたい不気味さだよ。監視するならせめて花乃に任せなさい。裏社会が仕事場の隠密と言えども、表社会の最低限の倫理は遵守してもらう」
「そうだよミサちゃん。世の中にはプライバシーっていう個人の聖域があってね」
「どの口がプライバシーを語るんだ……で、ミサと花乃がここにいるってことは、今は誰が古戸森さんに張り付いている?」
この家の同居人たる乱波透波の末裔達は十人。だが今は仕事が立て込んでいて、ほとんどが出払っている状態だ。九波以外に残っている奴と言えば――
「待て……素晴しかいないじゃないか」
「屋内はどうしても接近せざるを得ないからな。初対面でも懐に入り込める奴が適任だ」
「非常にまずい! 古戸森さんの身が危ない」
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